エピローグ『Re:』
まぶたの裏を、光がやさしく撫で、私は目を開けた。
見慣れない天蓋と、差し込む朝日。
鳥のさえずり、清潔なリネンの香り――
……ここ、どこ?
「――おはよう、セレナ」
その瞬間、胸が大きく跳ねた。
聞き慣れた、けれどもう二度と聞けないはずの声。
私はシーツを跳ね除け、まるで飛び起きるように上体を起こす。
「……えっ」
思わず声が裏返った。
銀の髪を朝日に揺らし、ベッドの横で微笑んでいるのは――
姉、アリシアだった。
姉さんが……生きてる……!?
嘘。どうして? これは……夢?
いや、夢にしてはあまりに鮮明で、音も匂いも、姉の表情までも本物で――。
(――もしかしてこれ、
あの嵐の夜のヴェルネの罠の時と同じ……?
時間が――巻き戻った!?)
……でも、私は眠ってもいないし、死んでもいない。
ついさっきまで《暁の風》のみんなと夜通し酒場で語り合っていた。
酔っぱらったカレンがフィーネに絡んでて……
私はペンダントに触れて――光に包まれて――。
そして今、知らない部屋。
時間は巻き戻っていない。
じゃあ、別の世界? 転生? それとも……夢?
頬をつねる。――痛い。
そうだ、魔法だ!
『――感覚強化』
光陣が輝いた瞬間、押し寄せる“姉の鼓動と呼吸の気配”に、慌てて魔法陣を消した。
夢じゃない――!
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「――姉さんっ!」
気づいたときにはもう、私は姉の胸に飛び込んでいた。
腕は震え、力加減なんてできない。
触れた感触、鼓動、香り――すべてが紛れもなく姉だった。
(姉さん……姉さんだ……!)
「……セレナ……? どうしたの?」
その声が、あまりにも優しくて。
もう二度と触れられないと思っていた温もりが確かで――。
「だって……姉さん……! 会いたかった……」
言葉にならず、喉の奥でかすれる。
姉は驚いたように目を丸くしたあと、そっと私の背を抱き寄せた。
「大丈夫よ。ほら、姉さんはここにいるわ」
その一言だけで膝が崩れそうになる。
息をしてる。温かい。触れられる。
(姉さんが……生きてる……)
涙が零れそうになって、私はぎゅっと顔を押しつけた。
「もう、セレナったら。
なに朝から寝ぼけてるのかしら?」
姉は、昔と同じように私の髪を撫で、
“当たり前”のように微笑んだ。
「セレナがお寝坊するなんて珍しいわね。
でも、寝ぼけてる場合じゃないわよ?
今日は忙しいんだから。さあ、早く起きなさい」
涙に濡れたまま、私は姉の顔を見上げた。
「い、忙しいって……なにが?」
返事を待つ暇もなく、侍女たちがわっと部屋に入ってきた。
慣れた手つきで私の寝間着を脱がし、白い布を肩に掛けていく。
「ちょっ……え、えぇぇ!?」
あれよあれよという間に着替えさせられ、鏡の前に立たされた。
そこに映っていたのは――
金糸の刺繍が施された、純白の聖衣に身を包んだ“私”。
「これ……姉さんのじゃ……?」
震える声で問うと、姉はくすくす笑った。
「……さっきからどうしたの? ふふ……変なセレナ。
私たち姉妹は二人とも聖女。
あなたの覚醒はずっと後だったけど。
そして、わたしたちは魔王討伐の英雄でしょ?
……うん、やっぱり聖女はこうじゃなくちゃ」
「……えっと……わたしが……聖女?」
心臓が跳ねる。
わけがわからない。
でも――誰も疑問に思っていない……。
どういうこと!?
***
王都キングスフォート・大聖堂。
朝の光を反射して、無数の花々がまるで宝石みたいにきらめいている。
中央の赤いバージンロードは祭壇へと真っすぐ伸び、両脇には参列者がぎっしり。
華やかなざわめきと期待が、空気に甘く漂っていた。
最後にこの大聖堂を出たのは、あの葬儀の日。
その記憶と、この光景の落差に思わず目がちかちかする。
(……すごい。
本当に、姉さんの……結婚式なんだ……)
支度中、私は姉に何度も聞いた。
「今日は何の日?」とか、「なんで私が聖衣を?」とか。
姉は少し不思議そうにしながらも、
「王都の大聖堂で、式を挙げる日よ?
セレナが忘れるなんて」
と、くすりと笑って教えてくれた。
わかっていた。
わかっていたはずなのに、胸の奥だけがまだ現実についてこれない。
(……だって、姉さんが生きてるなんて……信じられるわけ、ないよ……)
そんな心の揺れを飲み込もうとした瞬間――
高らかな鐘の音が大聖堂いっぱいに広がった。
聖歌隊の歌声が白い天井を震わせ、参列者たちの視線がいっせいに私たちへと注がれる。
その視線は憧れ、敬意、祝福が入り混じったまっすぐな光で。
胸の奥がじんわり熱くなる。
私は白い聖衣をまとい、姉の隣に立っていた。
レースの下に銀の髪が流れ落ち、純白の花嫁衣裳に身を包んだ姉は、輝くように美しかった。
姉と並んで歩く。
視線の先――祭壇には、純白の礼装に身を包んだ勇者エリアス。
いや、今は“ヴァルミエール国王”だ。
金糸の刺繍が光を受けて淡く輝き、
彼は深く息を整えると、穏やかな笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べる。
(……ああ。本当に……姉さんが、今日、王妃になるんだ)
胸の奥で何かがふっと揺れ、
私は呼吸を忘れるほどに息を呑んだ。
視線を巡らせれば、懐かしい顔がずらりと並んでいる。
マルグリット司祭は涙をぬぐいながら祈りを捧げ、
カステルモン公爵は胸に手を当てて誇らしげに立っている。
魔王討伐軍の面々――ロベール卿も、エルステッド卿も。
そして、最後の戦いで散ったはずのグランフォード卿まで……!
(……そんな……だって、死んだはず……。
やっぱりここ、本当に“別の世界”、なの……?)
アカデミーの学友たちの席に目を遣れば――
ジュリアンも、黒魔導士も、弓使いの子も、全員が穏やかに微笑んでいた。
王族席では、先王と王太后が優雅に微笑んでいる一方で、
シャルルは悔しげに俯き、唇を噛んでいた。
しかし、誰も気に留めていない。
(……シャルル……ざまぁ見ろ、ってやつ)
心の中だけでそっと意地悪く呟くと――
ふいに、参列者の中央に“見覚えのある大きな背中”が見えた。
「――えっ……!」
そこにいたのは、
最後まで姉と私を守り抜いてくれた、あの寡黙で優しい騎士。
忘れようとしても忘れられない、最後の腕の温もり。
あの戦いの重みが、一気に胸に込み上げる。
礼装を纏ったバルドは堂々と席に座り、
天窓から降り注ぐ光に照らされていた。
こちらを振り返り、ふっと涼やかに微笑む。
胸が跳ねた。
……でも、その眼差しはいつだって“姉”に向いていたはずなのに。
なぜ、今、私に?
問いの答えを探す暇もなく、場内に大きな喝采が広がった。
金糸のカーテンが揺れ、花びらが祝福のように舞い落ちる。
現実味がなくて足が止まりそうになったそのとき、
姉の白い手袋がそっと伸び、私を支えた。
「セレナ、大丈夫。
わたしたち、これからも一緒よ」
その一言に、胸の奥でじんと何かが弾ける。
そして、私たちはエリアスの待つ祭壇へ歩を進めた。
彼の額にはもう銀のサークレットはない。
代わりに戴いているのは――輝く黄金の王冠。
握っていた姉の手を、私はゆっくりとエリアスへ渡した。
エリアスは姉の手を取ると、
私にだけ聞こえるような声でそっと言った。
「セレナ……これで君も、本当の家族だ。
これからも、よろしく頼む」
思わず瞬きする。
胸が、熱い。
聖歌が最高潮へ達し、王都中の鐘が鳴り、空気を震わせる。
視界は光に満たされ、誰もが祝福の笑顔を浮かべていた。
花嫁衣装の姉は、エリアスの隣でまばゆいほどに輝いていた。
一方――私は白の聖衣をまとったまま、
自分だけ“別の物語”に紛れ込んだような、不思議な感覚に包まれていた。
(……姉さんが、エリアスのお嫁さんに……)
困惑しているうちに、儀式は着々と進む。
そしてついに――大司祭の厳かな声が響いた。
「……誓いますか?」
ふたりの声が重なる。
「誓います」
その瞬間、広間の空気が震えた。
花々の香りがふわりと揺れ、天井から降り注ぐ光がふたりを包み込む。
大司祭が静かに頷き、言葉を紡ぐ。
「……では――誓いの口づけを」
エリアスが姉の手を取り、そっと顔を寄せる。
姉はほんの少しだけまつげを伏せ、微笑んだ。
唇が触れあった瞬間――
参列者たちのあいだから、やさしい風のような拍手と祝福の声が広がった。
(ああ……姉さん、本当に……王妃になるんだ)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
夢か現実かまだ掴めないのに、涙だけはどうしようもなく滲みそうで。
それでも、目の前の光景は――確かに、世界でいちばん美しかった。
*
そのとき――
ばんっ――!
大聖堂の扉が乱暴に開いた。
「報告! 王都の外れに魔王軍残党が出現!」
参列席が一気にざわめく。
次の瞬間、赤髪を翻して小柄な少女が駆け込んできた。
「カレン!?」
(なんで王都に《暁の風》が……!?)
背には長剣。鋭い瞳がまっすぐ前を射抜く。
「《暁の風》参上!」
派手すぎる名乗りとともに、四人の冒険者たちがずかずか進み出る。
「Sランクの……!」
「あの“聖女”、“剛盾”、“翠風”の……王都最強パーティ……!」
民衆も貴族もどよめき、参列者たちは自然と道を開けた。
(は? いやいや、ちょっと待って……
てか“剛盾”って……まさか……いや、そんな……)
目尻に涙がにじむ。
(……知らない話が多すぎる……!)
カレンとフィーネが私の前に進み出てきて、その瞬間――
私は思わず叫んだ。
「あっ! 酔っ払い!」
「ちょ、ちょっと失礼ねっ!? 誰が酔っ払いよ!
……まぁ、仕事の後の一杯が好きなのは否定しないけど」
(いや……いつも、一杯じゃないけど……?)
赤くなってぷいとそっぽを向くカレン。
フィーネは苦笑しつつも、容赦なく宣言した。
「聖女殿! 出番です!」
「えっ……ええっと!
聖女って――やっぱりわたし……だよね?」
フィーネがふっと微笑む。
「時間が惜しい。セレナ、行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待って! わたし、心の準備が……」
「大丈夫。君は私の光だ。君ならできる」
私は思わず、小声で尋ねてしまう。
「いや、そういうことじゃなくて……。
ちょっと聞きたいんだけど……
さっきまで水で薄めたワイン飲んでなかった?」
フィーネの耳がぴくりと動き、頬が赤くなる。
「セレナ……どうしてそれを……?
ほんとうに、君はなんでもお見通しだな……」
そして、私の耳元で囁く。
「でも――頼む。それだけは秘密にしてくれ。
ワインが飲めないエルフなど……恥さらしだからな」
次の瞬間、フィーネはあの戦場で出会った日のように、
細くもしなやかな力で、椅子から私を引き上げてくれた。
「だが――寝ぼけるのは寝てるときだけにしてくれ。
さあ、行きますよ!」
半ばあきれた表情のまま、力強く私の手を引く。
「ロベール卿――薔薇騎士団、出撃せよ!
聖女殿を中心に、彼女の指示に従え!」
久しぶりに聞くエリアスの短い指示。
たった二年前のことなのに……ひどく懐かしかった。
「はっ!」
ロベール卿が膝をつき、私を見上げる。
「よろしく頼む――聖女殿」
(――っ! ロ、ロベールさんまで!?)
祭壇の上から姉とエリアスが手を振る。
「行ってらっしゃい、セレナ!」
「セレナ、お前が要だ。任せたぞ!」
その後ろでは、大司祭が銀髪を揺らしながら静かに微笑んでいた。
頭の中が真っ白になる。
そしてフィーネが先に立って参列席を割り、
私は手を引かれるまま、バルドの前へ連れて行かれる。
見上げると――
あの懐かしい彼の眼差しに、胸がきゅっとした。
フィーネの落ち着いた声。
「バルド。さあ、行きましょう。
あなたも《暁の風》の一員なんだから」
(やっぱり、そうなんだ……!)
バルドはにやりと白い歯を見せる。
「もちろんだ。
”婚約者”が行くのだから、俺も行かないとな」
一瞬、息が止まった。
「……えっ? 婚約者って……?
わたしが? バルドの?」
バルドは当たり前のように片目を瞑る。
(え? えぇぇ?
いや、バルドは……いい人だし、頼りになるし、
無口だけど真面目で、強くて、面倒見良くて……
料理もおいしそうに食べてくれるし……
それに……笑うと……ちょっとだけ格好いいし……?)
思考が勝手に暴走し、頬が熱くなる。
(――なに考えてるの私!?)
胸が跳ねる。
横を見ると――フィーネがくすり、と笑っている。
耳まで燃えるように熱くなった。
バルドは当然のように私の隣に立ち、ぽつりと言った。
「……そうだ。お前は一生、俺が守る!」
とどめの一撃。
(ちょ、ちょっと!
バルド、それは……ずるい――っ!)
気付けば、真っ赤になって俯いた私のまわりに、
バルドを加えた《暁の風》の面々が集まっていた。
ごく自然に。まるで呼吸するように――
私を中心に。
***
「しゅっぱーっつ!」
カレンが拳を突き上げ、《暁の風》が勢いよく動き出した。
それに続いて、ロベール卿率いる騎士団の面々も一斉に歩みを揃える。
扉をくぐる直前、誰かの声が聞こえた気がした――
『……セレナ……』
思わず振り返る。
エリアスが優しく手を振り、その隣で姉は――
白い花嫁衣装のまま、ただ穏やかな微笑みを浮かべていた。
(あれ? 姉さん……?)
『祈りは届くわ。きっと……また会える……』
ふと、姉が最後にくれたあの言葉が胸の奥に蘇った。
(もしかして……この奇跡は――)
私の胸元にはもう、あのペンダントは無い。
だって、今もそれは姉の胸元に青く輝いているから。
姉の微笑みが、どこまでも優しく滲んだ。
何がどうしてこうなったのか。
わからない。
全然わからない。
けれど――。
それでも。
ここが、私が“生きていく世界”でいいんだ。
(――あの世界で姉さんがくれた……“最後の奇跡”。
きっと、そうなんだよね)
だから、この先を歩くのは “私”自身。
“聖女”なんて呼ばれたって、私は――私。
支援して、傷を癒やして。
時々――奇跡を起こす。
それがきっと、私の役目。
「……姉さん、行ってきます」
――ふわりと微笑み、前を向く。
私は、光が満ちるその先へと、一歩を踏み出した。
……Fin.『Re:』
セレナの物語を最後まで見届けてくださった皆さま、本当にありがとうございました。
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これからも、皆さまの心に少しでも残る物語をお届けできますように。




