第十五話 王都の休日・前編
ある休日のこと。
その日は、朝から胸がそわそわして、落ち着かなかった。
だって――姉と二人きりで、街へお出かけなのだから。
そう、アカデミーの生徒だって、冒険者だって。たまには休息が必要なのだ。
「セレナ、準備はできた?」
クローゼットの扉を開けて顔をのぞかせた姉は、いつものアカデミーの制服ではなく、淡いラベンダー色のワンピース姿。
窓から差し込む光を受けて裾がふわりと揺れ、まるで一輪の花みたいに可憐だった。
「……きれい」
思わずつぶやいてしまった。――そうじゃなくて!
「うん! もうばっちり!」
私は元気よく答えて、姉の手をぎゅっと握った。
今日の私は、姉と一緒に選んだブラウスにスカート。
普段の地味な私服より少し背伸びした装いで、なんだか自分まで特別になれた気がする。
寄宿舎を出ると、春の陽射しが石畳をきらきら照らしていた。
花売りの少女が声を張り上げ、露店からは焼きたてのパンや蜜菓子の香ばしい匂いが漂ってくる。
人々のざわめきや馬車の車輪の音さえ、今日は不思議と音楽みたいに聞こえた。
通りに出た瞬間、視線がふっとこちらへ集まるのが分かった。
「綺麗な方」
「どこのご令嬢かしら」
小さな囁きが背後で弾ける。
花売りの少女は慌てて花束を整え――
「おまけです」
と白い小花を一本差し出した。
姉は微笑んで「可愛いお花ね」と言うと、銅貨を二枚そっと手に載せた。
「二つくださいな。わたしと妹に一輪ずつ」
少女が目を丸くして慌てると、姉は柔らかく続ける。
「だめよ、ちゃんとお代はもらわなくちゃ」
差し出された二輪の白い花を受け取り、姉は一つを自分の耳の上に、もう一つを私の髪にすっと差してくれた。
「よく似合うわ、セレナ」
頬が熱くなる。姉とおそろい――それだけで胸の奥まで温かく満ちていく。
街角の人々の視線も、ますます姉に集まっていく。
パン屋の店主はカウンター越しに背筋を伸ばし、帽子を取って会釈する。
みんなの目が、まず姉へ吸い寄せられて、それから私にふわりと流れてくる――そんな感覚。
「ねえ、姉さん。今日は何から見る?」
「そうね……まずは洋服屋さんに寄ってみましょうか」
「やった!」
胸が弾む。
石畳を並んで歩きながら、姉が私に微笑みかけるたび、世界がいっそう鮮やかになる気がした。
銀の風見鶏が屋根の上で回り、鳩の群れが空をかすめていく。
通りに並ぶガラス窓には色とりどりのドレスや帽子が映り込み、まるで夢の舞台の幕が開いたようだ。
通りの角を曲がると、制服姿の下級騎士が二人、さっと道を空けてくれた。
「失礼いたします」
ぎこちなく胸に拳を当てる仕草――おそらく“どこかの良家の令嬢”に見えたのだろう。
子どもが一人、姉のワンピースの裾を見上げて――
「おひめさま?」
と首をかしげ、母親が慌てて頭を下げる。
姉はにこりと微笑んで、その子の頭をそっと撫でた。
光が髪に落ちて、糸みたいに細く揺れる。
街はすっかり、姉のための舞台のよう。
手を繋いで歩くだけで、誇らしくて、嬉しくて、胸がいっぱいになる。
そう、今だけは。“聖女”と“聖女の妹”ではなくて、姉と妹として、一緒に歩くんだ。
***
王都の大通りに面した洋服店は、色とりどりの布地と甘い香水の香りに満ちていた。
扉を押し開けた途端、店員の女性がぱっと目を輝かせる。
「まあ! なんてお綺麗なお嬢様でしょう!
ぜひこちらのお洋服をお試しください!」
有無を言わせぬ勢いで、姉の腕に次々とドレスやワンピースが重ねられ、押し込まれるように試着室へ。
次に私に目を移すと――
「お嬢さんはいかがなさいますか?」
「えっと――私は、見てます」
店員の女性はにっこり微笑むと、試着室へ向き直り、胸の前で小さく手を組んだ。
ラベンダー色のワンピースから、今度は深紅のドレスへ。
次は清楚な白のワンピース、きらめく青のマントつきチュニック……。
カーテンがしゃり、と開くたび、姉が一歩踏み出す。
そのたび店員の女性はため息をつき、「お似合いですわ」と褒めちぎる。
店内の空気もふっと華やぎ、小さなどよめきが波のように広がった。
「きれい……」
「どこのご令嬢かしら……」
居合わせた客は思わず声を漏らし、店員たちも感嘆の拍手を送る。
(やっぱり……姉さんって、どんな服でも似合っちゃうんだな)
私は試着室の前の椅子に腰かけ、頬杖をついてその光景を見守った。
少し照れたように、でも楽しげに笑う姉――見ているだけで胸が弾む。
「セレナも、どう? 一着くらい試してみない?」
カーテンの隙間から、姉がそっと顔をのぞかせる。
そのやわらかな仕草に、私は思わず笑って首を横に振った。
「いいよ、今日は姉さんの日だから」
「……もう、本当にセレナは」
姉は小さくため息をつく。
けれど、その唇はどこか嬉しそうにゆるんでいて、また次の服へと手を伸ばした。
「これもきっとお似合いです!」と店員が興奮気味に差し出すたび、私は「うん、うん」とうなずく。
やっぱり姉にはこういう場所が似合う。
そのとき、同時に思ってしまった。
もし姉が剛盾バルド様に嫁入りすることになったら?
危険を冒して魔物と戦ったり、汗だくになって薬草を集めたりする必要なんかなくて――
姉は毎日こんなふうに楽しく過ごせるのかも。
でも、私は頭を振って、その考えを消す。
(ううん。冒険者は、私たちが一緒にいるために選んだ道。
だからこそ、姉さんと過ごすこういう時間を大切にしよう)
うららかな日差しの中、少し照れながら微笑む姉を見つめ――
私は心の底から、このひとときが愛おしいと思った。




