暴走
レベッカは泣きじゃくりながら、改めてウェンディの無事を確認するように、その顔に視線を向けた。真っ白だったはずの美しい頬が腫れている。明らかに殴られた痕だった。
自分の唇が震えるのが止められなかった。再び怒りが噴き上げてくる。
「お、お嬢様の、顔……」
「え?」
「お顔が……美しいお顔がぁ……っ」
レベッカは赤い頬に触れながら声を漏らす。ウェンディはレベッカの手に自分の手を重ねがら、肩をすくめた。
「こんなのすぐに治るわよ」
ウェンディはそう言ったが、レベッカの怒りは収まらなかった。
「ゆ、許せません……っ!こんな……こんなこと……っ」
荒々しい何かが炎のように胸を満たしていく。灼熱のようなその感情は憤怒だった。あまりの怒りに心臓が震えるような感覚がする。こんなにも激しい感情を抱くのは人生で初めてだった。
──許さない。お嬢様に暴力だなんて
レベッカが強い怒りに唇を噛み締めたその時、誰かが声をあげた。
「な、何よ、あなた達……!?」
声の方へと視線を向ける。そこにいたのは1人の女性だった。髪が乱れ、ドレスはひどい状態だったが美しい女性だ。ぎらぎらと憎悪のこもった瞳でこちらを見据えている。どこかで見たことがある。レベッカは一瞬眉をひそめたが、すぐに思い出した。コードウェル家で開かれたお茶会に参加していた女性だ。確かエステル、という名前だったような気がする。どうやら、リースエラゴの魔法の衝撃によって身体を吹き飛ばされたらしい。
エステルは戸惑いながらも、ウェンディとレベッカを鋭く睨みながら近くに落ちていたナイフを手に取った。その姿を見てレベッカは息を呑む。全く状況は分からないが、ウェンディを誘拐し傷つけたのはこの人らしい。
「本当に……っ、なんなのよ!!死になさいよ!!」
エステルはそう叫びながらナイフを手にこちらへと近づこうとする。その瞬間、リースエラゴが動いた。風のように素早くエステルに近づき、その細い身体を抑え込むようにして床に倒した。
「ぐっ……」
エステルが短く悲鳴をあげる。リースエラゴはそれに構わず涼しい顔でその手からナイフを奪った。
エステルを抑えつけながら、リースエラゴはレベッカの方へと視線を向ける。そして、首をかしげながら問いかけてきた。
「こいつ、どうする?殺すか?」
あまりにも軽い口調でそう言ったため、ウェンディが一瞬ギョッとしたように目を見開く。
一方、レベッカは、
「……いいえ」
囁くようにそう言葉を返すと、ウェンディから身体を離して立ち上がった。
「いいえ。あなたは殺さなくていいです」
そのままレベッカはリースエラゴとエステルの方へと近づく。その顔を見たリースエラゴは驚いたように目を瞬かせた。
レベッカは全ての感情が消えたような表情をしていた。その瞳はまっすぐにエステルを見つめている。
「ベッカ……?」
ウェンディが小さく呼びかけてきたが、レベッカはそれに答えずにエステルの正面に立つ。そしてリースエラゴに声をかけた。
「その人を離して、どいて、リーシー」
まるで氷のような冷たい声でリースエラゴに言い放つ。
「お、おい、レベッカ──」
「どいて。お願いだから」
「いや、それは……」
リースエラゴが珍しく動揺したような声を出すが、それに構わずレベッカはエステルを見下ろしながら言葉を続けた。
「私が殺すの。だから、どいて」
次の瞬間、パリンという音が響いた。周囲の薬品の瓶が一斉に砕ける。そして、リースエラゴの攻撃で床に散らばった本が突然火を噴き、燃え出した。部屋全体が大きく揺れる。同時に凄まじい轟音が聞こえた。
「ちょ、レベッカ──」
リースエラゴが慌てた様子でエステルを離し、レベッカに駆け寄ろうとする。そんなリースエラゴに向かってレベッカは手をかざした。その途端、リースエラゴの身体が固まる。
「なっ、お前……魔力が……」
リースエラゴが唖然としたように口を開けた。明らかにレベッカは激しい怒りで我を失い、魔力の暴走を起こしている。リースエラゴの魔力さえ圧倒する勢いの、凄まじい力だ。自由を奪われたリースエラゴは慌ててレベッカの魔法を解いて、身体を動かそうとするがうまくいかない。
レベッカはリースエラゴの様子に構うことなく、エステルを見つめながらその場にしゃがみこんだ。エステルはあまりにも異様な少女の姿に怯えたような顔をする。
「……お嬢様のお顔を叩いたのはあなたですね?」
「あ……」
「ナイフで襲おうとしましたね?」
「ち、ちが……だって……あの女が……」
レベッカがカッと目を見開く。次の瞬間、上の方で何かが大きく爆発するような音が聞こえた。同時にグラグラと部屋の揺れも激しくなり、木くずが落ちてくる。
「エステル様!!」
その時、エステルを呼ぶ声が響いた。覚醒したらしいブルックスが叫びながら駆け寄ろうとする。
「お前、エステル様に何をする!!」
そう叫ぶブルックスにレベッカは手を向ける。すぐに空気砲のようなものが出現して、ブルックスは吹き飛ばされた。したたかに壁に背中を打ち付けられる。
「ひっ……」
その様子を目にしたエステルが耐えきれずに短く悲鳴をあげた。
そんなエステルにレベッカは勢いよく飛びかかるとその細い首に手をかける。
「許さない」
「あ、やめ……っ」
自分の手に思い切り魔力を込める。何かピキピキと音が聞こえたような気がした。手に鋭い痛みを感じたが、ほとんど気にすることなく力を込めた。
あまりにも強い力にエステルは抵抗できない。ただ目を見開き、顔を苦痛に歪める。
レベッカはその顔を睨みながら声を出した。
「絶対に許さない……!」
この世界で最も尊い存在を傷つけたこの女を、殺さなければ。
そうしないと、この怒りは収まらない。
「レベッカ!!やめろ、この馬鹿!!」
リースエラゴが何か叫んでいる。だけど、もう止められない。ウェンディを傷つけたこの女を殺すまでは、絶対に──!
「ベッカ」
その時、ウェンディの声が聞こえた。
「ベッカ、もうやめて」
その言葉が耳に届いた瞬間、レベッカの手から力が抜けた。エステルの首から手が離れる。
「もういいから。お願い、やめて」
いつの間にかウェンディはレベッカのすぐ近くにいたらしい。レベッカが振り向く前に、後ろからゆっくりと抱き寄せられる。全身から力が抜けていくのを感じた。
「私は大丈夫。だから、やめて」
「お、嬢様……」
ウェンディの言葉に、あんなにも噴き上げていた怒りが消失していく。ウェンディの体温から、まるで悪夢から目覚めたような安心感を感じた。昂っていた感情が鎮まっていく。それと同時に部屋の揺れも止まり、周りで燃えていた炎も消えた。
「うわっ」
リースエラゴの身体が前に倒れるのが見えた。どうやら全ての魔法が解け、彼女の身体も自由になったらしい。
レベッカの瞳から大粒の涙がポタリとこぼれた。
「お、お嬢様……ご、ごめんなさい……」
「私のために怒ってくれたのよね?そうでしょう?ベッカ」
「ご、ごめんなさいっ……どうしても許せなかったんです……ごめんなさい……」
「うん、ありがとう、ベッカ」
そのまま泣きじゃくるレベッカをウェンディは強く抱き締める。
ようやく魔力の暴走が完全に終わったようだ。リースエラゴは自由になった自分の身体を確認して、埃を払うように軽く衣服を叩く。そして、深くため息をついた。チラリとエステルを見ると、エステルは完全に気絶している。レベッカが魔法で吹っ飛ばした男も白目を剥いて完全に気を失っていた。
「さて……これからどうするかな……」
リースエラゴの問いかけに答えてくれる者はいなかった。
しばらくするとようやくレベッカの心も落ち着き、涙も止まった。スンスンと鼻をすすったその時、何かに気づいたようにウェンディが声をあげる。
「ベッカ、あなたの手……」
「え?」
ウェンディに指摘されて自分の手に視線を向ける。そして驚いて目を見開いた。レベッカの手は傷ついたようにボロボロになっていた。
「あれ?なんで……?」
その言葉に答えたのはリースエラゴだった。
「お前が魔力を暴走させたせいだ、馬鹿」
ハッとして顔をそちらへ向けると、リースエラゴはどこから取り出したのか縄でエステルの身体を縛っていた。
「信じられないくらい魔法を暴発させていたからな。特に自分の手に集中的に“身体強化”の魔法をかけていただろう?その影響だ。お前の肉体が魔力の負荷に耐えきれなくて、傷ついたんだ」
「えっ?身体強化?そんなのかけてた?」
「……無意識か。お前というやつは……本当にもう……」
リースエラゴは呆れたように言葉を続けた。
「よかったな。あそこで止まらなければ、今頃お前の腕は失くなっていたぞ」
その言葉にレベッカとウェンディの顔は真っ青になり、お互いに顔を見合わせた。
リースエラゴはその間に床に倒れていたブルックスの身体も縄で縛る。そして、エステルとブルックスの身体をヒョイと抱えると声をかけてきた。
「とりあえず、ここから出るぞ」
その言葉に、レベッカとウェンディはヨロヨロと立ち上がる。そしてほとんど同時に手を繋ぐと、リースエラゴに続いて地下室から出た。
「うわ……」
1階の部屋の惨状を目にして思わず声が漏れた。まるで嵐が来た後のようだ。本棚や机が倒れ、道具や本が散らばっている。窓ガラスは割れて、それどころか壁も壊れている。
「……え、もしかしてこれ、私がしたの?」
「ああ、大正解だよ、レベッカ」
リースエラゴは頭を抱えながらそう答えた。呆然とするレベッカをよそに、リースエラゴはそのままエステルとブルックスの身体をドサリと床に降ろす。
「とりあえず、誰かを呼んでこよう」
「誰かって?」
「この場合は……騎士団や衛兵とか、か?」
リースエラゴは困ったようにそう言いながら首をかしげる。
「あっ、じゃあ、クリストファー様を呼んできてくれない?」
レベッカが提案すると、リースエラゴは大きく頷いた。
「分かった。あの人間がどこにいるかは分からないが……まあコードウェルの屋敷に戻ればなんとかなるだろう。少し待っててくれ」
そう言ってパチンという音と共に姿を消した。
「ベッカ」
ウェンディにそう呼ばれて振り返ると、ウェンディは再びレベッカを抱き寄せた。
「お嬢様?」
そのまま大きく息を吐き出し、囁くような声を出す。
「よかった……本当によかった。あなたとまた会えて……」
その手が微かに震えている。レベッカもウェンディを抱き締めながら大きく頷いた。
しばらくして、ようやくウェンディが身体を離す。そしてレベッカの額に軽く口づけをした。
「わっ、お、お嬢様……っ」
動揺して顔を赤くするレベッカに構わず、ウェンディは何度も額や頬に口づけを繰り返す。レベッカは動揺のあまり思わず悲鳴をあげそうになるが、それをなんとか我慢してウェンディの動きを止めるように声を出した。
「お、お嬢様!待ってください!私、聞きたいことがあるんです!!」
「少し待って……もうちょっとキスさせて……」
「いや本当に待ってください!この人達って、なんなんです?どうしてお嬢様を誘拐したんですか!?」
レベッカはエステルを指差して叫ぶような問いかける。ウェンディはようやく動きを止めた。顔をしかめながら、その場に座り込む。
「……話すと長くなるわね……えーと……どこから話せばいいのかしら?正直に言うと、私もなぜ誘拐されたのか正確には分かってないの。……まずこの女性はエステル・ランバートという方で……」
「あっ、それは知ってます」
レベッカがそう言うと、ウェンディは驚いて眉を寄せたが、
「一度コードウェル家のお茶会に来ていました。その時に顔とお名前を知って……」
そう話すと納得したように何度か頷いた。
「ああ、そうなのね……えーと、それでね……私の友人のご家族でもあるんだけど」
友人、という言葉にレベッカの肩がピクリと反応する。そのまま小さな声でウェンディに問いかけた。
「友人、というのは……あの、前に話した、ニコラス・ランバート様のこと、ですよね?」
「ええ、そう。コーリンのお姉様よ」
ウェンディはそう言って、何から説明すればいいのか思い悩むように言葉を止めてしまった。そんなウェンディにレベッカは再び恐る恐る声をかけた。
「……あの」
「え?なに?」
「……ランバート様は……お、お嬢様の……その……特別な相手、とお聞きしました……婚約するかもしれないって」
ウェンディから顔をそらしながら、言葉を放つ。肯定されたら心臓が止まるかもしれない。半ば覚悟しつつウェンディからの答えを待った。
「え?まあ、ある意味特別な友人ではあるけど……婚約はしないわよ」
ウェンディの言葉に息を呑む。
「婚約しないんですか!?本当に!?」
「え?ええ」
ウェンディはハッキリとそう答え、大きく頷いた。
「そ、そうですか……」
そして、フラフラとその場に座り込んだ。安心感でいっぱいになりながら声を漏らす。
「婚約しない……お嬢様は、婚約しない……」
確認するように何度も言葉にすると、顔を上に向けた。そうしないと、また涙がこぼれそうだった。
その時、パチンと軽い音がした。
「ウェンディ!!」
大きな声が聞こえて、そちらに顔を向ける。そこにはリースエラゴと共にクリストファーとリードが立っていた。
クリストファーは顔を青くさせながらウェンディに駆け寄る。そのまま大きく抱き締めた。
「よかった……本当に無事でよかった……」
ウェンディが困惑したように手を空中に彷徨わせる。そして、しばらくしてからクリストファーを安心させるように軽く背中をポンポンと叩いた。
「レベッカさんもご無事で何よりです」
リードもまた安心したようにそう声をかけてくる。しかし、レベッカは、
「婚約しない……結婚しないんだぁ……」
まだそう言いながら強く拳を握っていた。
その姿を見てリースエラゴは不思議そうに首をかしげていた。
ウェンディの無事を確かめるように抱き締めた後、クリストファーは今度はレベッカとリースエラゴに声をかけてきた。
「ありがとう、レベッカとリースエラゴさんのお陰で妹は救われた。本当にありがとう」
クリストファーは何度もそう言ってレベッカとリースエラゴに向かって頭を下げ、手を握りしめた。
「気にするな」
リースエラゴはヒラヒラと手を振り、何度も時間を気にしていた。多分見損ねたオペラを気にしているのだろう。今すぐにでもここから離れたがっている。
「あー、じゃあ、私はそろそろ戻る。私用があるんだ」
「そんな!まだお礼をしていないのに!」
「あー、だから気にするな。私は関わらなかったことにしてくれ。そちらの事情に干渉したくないし、関わることは避けたいんだ。今夜はレベッカにどうしてもと頼まれたから来たというだけだし」
クリストファーはそれでも何度もお礼がしたいと述べていたが、リースエラゴは嫌がるように何度も首を振る。
「感謝しているなら、どうか衛兵や騎士にも私のことは黙っていてほしい。適当に誤魔化してくれ。私にはいろいろと話せない事情があるんだ」
そう言うとクリストファーは渋々頷いた。
リースエラゴは安心したように息を吐いた後、こっそりとレベッカに声をかける。
「またな」
「うん。本当にありがとう、リーシー」
レベッカが頷くと、リースエラゴはニヤリと嗤う。そして、パチンという音と共に消えた。
「……本当にあの方って何者なの?」
ウェンディがレベッカに問いかける。レベッカは微笑みながらウェンディの手を握った。
「私の一番の友達です。それだけです」
その後はクリストファーの手配で、エステルとブルックスは衛兵に引き渡されることになった。2人はそのまま事情聴取をされるらしい。
レベッカとウェンディもまた事情聴取に応じなければならない。だが、怪我をしているということもあり、クリストファーがいろいろと取り計らってくれたらしく事情を聞かれるのは明日ということになった。それまでの間に衛兵にどう誤魔化すか考えなければならないな、とレベッカは頭が痛くなった。
レベッカはウェンディと共に医師から怪我の手当てを受け、コードウェル家へと戻ることになった。幸運にもウェンディは軽い怪我だけで済み、レベッカも手の傷だけしか残っていないので治療はすぐに終了した。
「レベッカー!!」
レベッカが屋敷に戻ると一番に迎えてくれたのはキャリーだった。
「よ、よかったあぁぁ!ああ、もう、本当に心配したんだから!」
「すみません、キャリーさん……」
キャリーは勢いよくレベッカに抱き付いて涙ぐむ。心配させたことを申し訳なく思いながら、レベッカは何度も謝った。
その後、レベッカは私室に戻り適当に服を着がえる。そしてすぐに部屋を出てウェンディの部屋へと向かった。
ウェンディの部屋の扉をノックすると、すぐに声が返ってきた。
「入って、ベッカ」
何も言ってないのに、レベッカだと分かったらしい。レベッカはゆっくりと扉を開けると部屋に足を踏み入れた。
「お嬢様……」
暗い部屋の中で、ウェンディはベッドに座っている。レベッカと視線が合うと、柔らかく微笑みながら手を差しのべてきた。
「こちらへきて」
いつもだったら、ベッドに上がるのは必ず断っている。だが、今のレベッカはその言葉に素直に従った。ベッドに上がってきたレベッカの身体を、ウェンディが引き寄せる。そして、後ろからまるでスッポリと覆うようにレベッカの身体を抱き締めた。レベッカもウェンディの腕に自分の手を重ねる。
しばらくウェンディもレベッカも無言だった。
「……お嬢様、学園の方は?」
レベッカがようやく囁くようにそう尋ねる。ウェンディはレベッカの耳に唇を近づけ小さく答えた。
「しばらく、休むわ……私もちょっと混乱してるの」
「混乱……」
「ええ……まさか、コーリンのお姉様がこんなことをするなんて思っても見なかったから……私の……いえ、私達の行動が間違っていたのかもしれない。私の考えが浅はかだった。もっと、きちんと話し合うべきだった……」
「お嬢様?」
ウェンディは、包帯が巻かれているレベッカの手を優しく握った。
「ベッカ、私が婚約するかもしれないって噂を聞いていたのね?」
「あっ、ええと……それは……」
レベッカが思わず目を泳がせると、ウェンディはクスリと笑った。
「分かりやすいわね。本当にあなたは可愛い」
そして、ウェンディは笑みを消すと真面目な顔をして言葉を続けた。
「あのね、全部嘘なの」
「……え?」
「ごめんね。あなたにはきちんと話しておくべきだったのかもしれない……私は、どうしても結婚したくなかった。そして、コーリンも……事情を話すことはできないけど、私と同じだった。私達はお互いの利益が一致していたから、……だから、共に過ごしていただけ。恋人のふりをしていたの」
レベッカがその話に目を見開いて、ウェンディの顔へと視線を向ける。ウェンディは顔を曇らせながら、レベッカの頭を撫でた。
「まだきちんとした事情は分からないけど……きっとエステル様は、私達の仲を勘違いしたんじゃないかと思ってる。コーリンは話していなかったから無理もないけど。“ニコラスを奪った”とか“誑かした”とか言われたから……コーリンの中で一番は私じゃなくて……間違いなくエステル様よ。私から、きちんと伝えればよかった……コーリンの事情は話せなくても、上手く伝える方法はきっとあったのに」
ウェンディはそう話しながらもレベッカの髪を撫で続ける。レベッカはハッとして声を出した。
「あの……じゃあ、もしかして、お嬢様が学園で嫌がらせを受けていたのって……」
ウェンディはその問いかけに苦笑した。
「よく知っているわね……そこは分からないわ。今、事情聴取しているみたいだから、その辺も多分明日にはハッキリ分かると思う」
そう言ってウェンディはレベッカの髪に口づけをする。そしてレベッカの身体を抱き締めたまま横たわった。
「……だけど、コーリンに、本当に申し訳ないわ」
「お嬢様……」
ウェンディの瞳が後悔の念で揺れている。まだほんのりと赤いその頬に触れながら、レベッカは声を出した。
「本当に、ランバート様と仲がいいんですね」
「ええ……そうね。きっと、一番心を許せる人よ。もちろん、あなたを除いて、だけど」
その言葉にチクリと心が痛む。
「あの……」
「うん?」
ウェンディが微笑みながらレベッカに視線を向ける。レベッカは思い切ったように言葉を出した。
「ランバート様とは……その……どのようにして仲良くなったんですか?」
「え?」
「あっ、えっと……その、お嬢様に大切な友人ができたということは本当に、本当に喜ばしいと思っているんですが……その、お嬢様が、他の人に対してそのように言うのは珍しい、と思って……」
ウェンディはレベッカ以外の周囲の人間、実の兄やこの屋敷の使用人にさえ氷のように冷たく接する。そんなウェンディがここまで言うニコラス・ランバートという人物のことが心から気になって仕方ない。一体どのようにして知り合ったのだろう?
ウェンディは少し考えるようにしながら声を出した。
「コーリンは……なんと言うか……たまたま知り合って……仲良くなっただけよ」
「……たまたま?」
レベッカがまっすぐに目を見ると、珍しくウェンディはオドオドしたように視線を逸らす。
「そう……たまたま……」
呟くようにそう言ったウェンディは、すぐに頭を抱えるように大きくため息をついた。
「……もう隠すのも限界ね」
「え?」
謎の言葉にレベッカは首をかしげる。そんなレベッカをまた抱き締めながら、ウェンディは言葉を続けた。
「コーリンとは秘密を共有しているの」
「秘密?」
「ええ。私の、大切な秘密。それをちょっとした手違いで知られちゃって……それがきっかけで交流するようになったのよ」
自分が知らないウェンディの秘密があることに、レベッカはややショックを受けた。
「秘密って……何ですか?」
恐る恐る問いかけると、ウェンディは一瞬躊躇ったが、すぐにレベッカの耳に唇を近づける。そして小さく囁いた。
その囁き声を理解した瞬間、レベッカは目を見開く。
「へ……え……?」
ポカンとしながらウェンディを見上げる。
「……え?嘘……冗談、ですよね?」
ウェンディは少し笑っていたが、目は大真面目だった。
「ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
レベッカは身体を起こして大きな叫び声をあげる。ウェンディも起き上がりながら慌ててその口を押さえた。
「ベッカ、夜遅いからちょっと静かに!ね?」
レベッカは口を押さえられながらコクコクと何度も頷く。ようやくウェンディが手を離してくれたので、矢継ぎ早に声を出した。
「え?本当に、そうなんですか?冗談じゃなく、本当に?」
大きく深呼吸する。そして再び問いかけた。
「本当に、本当の本当にお嬢様が作家の“レナトア・セル・ウォード”なんですか!?」
ウェンディは苦笑しながらも大きく頷いた。
「え、ええー?何ですか、それぇ……?嘘でしょう……?ええぇぇぇ?」
まだ現実を受け止めきれずに手を顔で覆う。ベッドから飛び降りると部屋中をウロウロと動き回った。タチの悪い冗談にしか思えないが、ウェンディはレベッカに対してそんな冗談や嘘を言わないことは分かっている。だから、これは事実なのだろう。
「何ですか、それ、本当に……聞いてないですよぅ……」
「言ってないもの」
ウェンディが涼しい顔をして答える。レベッカは顔から手を離すと、ウェンディに視線を向けた。
「なんで教えてくれなかったんですか!?」
その言葉にウェンディは目を逸らし、モジモジとしながら答えた。
「いや……なんとなく……言うのが、恥ずかしくて……」
「は、恥ずかしいって……」
「いつか言わなくちゃって思ってたの。でも、あなたが私の作品をすっごく誉めてくれるから……ますます言いにくくなっちゃって……」
いつか書庫で“レナトア・セル・ウォード”の作品について話したことを思い出す。その時に、ウェンディが居心地の悪そうな複雑そうな顔をしていた理由がようやく分かった。
「そんな……小説を書いていたなんて……知らなかった……」
思わず声を漏らすと、ウェンディはクスリと笑った。
「昔から書いていたのよ……本を読むだけじゃ我慢できなくて、自分でも書きたくなったの。本格的に書き始めたのはお兄様から誕生日にタイプライターをもらってからね」
幼い頃のウェンディがレベッカから隠れるようにしてタイプライターの文字盤を叩いていた光景を思い出す。あれは小説を書いていたのか、と今更理解した。
「デビューしたのは13歳の時よ。ベッカ、ほら覚えてない?あなたがいなくなる前、私が夕食に招待したでしょう?」
「へ?」
そう言われて記憶をたどる。そして、兄達に拉致される前、ウェンディに声をかけられたのを思い出した。
『あのねあのね、とっても素敵なお知らせがあるの』
『素敵な……?』
『うんっ!』
あの時のウェンディは心から幸せそうに微笑んでいた。
『んふふふ。今日の夜、お兄様と私の部屋で食事をするの。ベッカも来てちょうだい』
結局レベッカが夕食に来ることはできず、“素敵なお知らせ”が何だったのか不明のままだった。
「あの時の“お知らせ”はね、私のデビューのことだったのよ。初めて私の書いた小説の出版が決まったの。それで、夕食の時にベッカに話そうと思ったの。結局話せなかったけど」
「あ、あぁ……なるほど……」
呆然としながらそう答えたレベッカは、あることを思い出してパッと顔を上げた。
「あれ?でも待ってください!」
「なに?」
「あ、あの……私、前に、ある街で、“レナトア・セル・ウォード”を出版社で見たことがあるって人に会ったんです」
この屋敷に戻る前に、ファリーシュカという街に立ち寄り、本屋の店員に教えられたことを思い出す。確か、店員はこう言っていたはずだ。
『意外なことに僕よりも年上っぽい男性でした。少し気難しそうでしたけど、背が高くてキリッとしていて怖い雰囲気の……』
それをウェンディに話すと、ウェンディは「ああ」と声を出した。
「それ、お兄様の執事よ」
「え?あっ!リードさん!?」
確かにリードは“少し気難しそうで怖い雰囲気”という感じの容姿だ。
「私が“レナトア・セル・ウォード”だってことは限られた人間しか知らないの。お兄様とお義姉様、それにお兄様の執事とその妻、メイドのジャンヌ、それに出版社の職員の数人だけね。出版社に用事がある時はほとんどお兄様の執事が代理で行ってくれたから……」
ということはキャリーもジャンヌも全て知っていて、自分だけが知らされていなかったのかとレベッカは脱力しそうになった。
そんなレベッカを見つめながら、ウェンディは言葉を続けた。
「大変だったのよ。この屋敷にいる間は、あなたに隠れてコソコソ小説を書いて……あなたと過ごすために仕事は制限したかったのに、あの執事が仕事を持ってきて……出版社からどうしても次の作品をって頼まれたらしいけど、本当に最悪だったわ」
そういえば、リードがこの部屋にやって来て何かウェンディとコソコソしていたことを思い出す。どうやらあれは小説について打ち合わせをしていたらしい。
「……もっと、早く教えて欲しかったです」
レベッカが拗ねたようにそう言うと、ウェンディはその場にしゃがみこみ、手を伸ばしてきた。そのまま優しくレベッカの頭を撫でる。
「ベッカ、怒った?」
「……怒ってないです!」
「怒ってるじゃない」
ウェンディがクスクスと笑いながら、再びレベッカを抱き寄せた。
「だって恥ずかしかったんだもの」
「でも!だとしても!そんな大事なこと……」
ウェンディは少し考えるような様子で視線を外し、そのまま今度はレベッカの背中を撫でながら囁いた。
「黙っていたお詫びに今度はあなたのワガママをきいてあげるわ」
「えっ」
思わず声をあげてウェンディの顔を見る。ウェンディは悪戯っぽく笑っていた。
「あなたの願いを何でもきいてあげるわ、ベッカ」
その言葉を聞いたレベッカは迷ったようにしつつ、ウェンディの腕に触れる。そして、躊躇いながらも声を出した。
「……ほしい、です」
「うん?」
「今日は、ずっと抱き締めてください。ずっと一緒にいて、ほしいです」
明日、メイド長には怒られるかもしれない。だけど、今日だけはどうしてもウェンディと離れたくなかった。
ウェンディは少し驚いたように瞳を揺らす。そして、レベッカの包帯だらけの手に口づけをすると、
「もちろんよ、ベッカ。あなたがそう願ってくれるなんて、嬉しい」
そして微笑みながらレベッカの手を引いてベッドへと導いた。
ちょっと体調を崩しまして、更新が遅くなりました。少しずつ結末が近づいています。必ず完結させますので今後もよろしくお願いいたします。




