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第二十一話 王都炎上・後編

「はい、います。――ここに、二人」


澄んだ声が凛と響いた。


私は、思わず姉を見上げた。


(二人……!)


その一瞬、鐘楼の轟音も、すべてのざわめきが遠のく。

教室中の視線が集まるなか、姉は真っ直ぐ前を見据え、静かに頷いた。


その横顔は誰よりも澄んでいて。

光に透けて、掴もうとすればすり抜けてしまいそうに見えた――。


騎士の鎧には新しい凹みがあり、額から血が流れ、鉄と血の匂いが漂っていた。

肩で息を荒くし、遠くの角笛の音が重なり――すでに戦いは始まっている。


騎士は姉を見つめて顎を引くと、振り向きざまに叫んだ。


「今なら北門を抜けられる。

 よし、二人、ついて来い!」


私は凍り付いた。


(えっ……あの場所を、抜ける!?)


刹那、姉の手が私の手を強く包んだ。


「姉さん……!?」


姉は小さく微笑み、揺るぎない瞳で私を見つめた。

その光に息を呑む。


「行くよ、セレナ!」


私は驚きながらも、ただ手を引かれ、走る姉の後ろを追った。


足は竦んでいたのに、姉の手が強く引けば勝手に前へ動いていく。

視界が揺れて吐き気がこみ上げても、それでも離したくなかった。


だって、姉は「二人」と言ってくれたから。


こんな時なのに――どこか嬉しくて。

姉の背を守るのは、私なんだ。あのふたりきりの小さな冒険のように。

そう信じられたから。


駆け出した私たちの背後で、甲高い声が張り上げられた。ジュリアンだ。


「みんな、僕たちも戦おう! 王都を守るんだ!」


「……僕だって戦うぞ!」

「……私だって、みんなを守るんだから!」


「待ちなさい! 君たちは南へ避難――」


先生の声が遠く沈んでいき、角笛と叫び声、泣き声、鉄のぶつかり合う音……

すべてが渦を巻いて押し寄せ、何がどうなったのか、もうわからなかった。


(……怖い……でも、姉さんがいる)


そのときの私には、姉とつないだ手だけが世界の全てで。

けれど、自分の足音だけが、やけに鮮明に響いていた。


***


北門へ続く大通り。

私たちは先導する騎士の背を追いながら駆けた。


ほんの数刻前まで市の賑わいに包まれていたはずの通りは――

一変していた。


そこは、地獄だった。


北から逃げてくる荷馬車が軋みを上げ、積み荷も人もぶつかり合いながら押し寄せてくる。

転げ落ちた果実が踏み潰され、赤や黄の汁が石畳に飛び散る。

泣き叫ぶ声、命乞いする声、怒号、すすり泣き……無数の声が重なり、まるで空気そのものが叫んでいるようだった。


北門へと駆け込む騎士や兵士と、南へ逃げる人々の奔流がぶつかり合い、怒声と喚き声が交錯する。

盾の縁に弾かれた子供が泣き叫び、馬の嘶きに母親の悲鳴がかき消される。

石畳のあちこちには血の斑点が散り、焦げた匂いと汗と鉄の匂いが渦を巻いて鼻を突いた。


私は立ち止まった。


「……セレナ……」


姉が振り返り、騎士も思わず足を止める。


胸がひゅっと縮み、足がすくんで一歩も動けない。

耳の奥で自分の鼓動がやかましく鳴り、周囲の喚き声と混ざって、何が何だかわからない。


視界のすべてがぐらぐらと揺れ、吐き気とめまいが一度に襲ってきた。

――立っているだけで、押し潰されそうだった。


(こんなの……これが、戦争なの……?)


***


そのとき、道路脇から切羽詰まった叫び声が耳を裂いた。


「だれか! お願い、助けて!」


瓦礫の陰に座り込む母親が、小さな子供を抱き締めていた。

その手は血に染まり、子供の胸はかすかに上下している――

次の瞬間、腹部に広がっていく赤が目に飛び込んだ。


「っ……!」


(――このままじゃ死んじゃう。助けなきゃ!)


私はせいいっぱいのかすれた声で姉に叫んだ。


「ちょっと待って、姉さん! あの子――」


だが、騎士が鋭く声を張った。


「ダメだ! 時間がない! 急ぐんだ!」


彼の声が冷たく胸に突き刺さった。


母親は子供を抱き締めたまま、涙に濡れた顔を上げて叫ぶ。


「お願い……この子だけでも……!」


(見捨てろなんて……そんなの……!)


胸の奥から「いやだ、助ける」と叫びがせり上がり、喉まで熱くなった――

私が声を上げかけた刹那、姉が前へ一歩進み出た。


「すぐに終わります」


その声音は、驚くほど静かで、有無を言わさぬ強さだった。


次の瞬間、姉の周囲の空気が張り詰める。

血と瓦礫の喧噪が押し返され、ただその一角だけが静謐な聖域に変わったように感じ――

凛と立つ姉の姿は、光に縁取られた幻のようで、まるで絵本の聖女そのものだった。


誰かが小さく息を呑む気配さえ、はっきりと耳に届いた。


姉はしゃがむと、迷いなく手を差し伸べる。

白光が姉の掌から溢れ、血に染まった子供の身体を包み込むと――

みるみるうちに裂けた肉が閉じ、失われかけた鼓動がよみがえる。


「あっ……!」


母親の腕の中で、子供がかすかに呻き、ゆっくりと瞼を開いた。


「……っ、よかった……!」


母親の顔が崩れ、嗚咽と笑みが入り混じる。

その瞳は、まるで神様を見るかのように小さく微笑む姉を見上げた。


「これほどの癒しの技……これまで見たことが無い。

 君は……いや、あなたは……何者だ……?」


目を見開いた騎士が、呆然と声を漏らした。


「まさか……最近耳にした……あなたが”聖女様”なのか!」


姉は短く首を振り、母親へ言葉をかける。


「すぐに南へ逃げて。もう大丈夫」


母親が礼を言うより早く、私たちはまた走り出した。


視界の端には、足を引きずりながら歩く市民、壁にもたれ血に染まる女性の姿。

助けを乞うような目が無数に追いかけてくる。


胸を掴まれ、何かに締め付けられるようだった。


止まりたい。もっと助けたい。けれど止まれば――姉の背を見失ってしまう。

足を震わせながらも、私はただ必死にその背を追った。


「……お願いです。あれを最後にしてください。北門へ、一刻も早く……!」


騎士の声は震えていた。

それでも彼は、進むしかないのだと――私はそう思った。


私の胸は痛みで締めつけられながらも――姉の背中を見失わぬよう、ただ必死で走り続けた。


***


やがて、北門が視界に迫ってきた。

巨大な門扉は粉々に砕け散り、楼閣も崩れ落ちている。

立派だった楼門は影も形もなく、ただの瓦礫の山と化していた。


(……っ)


再び足が止まりそうになった。

さっき学舎の窓から見た、あの墜落した巨大な影が目に飛び込む――。


竜の死骸が石畳を押し潰し、焦げた鱗と鉄錆、血の匂いを撒き散らしながら横たわっていた。

翼は焼け爛れ、鱗は砕け、牙を剥いたまま動かない。

裂けた腹から滴った血が、赤黒い染みとなって石畳にじわりと広がっている。

その周囲ではまだ炎がちろちろと燃え、熱気と煙が絶え間なく立ちのぼっていた。


散乱した槍や折れた盾の間には、動かない人影がいくつも転がっている。

傍らに倒れた黒ローブの魔導士の杖――鉤爪のような先端の宝石だけが、不気味に光を放っていた。


「……あれは……」


息を呑むと同時に、先導の騎士が短く告げる。


「足を止めるな! ここを抜けるぞ!」


「……っ」


喉がごくりと鳴る。膝が震え、息が苦しい。

足元がふらつき、破裂しそうな心臓が逃げ出したがっているようだった。


「セレナ、大丈夫。――わたしがいるから」


もう現実なのか夢なのか分からない。

それでも――ただ一つ確かな姉の手に導かれ、私は一歩を踏み出した。


***


北門を出ると、ついさっきまで戦場だった場所を私たちは駆け抜けた。

剣や盾、戟や槍が無造作に地面へ突き刺さり、地平には黒煙がうねりを上げる。

燃え上がる荷馬車、倒れ伏した人や馬、そして巨大な魔物の躯が無惨に転がり、赤や黒の血が石畳を濡らしていた。


――動くものは、何ひとつなかった。


ただ必死に、震える足を前へ運び、私は姉と共に騎士の背を追い続けた。


やがて、瓦礫の影を抜けた先に――白布の天幕が現れた。

血と煙に満ちた戦場にあって、その白さは逆に目を刺すほど清らかに浮かんで見えた。


騎士がふと足を止める。

私も肩で息をつきながら立ち止まり、姉と顔を見合わせた。

一瞬だけ迷う気配を見せた後、彼は低く決意を込めて呟く。


「……あなた様を野戦治療に回すわけにはいかない。

 まずは、指揮官に会っていただく」


(え……!? 指揮官に……? そんな……私たちが……?)


「――ここだ!」



騎士に先導されて踏み込んだ天幕の中。


中央の机には、王都を模した精巧な模型が広がり――

その周囲を、押し黙った騎士たちが取り囲んでいた。


そして机の正面に立つ三人の男。


(……これが、王国軍の最前線……)


息を呑み、立ち尽くす。

姉も言葉を失い、ただその光景を見据えていた。


静寂を破るのは、誰の声なのか――それすら分からぬまま。

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