第二十話 王都炎上・前編
窓からのあたたかい陽射しに、のどけさを感じるある日のこと――。
午前の座学の終わりかけに、姿勢よくノートを取る姉の隣で――
私は少し眠気を覚えながら「お昼は、偶には限定のキッシュにしよう」などとぼんやり思っていた。
アカデミーは小高い丘の上。王都が一望できるこの窓辺は、ぼーっとするにはいちばんだ。
頬杖の向こう、姉の肩越しに広がる街並み。
(今日も平和だな……)
まどろみに落ちそうになる瞼の下、街並みの彼方。
楼門の向こうに、細い白い筋がゆらりと空へと立ち上っていく。
(……あれ、煙……? 火事……?)
半分夢の中のように、ただぼんやりと眺めていた――その時。
カーン……カーン……カンカンカン――!!
心臓が跳ね、私は思わず椅子から飛び上がった。
教室の窓硝子が震え、胸の奥を直撃するような衝撃音が走った。
王都中の鐘楼が一斉に鳴り響く。
耳を裂く非常の音色は、街全体が悲鳴を上げるように轟き渡った。
(こんな音、一度も聞いたことない!)
教師の手は止まり、教室はざわめきに包まれる。
そこへ、血相を変えた教師が駆け込んできた。
「王都北門に――魔族の大軍が迫っている!」
短く切り裂くような叫びに、教室の空気が凍りついた。
(北……!?)
一瞬、時が止まったように誰もが動けなかった。
「ひっ……」
小さな悲鳴があちこちから漏れる。
椅子が軋み、誰かがペンを落とす乾いた音が響いた。
隣に座る姉は、顔を上げたまま。
瞳に一瞬だけ怯えの色が浮かんだが、すぐに強く結ばれた唇で隠してしまう。
その毅然とした横顔に、かすかな震えさえも封じ込められていた。
私はその横顔から目を離せなかった。震えていたのは、私の方だ。
胸の奥でざわめく恐怖が、姉の姿に縋りつこうとしていた。
(姉さん……)
*
ついさっきまで、教室にはチョークが走る音と紙をめくる音しかなかった。
その静けさを破って、生徒たちは我先に窓際へ殺到し、肩と肩がぶつかり合う。
姉は窓の向こうから視線を逸らさぬまま立ち上がり、私も姉に並んで窓辺に立った。
さっきまでと何もかも変わってしまった光景に、私は思わず息を呑んだ。
――北門の方角。
赤黒い煙がもうもうと立ちのぼり、建物の屋根を炎が舐めている。
そこに、絵本でしか見たことのない漆黒の影が二筋、空をうねりながら横切った。
「嘘……でしょ?」
「あれは……竜……!?」
誰かが震える声で言った。
私もごくりと唾を飲み込み、姉の裾をぎゅっと掴む。
胸の鼓動が耳の奥でやかましく鳴り、足の先が冷えていく。
姉は口元を抑え、硬直したまま窓に釘づけになっていた。
「きゃあっ!」何かが倒れる音。誰かの悲鳴。別の誰かが泣き叫ぶ。
振り向けば、誰かの机のインク瓶が倒れて染みを広げている。
鐘の残響と混ざり合い、何が鳴っているのかも分からない。
胸は苦しいほど早鐘を打ち、喉が張り付いて声が出なかった。
炎をまとった二頭の飛竜が咆哮し、真っ赤な舌のような火炎が伸びて石畳を薙ぎ払う。
炎の舌が舐めるたびに、あらゆるものが燃え上がる。
その下を、豆粒のように小さく見える人々が四方に散り、悲鳴がここまで届いた。
背筋が氷のように冷え、私は思わず姉の袖を強く握り直した。
「魔王軍の……奇襲!?」
「……王都まで来るなんて!」
「そ、そんなことが!?」
「……勝利を重ねてるって……この間凱旋したばかり……」
ふと城壁の上に目をやれば、等間隔に並ぶ大きな影から黒い煙が立ちのぼっていた。
燃え上がる炎に包まれ、そこには動く気配はもうない。
そのとき、学友の鋭い叫びが鼓膜を貫いた。
「……く、来る!!」
一頭が進路を変えた。炎を吹きつけ、進路にある家々の屋根が吹き飛ぶ。
窓際にいた生徒たちは一歩、二歩と後ずさる。
私も腰が引け、近付く竜を見つめたまま、一歩も動かない姉の裾を震える手でぎゅっと掴んだ。
(逃げなきゃ……! ね、姉さん……!)
足は後ろへ逃げようと震え続けるのに、指先だけは必死に裾を離せなかった。
胸は張り裂けそうで、喉は固く塞がれ、声すら出せない。
――走り出したいのか、踏みとどまりたいのか。
自分でも分からなかった。
「セレナ、大丈夫よ」
姉の言葉が落ちた。
次の瞬間――
天を震わせる轟音と共に、楼門の上から稲妻が奔り、翼が閃光とともに弾け飛んだ。
巨体が裂け、悲鳴を上げながら石畳に叩きつけられた。
(……誰かが、戦っている?)
落下の衝撃が地鳴りとなって伝わり、地面が揺れた。
遅れて届いた震動で教室の窓枠が震え、黒板のチョークが床に転がった。
ざわめく声が耳に届くのに、どこか遠くから響いているようで、足元の冷たさだけが現実だった。
「撃ち落とした……」
誰かのかすれた声が、教室の静寂を破った。
「でも、まだもう一体……」
皆が固唾を飲んで見守る中、楼門へともう一頭が襲い掛かった。
火炎の舌先が楼門を舐めかけた、その直前――
楼門の上から轟く雷鳴と共に幾条もの閃光が奔り、竜の翼を貫いた。
竜は凄まじい咆哮を上げ、回転しながらそのまま楼門へと突っ込んだ。
楼閣が粉々に砕け散り、巨大な門が門扉ごと崩れ、もうもうとした土埃に包まれた。
一拍遅れて、その衝撃が地面の震えとともに私たちの足元に伝わった。
「やったぞ……!」
「……勝ったんだ!」
「万歳……!」
小さな声が波紋のように広がり、やがて熱気の渦となって教室を包み込む。
「王国軍、万歳!」
みんなの叫びの熱気が壁に反響して押し寄せてくる。
けれど私の足先は氷のように冷えたまま動かず、喉は焼けつくほど乾き、手のひらの汗で姉の袖を濡らしていた。
(違う……いま楼門の上に――戦っていた人たちが!)
その先を思うだけで、震えは止まらず、胸の奥で冷たさだけが広がっていった。
ただ姉だけが、口元を手で抑え、唇をかすかに震わせた。
姉はその紫の瞳を見開いたまま――
私と同じ光景を、息を止めたように見つめていた。
*
――その時、扉が勢いよく開かれた。
木扉が壁を打ち、教室の空気がびりと震える。
鋭い靴音と金属のぶつかり合う音が、外から響く角笛の音と重なって流れ込んだ。
鉄と血の匂いが、一気に日常の匂いを押し流す。
「……この教室か!?
治癒魔法が使える白魔導士はいないか!? 神官だけでは足りぬ!」
歓声の余熱が、みるみる冷えていく。
誰かが椅子を引く音と、息を呑む音が重なる。喉の乾きが戻り、心臓が痛いほど跳ねた。
私は思わず姉の裾を握り直す。指先は汗で湿っているのに、それでもひどく冷たい。
姉は背筋を正し、ゆっくりと顔を上げる。唇がわずかに震えて、すぐに結ばれた。
視線が一斉に姉へと集まった。




