心のままに
翌朝、レベッカが目を覚ますと目の前にウェンディの美しい顔があった。一瞬驚いてビクッと身体を震わせたが、すぐにウェンディと共に眠りについたことを思い出す。ウェンディの腕はレベッカの身体を強く抱き締めていた。慌ててウェンディの腕を自分から離しつつ上半身を起こし、時間を確認する。幸運にも仕事が始まるまで十分な余裕があった。
「よかった……」
小さく呟き、モゾモゾと身体を動かす。ウェンディの頭を軽く撫でてから、レベッカは静かにベッドから降りると、物音を立てないよう慎重に部屋を出ていった。
私室に戻りメイド服を着てから使用人専用の食堂に入ると、バッタリとキャリーと顔を合わせた。
「あ、おはよう、レベッカ。早いわね」
「おはようございます」
どうやらキャリーも朝食らしい。2人はそのまま並んで朝食を受けとると一緒のテーブルについた。
「あ、そうそう。リードがね、あとでクリストファー様の部屋に来るようにって」
「え?私、ですか?」
「きっと昨日のことでいろいろ話があるんじゃない?」
「ああ……そっか……」
そういえば、事情聴取にどう対応するべきか考えなければならない。レベッカが難しい顔でパンを食べていると、キャリーはその顔をしげしげと見つめてきた。そしてボソッと呟いた。
「よかったわ」
「はい?」
「いや、思ったよりも元気そうだったから……結局昨日は何が起こったの?その手の傷は大丈夫?」
キャリーのその問いかけに、レベッカは一瞬グッと言葉を詰まらせる。
視線を目の前の朝食に向け、話題を変えることにした。
「キャリーさん、ひどいです……」
「え?なに?」
「……お嬢様の秘密の仕事のこと。知ってたんですよね?」
周囲の人間に聞こえないよう小さくそう言うと、キャリーは目を見開いた。
「あら、お嬢様、とうとう話したのね」
レベッカはジロリとキャリーに鋭い視線を向けた。
「本当にひどいです。キャリーさんも、リードさんも、ジャンヌも……私だけ仲間外れみたい。教えてくれればよかったのに……」
その言葉にキャリーは苦笑した。
「仕方ないでしょう。私も口止めされてたし……本当に限られた人にしか知らされてないのよ?」
「だからって……」
「私だって知らなかったのよ、最初は。何年か前から、リードがコソコソと頻繁にどこかに出かけるようになって、問い詰めたの。最初は浮気なんじゃないかって疑って、物凄く喧嘩したんだから」
「え?そうなんですか?」
「ええ。まさかお嬢様の代理で出版社に行ってるなんて、そんなこと思いもしなかったから……まあ、それで、見かねたクリストファー様がウェンディ様に許可を取って話してくれたの。その時に、絶対に誰にも言わないって約束をしたわ」
なるほど、と思いながらレベッカはお茶を一口飲んだ。
「ジャンヌはね、割と早い段階で知らされてたみたい。あの子は、レベッカが不在の間、お嬢様の専属メイドをしていたから……メイドの仕事として、お嬢様の小説家としての活動をサポートしていたのよ。お嬢様の代わりに小説のための資料を揃えたり、取材をしたり。ほら、あの子の実家って新聞社でしょ?その関係でいろいろと伝手もあったみたいだし」
「へぇ……」
自分が知らないところでジャンヌもかなり頑張っていたようだ。
そういえば、ジャンヌはどうしたのだろう。まだ学園の寮に、いるのだろうか?
「ねえ、それよりも!昨日、何が起きたの?教えてちょうだい!」
キャリーが好奇心を押さえられない表情で問いかけてくる。レベッカはなんと答えたらいいのか分からず再び視線を泳がせた。
「ええーと……」
どう説明すればいいのか分からずに困惑していたその時、声をかけられた。
「レベッカさん」
声の方へと視線を向けると、食堂の入り口でリードが手招きをしている。
レベッカは慌てて食べ終わった食器を持ち上げ、キャリーに向かって声をあげた。
「すみません、呼ばれているみたいなので!お話はまたあとで!」
そう言って素早く食器を片付けると、リードの方へ駆け寄る。その姿を見てキャリーは不満そうに唇を尖らせた。
リードと共にクリストファーがいる書斎へと向かう。書斎に入るとすぐにソファに座っているクリストファーと目が合った。クリストファーは寝ていないのか目の下が真っ黒で、疲れきった顔をしている。
「おはようございます、クリストファー様……あの、大丈夫ですか?」
「おはよう、レベッカ。ちょっと大変だったけど大丈夫だよ」
クリストファーは弱々しく笑う。そして、レベッカにソファに座るよう勧めると、難しい顔をしながら口を開いた。
「昨日のこと、なんだけど……」
「はい」
レベッカはピンと背筋を伸ばし、膝に手を置いてしっかりと返事をした。
「あの2人のことをきちんと説明しておこうと思ってね」
あの2人、というのはエステルとその仲間の青年のことだろう。クリストファーは言葉を選ぶようにゆっくりと話を続けた。
「ウェンディを誘拐したのはランバート家の令嬢、エステル・ランバート嬢と、その婚約者であるアルマン男爵家の嫡男だ。あの後、衛兵に連行された2人は意識を取り戻したらしいが……エステル・ランバート嬢の方は茫然自失というか……何を聞かれてもぼんやりとしていて全然言葉を発しない状態らしい。それで事情聴取が困難になっているようなんだ」
その話を聞いたレベッカは何も言わなかったが、複雑な思いでいっぱいだった。多分エステルがそんな状態になったのは自分のせいなのかもしれない。だが、罪悪感はほとんど感じていない。ウェンディを傷つけた彼女が悪いのだから。
「でも、共犯者であるブルックス・アルマンの方は、きちんと事情聴取に応じたよ。彼は、自分が全ての犯行を計画して実行したと言っていたらしい。エステル・ランバート嬢はたまたまその場にいただけで何もしていない、と言った」
「へっ?」
レベッカが思わず声をあげて目を見開くと、クリストファーは厳しい表情のまま顔を伏せた。
「自分の婚約者をどうしても守りたかったんだろうね……当然そんな話はあり得ない。エステル嬢を庇っているのは明白だ。衛兵が矛盾点をついたら、今度は口をつぐみ何も言わなくなってしまった」
「え?そんなの……」
レベッカが思わず立ち上がりかけると、それをクリストファーは手で制した。
「明け方になってようやく少しずつだが、供述し始めたそうだよ。エステル嬢に指示されて学園でウェンディに嫌がらせを繰り返したり、我が家に危険な物を送ってきたりといろいろと影で動いていたみたいだ」
危険な物、というのは例のハンカチのことだろう。レベッカはそう思ったが口には出さずにクリストファーの話を静かに聞いた。
「この誘拐を実行したのは彼であるということは間違いないが、指示したのはエステル嬢だろう。まだ明確に供述はしていないが……エステル嬢はナイフを所持していたようだし、アルマンはエステル嬢がウェンディを脅したということを徐々に話しているそうだ。おかげでランバート家とアルマン家は、今大騒ぎらしいよ」
そして、クリストファーは目を閉じてこめかみに手を当てると、大きく息を吐いた。その後目を開くと、レベッカをまっすぐに見据えた。
「レベッカ、提案があるんだが……」
「はい?」
レベッカは首をかしげた。クリストファーは慎重な様子でゆっくりと言葉を重ねる。
「恐らく、今日は衛兵に呼ばれて、昨日の件について聞かれると思う。だが、……正直どう説明しようか迷っててね」
クリストファーがそう言うのも当然だ。メイドの友人が突然現れ、ウェンディの居場所を突き止めてそこへ駆けつけて救った、と意味不明の説明をするわけにはいかないだろう。
「リースエラゴさんからは口止めされてしまったし……いろいろと僕自身で隠蔽処理をしなければならないと思う。そこで、なんだけど……」
クリストファーは気まずそうな顔をしながらも驚くべき提案をした。
昨日、現場に駆けつけたのはクリストファーとリードだけであり、レベッカはその場にいなかったことにするというのだ。
思いがけない大胆な筋書きにレベッカは目を丸くした。
「えっ……それって……大丈夫なんですか?」
レベッカが戸惑いながらそう尋ねると、クリストファーは眉をひそめながら答えた。
「……まあ、多分……誤魔化せる、と思う……。僕がなんらかの方法でウェンディの居場所を探索して、それで現場に駆けつけたってことにすれば……」
「それは、ものすごく怪しまれそうな気が……」
レベッカが思わずそう呟くと、そばに控えているリードが口を開いた。
「ウェンディ様と事前に打ち合わせをすれば、なんとかなると思います。衛兵達は納得しないかもしれませんが、どのみち、犯人の2人は捕縛されていることですし、無理矢理にでも話を押し進めて切り抜けましょう」
「ああ。全力で話をでっち上げて、乗り切るつもりだ。場合によっては僕の権力を使おう。大丈夫、なんとかなるよ」
リードとクリストファーの言葉を聞いたレベッカは口を挟んだ。
「あのっ、でも犯人の2人は私達の姿を目撃しています。衛兵達に話しているのでは……」
エステルとブルックスが、レベッカとリースエラゴが現場にいたことを話してしまうのはまずい。いや、もう既に衛兵に話している可能性もある。それを指摘するとクリストファーは少し苦笑して首を横に振った。
「エステル嬢はさっき話した通りマトモに証言できる状態じゃないから大丈夫だと思う。ブルックス・アルマンは君の事を覚えているけど……そちらも多分大丈夫」
「えっ?それは大丈夫じゃないですよね!?私の事を衛兵に話したのなら──」
レベッカが動揺しながらそう言うと、なぜかクリストファーは気まずそうな様子でレベッカから目を逸らした。
「あー、その、非常に言いにくいんだけど……ブルックス・アルマンは昨日の記憶がかなり混乱しているみたいなんだ。それで、その……変な証言をしていて……」
「変な証言?」
「ああ、うん……僕が聞いたところによると、彼はこう証言しているらしい……『恐ろしい奴が現れて、エステル様を襲って、僕のことも攻撃してきたんだ。あまりにもおぞましく危険で邪悪な姿だった……あれはそう、悪魔……魔王に違いない!!』って」
「……」
「精神が錯乱していると衛兵達は考えているらしいよ。だから、君が現場にいたことはバレないと思う」
レベッカはその話を聞いて顔を引きつらせながらも、なんとかクリストファーに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。そして、ありがとうございます。クリストファー様」
「いや、お礼を言うのはこちらだよ」
クリストファーは立ち上がるとレベッカに向かって深く頭を下げた。
「君は、再びウェンディを助けてくれた。ありがとう、レベッカ」
レベッカは慌てて立ち上がると手をヒラヒラと振った。
「いえ、あの、こちらこそいろいろと対処していただいてありがとうございます!本当に助かりました!」
レベッカがそう言うと、クリストファーは頭を上げて微笑んだ。
「この恩は一生忘れない。本当にありがとう」
そしてクリストファーはレベッカの頭を優しく撫でて、小さく呟いた。
「レベッカ、やっぱりウェンディには君が必要だね」
その言葉に胸が詰まったような感覚がした。
その時、コンコンと部屋の扉がノックされる音が響いた。
「誰だ?」
クリストファーが声をあげると扉の外から声が聞こえた。
「……私です」
それはウェンディの声だった。クリストファーとリードが驚愕したような顔で一瞬顔を見合わせる。すぐにリードが扉へと向かい、開いた。
「失礼します」
ウェンディはそう言いながら入ってきた。少し顔色は悪いが、昨日叩かれた頬は腫れが引いてきたようだ。レベッカはその事にホッとする。ウェンディの方はすぐにレベッカに駆け寄ってきた。
「おはよう、ベッカ!昨日はよく眠れた?」
「お、お嬢様……おはようございます……」
ウェンディは戸惑うレベッカの手を優しく握った。
「体調は悪くない?手の怪我はどうかしら?痛くない?あとでまたお医者様に診てもらいましょうね。あ、そうだわ!痛いならメイド長に言って仕事の方もお休みにしてもらいましょう。そうしたら私と一緒に過ごせる時間も増えるものね。あのね、ベッカ、一緒に書庫に行きましょう。あなたが気に入りそうな新作の本があるのよ。それからね、お庭を2人で散歩したいの。綺麗なお花が咲いているでしょう?2人で見に行きましょうね。あとはね、一緒にお茶を飲んでケーキも──」
「お、お嬢様……」
矢継ぎ早にそう話しかけてくるウェンディを、レベッカは戸惑いながら見つめる。そんなウェンディを制したのはクリストファーだった。
「ウェンディ」
そう呼びかけると、ウェンディの顔は瞬く間に氷のように冷やかな表情へと変化した。
「……急に休みが伸びて喜ぶ気持ちは分かるが、まずは昨日の騒動を早めに収めよう。君も分かっているだろう?衛兵に話をしなければならない。そのために打ち合わせをしよう」
「はい」
クリストファーの言葉に、ウェンディは小さくそう返事すると、レベッカに向き直る。そして蕩けるような笑顔に戻るとレベッカの頬を撫でた。
「ベッカ。できるだけ早めに終わらせるから、その後は一緒に過ごしましょうね」
「は、はい!」
レベッカはそう返事をすると、クリストファーとウェンディに向かって一礼する。そして足早に書斎から出ていった。
その後、クリストファーとウェンディは綿密な打ち合わせの末、衛兵の事情聴取をなんとか乗り切ったらしい。レベッカとリースエラゴが現場にいたことはバレなかったらしく、それを聞いたレベッカはようやく心から安心した。
「めちゃくちゃになった現場の事はどう説明したんですか?」
その日の午後、ウェンディの部屋に呼ばれたレベッカが質問をすると、ウェンディはケーキをつつきながら答えてくれた。
「あー……、お兄様が急いで駆けつけて、怒りのあまりその場でめちゃくちゃ暴れ回った結果だって説明したらしいわ」
「そ、それ、衛兵さん達は納得してくれたんですか?」
「してないと思うけど……お兄様が頑なにそう言い張ったからそれ以上は追求をやめてくれたみたいね。助かったわ」
それを聞いたレベッカも胸を撫で下ろす。
本当によかった。あとでリースエラゴにも報告しなければならない。まあ、あの竜の事だから特に気にすることなく、今頃舞台にオペラにと遊び回っているだろうが。
──あれ、そういえば、お嬢様の口から“お兄様”という言葉を久しぶりに聞いたな……
レベッカがそう考え込んでいる一方で、ウェンディはフォークでケーキを刺しレベッカの方へ向けた。
「はい、あーん」
そう言われて思わず口が大きく開く。すぐにケーキの欠片が入ってきたので、咀嚼して飲み込んだ。ケーキの美味しさに目を輝かせていると、その姿を目にしたウェンディが甘やかな微笑みを顔に浮かべた。
「美味しい?」
「はい!」
元気よく返事をしたレベッカだったが、ハッと我に返ると慌ててソファから立ち上がった。
「お、お嬢様!私、仕事に戻りますね!」
ウェンディにお茶とお菓子を運んだついでに事情聴取の件について尋ねていたら、いつの間にかソファに腰を下ろして自分がケーキを食べてしまった。レベッカの言葉を聞いたウェンディは唇を尖らせた。
「え~、もうちょっとお話ししたいわ」
「いや、私、これから備品庫の点検作業があるので」
「手を怪我してるのだから、今日は休みなさいな。私からメイド長には言っとくから」
「そんなわけには──」
その時、ウェンディの部屋の扉を誰かがノックした。
「はい?」
ウェンディがそれに答えると、扉の外から声がした。
「お嬢様、お客様です」
ウェンディが不機嫌そうな顔で立ち上がり、扉へと近づいた。扉を開けると、外に控えていたらしいメイドと何かボソボソと話をする。そして、そのままレベッカの方に顔を向けてきた。
「ベッカ、ごめんなさい。ちょっとお客様が来たみたいだから、行ってくるわね」
「あ、はい!」
レベッカが大きく頷くと、ウェンディはまだ不機嫌そうな様子で部屋から出ていってしまった。レベッカは息を吐いて、お茶のカップや皿を片付ける。そして食器を抱えて外に出たところで、廊下を歩いていたキャリーと鉢合わせした。
「あ、レベッカ、これから台所?」
「はい。でもこれを片付けてから備品庫の点検に行きます」
「手を怪我してるんでしょ?今日くらい休めばいいのに」
ウェンディと同じことを言われたため、レベッカは苦笑した。
「でも痛みはほとんどありませんし、大丈夫ですよ」
「そう?それならいいけど……」
キャリーは心配そうな顔をしつつ、何かを思い出したように言葉を続けた。
「そういえば、例のアレのことだけど……、あなた、全然準備してないんじゃない?」
「へ?準備?」
きょとんとした顔をするレベッカを見て、キャリーは呆れたような顔をする。
「ほら。クリストファー様からもお話があったでしょう?もうすぐ──」
キャリーが続けた言葉に、レベッカは真顔になった。
「……忘れてました」
「やっぱり」
額を手で押さえてため息をつくキャリーに、レベッカは慌てて言葉を続けた。
「いや、あの、でも今からでも十分間に合います!大丈夫ですから!」
「……まあ、頑張りなさい。時間があれば手伝うから」
レベッカは苦笑しながら頷いた。
◆◆◆
ウェンディは来客の知らせを受けて、客間へと向かった。客間にてウェンディを迎えたのは難しい顔をしたクリストファーと、
「コーリン……」
友人であるニコラス・ランバートだった。ニコラスは今まで見たことがないほど真っ青な顔をしており、明らかにやつれている。
クリストファーに促され、ウェンディはニコラスの正面に腰を下ろす。すぐにニコラスは深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
その姿に困惑してウェンディは何も言うことができなかった。それに対してニコラスは小さな声で謝罪を続ける。
「……姉が、コードウェル嬢に多大な恐怖心を負わせ、更に暴力行為を起こし傷つけたこと、深くお詫び申し上げます。本当に、申し訳ありませんでした」
頭を下げるニコラスの肩は、震えていた。その姿を見たウェンディはゆっくりと口を開いた。
「ランバート様と2人きりにしてください」
その言葉にクリストファーはあからさまに顔を曇らせる。
「ウェンディ──」
その言葉を遮るようにウェンディはクリストファーとしっかりと目を合わせた。
「お兄様、どうかお願いします」
その瞳を見たクリストファーは目を見開く。そして、迷いながらも渋々立ち上がり、客間から出ていった。
2人だけになって、すぐにウェンディはニコラスに声をかけた。
「顔を上げて」
ニコラスは言われた通りにゆっくりと顔を上げる。その瞳が、泣き腫らしたように真っ赤になっていることにウェンディは初めて気づいた。
「……あなたのお姉様は、今どんな状態なの?」
ウェンディがそう問いかけると、ニコラスは頭を抱えながら小さな声で答えた。
「……昨日、衛兵に連れていかれてからは、茫然自失で何も反応がなかったらしい。でも、知らせを受けた僕が駆けつけて……そうしたら……、姉は、僕の顔を見た瞬間、錯乱したように泣き叫んだ」
その時の光景を思い出して、ニコラスは強く拳を握る。姉のエステルは気がふれたように泣き叫び暴れた。
『ニコラス……!ニコラス……!ああ、ダメ、だめだめだめ!壁を、壁を作らなければ!私があなたを守るの!今度こそ、失敗しない!お母様、ごめんなさい……っ、私のせいで……っ』
その様子に驚き戸惑いながら衛兵達はエステルを抑える。そんな姉をニコラスは呆然と見つめることしかできなかった。
『失いたくないの、もう二度と!!全部、排除して……、もっと完璧に……っ、壁を作らなければ……、ニコラスだけは絶対に失いたくない!!』
そして、衛兵達に抑えられながらもエステルはニコラスに向かってすがるように言葉を続けた。
『だから……お願い。どこにも行かないで……ひとりに、しないでぇ……』
その言葉に、ニコラスは答えることができなかった。
「……」
エステルの状態を聞いたウェンディは難しい顔をして下を向いた。ニコラスはそんなウェンディを見つめながら言葉を重ねた。
「突然、ここに来てしまって本当に申し訳なかった。今、ランバート家は大騒ぎだ。今日にでも父から正式な謝罪があると思う。恐らくはアルマン家からも。でも、僕はどうしても君に直接謝罪がしたかった」
「……私も謝らなければならないわ」
ウェンディが囁くようにそう言うと、ニコラスは驚いたように目を見開いた。
「恋人のふりをしようと言い出したのは私の方よ。あなたの存在が、私にとって都合がよかったから……でも、私の事情にあなたを巻き込むべきではなかった。きっと、あなたのお姉様の行動の原因に繋がったのだと思う……」
ウェンディはゆっくりと頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
「それは違う!」
ニコラスはウェンディの行動に驚き、大きな声をあげた。
「僕だってそれは同じだ。君が謝る必要はない。それに、姉は何も確かめることもなく暴力で君を傷つけた!どんな理由があっても、決して許されるものではない!」
ウェンディはゆっくりと顔を上げる。ニコラスの瞳は微かに涙が浮かんでいた。
「……君の言う通りだった」
「……」
「僕は、姉と話すべきだった。しっかり向き合って話すべきだったんだ……」
そんなニコラスの姿を見てウェンディが動く。震えるその手に触れようとしたが、寸前でピタリと止まり、躊躇った後、結局触れることなく元に戻した。代わりに声をかける。
「でも、きっと、やり直せる」
「……」
ニコラスは何も答えなかったが、それでもウェンディはそのまま言葉を重ねた。
「やり直せるわ、コーリン。私は、あなたの苦しみを完全には理解できない。だけど、これだけは分かるの。あなたのお姉様への思いは、愛は、決して消えない。そうでしょう?」
ニコラスがハッと顔を上げる。ウェンディはまっすぐにニコラスを見据えた。
「諦めないで、コーリン。お願いだから、どうか立ち上がって。そして、もう一度お姉様のところへ行ってあげて。きっとあなたを待ってるわ」
ニコラスの瞳から静かに雫が流れ落ちた。ポタリと手に落ちてくる。
「そう、だろうか……」
「ええ。私は……あなたにも、あなたのお姉様にも、心のままに生きてほしい」
ニコラスはその言葉を聞いてゆっくりと手で顔を覆った。
「……姉は、錯乱していて……心が壊れかけている。きっとしばらくは元に戻らない。今後、戻るかどうかも分からない……だから、病院に行くよ。前にも言ったけど、心の傷を診てくれる専門の医師がいるらしいから。姉を診てもらう。そして、僕も」
「うん」
「卒業は近いけど、学校には、もう行かない。姉のそばにいる。姉に付き添って、ずっと支え続ける。君の言う通り、もう一度向き合って話をする。きっと、あの父は、僕の行動に怒って、非難して、反対するだろう。でも、絶対に負けない。ランバート侯爵家なんて関係ない。僕は、前に進む。今度こそ、間違えない。姉のために、自分のために、生きることにする」
ニコラスが手を下ろす。その瞳は潤んでいたが、強い意志が宿っているのが分かった。その瞳を見たウェンディは優しく微笑んだ。
「ほら、やっぱりあなたは強い人だわ」
ニコラスは少しだけ驚いたように目を見開く。そして、再び目を閉じると深く頭を下げた。
「本当に申し訳なかった。そして、今までありがとう、ウェンディ」
──ああ、終わったのね。私達の、秘密の契約が。
ウェンディはそう心の中で呟きながら、仮の恋人だった男に向かってそっと囁いた。
「こちらこそ、ありがとう。さようなら、コーリン」
そして、ベッカに会いたいな、と思いながら立ち上がると、そのまま部屋から出ていった。




