爆発
エステル視点の続き。
侯爵家の屋敷の中で、エステルとニコラスの姉弟は支え合うように、寄り添うように成長していった。信じられるのはお互いしかいない。エステルにとってニコラスだけが唯一の愛する存在だったし、恐らくはニコラスにとっても愛する家族はエステルだけだっただろう。父親のトビアスは相も変わらず子どもに興味がないようで、ほとんど屋敷に寄り付くことはない。あの人はもはや家族ではない。表向きは父を敬愛しているふりをする。だが、エステルにとって父親というのは、その辺に転がる石と同等の存在だった。ニコラスだけがエステルの家族だ。エステルにとって最愛であり唯一であり、そして守るべき存在だ。
母への罪悪感は日に日に薄れていき、忘却の奥底に埋もれていく。その代わりに時々思い出すのは、あの日部屋の中でニコラスが倒れている光景だった。
エステルは今でも夢を見る。夢の中で、ニコラスは真っ青な顔で倒れている。抱き起こしたニコラスの身体は冷たくて、ピクリとも動かない。その度にエステルは悲鳴をあげながら飛び起きるのだ。ニコラスを守ることができなかったエステルの後悔は少しずつ大きくなっていった。その思いは、そのままニコラスへの執着に繋がっていく。エステルにとって唯一で最愛の存在だ。絶対に失いたくない。大切な弟を守らなければいけない。絶対にもう二度と手離しはしない。そう、絶対に。
エステルは父を含む周囲の人間に対してほとんど無意識的に心の防壁を作り続けた。弟のニコラス以外の人間はエステルにとって、どうでもいい存在だ。ニコラスさえいれば何もいらない。
ニコラスにとっても、愛するのはエステルだけのはずだ。たまにニコラスが他のことに興味を向けることがあると、腹立たしくなった。表面上はおおらかに受け入れ、寛容な姉のふりをする。だけど、本心ではエステル以外の事をニコラスが考えるのは、吐き気がするほど嫌で、怒りが渦巻いた。心が乱れて、苦々しさに倒れそうになる。だから、構ってほしいために時折体調を崩したふりをした。そうするとニコラスは目の前の全てのことを投げ出して自分のもとへ駆けつけてくれるのだ。だから、ニコラスが他のことに関心を向けても、エステルは心の中で怒りながらも許せた。絶対に最後は必ずエステルのもとへ戻ってきてくれる。それを知っていたから。
ニコラスにとっても一番はエステルだということが何よりも嬉しくて、ますます弟への執着は強くなっていった。
ニコラスさえそばにいてくれればそれでいいのだ。世界で最も愛する弟。
ずっと、ずっと、ニコラスだけが、エステルにとって唯一の大切な存在だ。
少し成長すると、エステルも社交界へと足を踏み入れることになった。珍しく屋敷に戻ってきた父に命じられ、エステルはほとんど義務感で礼儀作法を習い、使用人の手を借りて着飾ると、パーティーや夜会へと出席した。
優雅で輝くような社交界の場で、エステルは自分の美しさを初めて自覚した。
エステルの美しさに周囲の人間は目を見開く。同じ年頃の少女達は羨望と嫉妬の混じった視線を送ってくる。
多くの人に注目され、声をかけられたエステルは、いつも通り心に防壁を作った。どんなに見目麗しい男性に優しい言葉をかけられても何も響かない。嬉しくもないし、心が踊ることもない。ただ覚えた作法通りに、周囲の人間達に言葉を返す。何を言ったかは瞬時に忘れてしまう。だが、エステルが言葉を発して、少し笑いかけただけで、人々は顔を輝かせ、嬉しそうに揺れるのだ。その姿を見ても何も感じず、誰にも心惹かれることはなかった。
──どうでもいい。ニコラス以外の人間なんて。
そのうち、エステルにいくつもの縁談の話が舞い込んできた。その全てをエステルは丁重に断ったが、ふとある予想して恐ろしくなった。
ニコラスもまた、エステルによく似て美しい顔をしている。きっと、社交の場に出れば多くの人々に注目されるだろう。今のエステルのように。そして、周囲の女性に心を寄せられ、結婚の話が出てくるに違いない。いつか、どこかの女性と心を通い合わせることになるかもしれない。エステルの手を離して、去っていく。最愛の弟が自分以外の女性のものになるのだ。
それを想像しただけで胸がキリキリと痛み、卒倒して倒れそうだった。
なんとかしてニコラスを縁談から遠ざけるしかない。エステルが上手く立ち回ればいい。心の中で防壁を作り続けながら、できるだけ多くの社交の場へと出向き、良好な人間関係を築く。少しずつ人脈を広げるのだ。そうしてひっそりとニコラスに近づこうとする女を裏で潰していこう、と決心した。
決意を新たにパーティーや晩餐会やお茶会に顔を出し、多くの貴族達と交流を深めた。本心では億劫で仕方なかったが、人脈を築くために、そしてニコラスを守るためには必要なことだと割り切った。そうしていくうちに、いつしか、エステルは社交界注目の的となり、男性はもちろん多くの女性にとっても憧れの存在となっていた。
社交界での絶対的な人気者となったエステルだったが、周囲の人間に対して全く興味はなく、その思いは相変わらずただひたすらニコラスへと向いていた。ニコラスが社交界に出向くようになったら、エステルの手で守らなければならない。だが、エステルにとって好都合なことに、ニコラスはパーティーや晩餐会など人の集まる場が苦手らしく、出席することはほとんどなかった。どうしても出席する必要のあるパーティーに何度か出向いたが、その度に真っ青な顔で帰ってきた。
『パーティーとか、そういう場はどうしても苦手なんだ……ごめんね、お姉様』
ニコラスは青白い顔で申し訳なさそうに謝ってきた。だが、エステルはこれ幸いとばかりに心の中でこっそりと歓喜した。
『苦手なのは仕方ないわ……私が代わりに出席するから大丈夫よ』
そう言ってニコラスを慰めるように背中を撫でる。ニコラスは表情を曇らせながら、うつむいた。
やがて、エステルは15歳になり、多くの貴族と同じように王都の学園に入学することになった。ニコラスを置いて寮に入るのは心苦しかったが、こればかりは仕方ない。それに、2年後にはニコラスも入学するのだから少しの辛抱だ。だが、心配のあまり、こっそり屋敷の数人の使用人を味方に付け、ニコラスの様子を定期的に知らせることにした。
学園に入ってからもエステルは全校生徒の注目の的だった。それなりに勉学に励み、周囲の人間と当たり障りのない関係を築く。エステル自身は周囲の人間に対して興味も関心も一切ない。だが、多くの生徒から“完璧な令嬢”だと言われ、その絶大な人気はとどまるところを知らず、いつの間にかクラスの生徒達から推薦されて生徒会長に抜擢された。生徒会には全く興味はなかったが、入学してくるニコラスを守るために生徒会長という地位があるのは悪いことではないだろうと思い、それを受け入れた。
『エステル様は本当に美しい。できることならお近づきになりたい』
『何事にも優秀で、優しくて温厚で、本当に素晴らしい方だ』
『本当に完璧な人ですわね。憧れますわ』
多くの人々がエステルを崇めるように称賛する。それを聞いても特に何も感じないし、嬉しいとさえ思わなかったが、生徒達が自分を崇拝するように慕ってくるのは悪くないと思った。エステルが少し微笑むだけで大抵の人間は思い通りになるのだ。生徒会長として、周囲の人間を自分の都合のいいように動かす。そのために常に明るくにこやかに、誰もが好きになる“完璧な令嬢”になった。そうしていくうちに、いつの間にかエステルは三大美女と呼ばれるようになった。
三大美女、と呼ばれるからにはエステルの他にも美しい女性が2人いるということになる。それは知っていたが、ニコラス以外の人間なんてどうでもいいと思っているエステルは特に気にすることはなかった。
エステルは想像もしていなかった。その三大美女の1人がニコラスに大きく関わることになることを。
◆◆◆
とうとうニコラスが学園に入学する年となった。エステルは姉として、そして生徒会長として、ニコラスを迎えるために万全な準備を整えた。
何よりも恐れているのは女生徒達がニコラスに惹かれ、近づくことだ。なにがなんでも阻止しなければならない。そのために人脈を築いてきた。今では多くの生徒がエステルの言いなりになるだろう。ニコラスに近づく人間は裏で手を回し、こっそり潰していくのだ。ニコラスを奪うことは許さない、絶対に。エステルは決意を新たに入学式の準備に励んだ。
そうして迎えた入学式の日、多くの生徒が学園へと足を踏み入れる。新入生の中にニコラスの姿を見つけたエステルはこっそりと微笑む。しかし、ニコラスから少し離れた所に立つある1人の生徒に視線が止まり、目を見開いた。
その女生徒を見た瞬間、エステルは不覚にも息を呑んでしまった。厄介な外見だ、と瞬時に思った。当然のごとく学園の制服を着ているが、その存在感は別格としか言いようがない。エステルは自分が美しいということを知っている。だが、今目にしている女生徒の美しさは、そんな次元ではない。神が作り上げた最高の芸術品ではないかとさえ疑うほどの美貌の持ち主だ。危険さえ感じる美しさに、エステルは知らず知らずのうちに唇を噛んだ。周囲の生徒達がオドオドとした様子で女生徒から距離を取る。限度を超えた美しさは人々を戦慄させるのだとエステルはこの日学んだ。
ウェンディ・コードウェル、という人間を意識したのはその日が初めてだった。
名前だけは知っていた。同じ年頃の貴族令嬢にも関わらず、その姿を目にするのは初めてだった。ウェンディは社交嫌いで有名であり、パーティーに参加することはほとんどない。エステルは今までウェンディという存在を気にかけたことさえなかった。
単純な美しさだけならエステルを上回るだろう。多くの人間がウェンディの美しさに見とれる。男性ばかりではなく女性さえもポッカリと口を開けてその姿から目を離せなくなる。
かなり危険な存在だ。エステルはこっそり頭を抱えた。自分が築き上げた地位を壊される恐れがある。何よりもニコラスと同じ学年ということが厄介だ。ニコラスと親しくなったらどうしよう、と心配したが、その不安は杞憂だった。
ウェンディは、美しい容貌に反して、その評判は驚くほど悪かった。周囲に無関心で、かなりの人間嫌いのようだ。無口で冷徹な人間であり、同級生はもちろん多くの生徒がウェンディに話しかけたが、帰ってきたのは冷たく鋭い視線だけだったらしい。当然ながら友人は全くいないが、それを気にとめる様子もない。何よりも彼女は“呪われた令嬢”だという不思議な噂があり、あからさまに避けている生徒も多かった。
『……綺麗、だけど……本当に綺麗なんだけど、性格が……』
『ほんんど何も話さないし……話しかけても全然応えてくれなくて、冷たいのよね』
『近づくと呪われてしまうらしい。なんて恐ろしい……』
人々はそう噂する。悪い噂を流されてもウェンディ自身は全く気にする様子はなかった。友人を作ることもなく、淡々と学生生活を送っている。同じクラスではあったが、ニコラスとの接点どころか会話を交わす様子もなかったため、エステルは安堵した。
エステルの予想通り、ウェンディほどではなかったが、ニコラスも入学した途端、生徒達の注目の的となった。ニコラスは幼い頃のトラウマが原因で女性がまだ苦手らしく、あまり女生徒と親しくはなろうとしなかった。だが、それでも強引にニコラスに近づこうとする女生徒は存在する。エステルはそんな生徒達を裏から手を回して片っ端から潰していった。
エステルが少し微笑むだけで、エステルを崇拝する生徒達は簡単に動く。エステルはほとんど行動はしない。ただ、微笑みや優しい言葉をかけるだけだ。そうして彼らを使って、ニコラスに近づこうとする女生徒達に、こっそりと嫌がらせや時には軽い脅迫をする。教師や親に訴えないように手を回して、不安要素は徹底的に排除していった。
学園を卒業する時もニコラスを守るためにひそかに手を尽くした。卒業をしてからすぐに、2歳年下のブルックス・アルマンと婚約した。ブルックスは古くから続くアルマン男爵家の跡取りであり、魔力が強く真面目な青年だ。だが、別にブルックスを愛していたわけではない。婚約者として選んであげたのは、ただ、手駒として使えそうだと判断したからだ。ブルックスは幼い頃からエステルに傾倒している。学生となってからはエステルに近づくために生徒会にも入ってきた。エステルはそんな彼の気持ちを最大限に利用して下僕のように使っていた。どんな扱いをされても、ブルックスはエステルを女神のように崇拝し、愛していた。その態度を若干うっとうしいとも思っていたが、ブルックスはエステルが望めば何でも言うことをきく。ニコラスと同じ学年であり近い存在であるブルックスなら、エステルが卒業しても上手く動いてくれると思ったし、実際にそうだった。エステルが命令した通り、ブルックスは逐一手紙でニコラスの様子を報告してくれたし、エステルの望んだことは全て叶えてくれた。まるで犬のように従順な青年だ。有り難くは思っていたが、恋心は全くなかった。飽きたら適当に理由を作り婚約破棄して、別の青年を使えばいい。他にもエステルの言うことを何でも叶えてくれる男性は何人もいるのだから。
◆◆◆
エステルが学園を卒業して、更にブルックスと婚約してからしばらく経った頃。
ブルックスからの手紙で、ある事を知って、エステルは驚愕した。
あのウェンディ・コードウェルとニコラスが親しくなっているらしい。
慌てて、学園に残っている学生達にも情報収集して、それが紛れもない事実であることを知った。
経緯はかなり単純だった。数日前にエステルは体調を崩してしまった。いつもの仮病ではなく、季節の変わり目で本当に風邪をひいてしまった。折悪いことに、高い身分の貴族が主催するパーティーに招待されていたのだが、出席できなくなってしまった。そんなエステルの代理としてニコラスがパーティーへと出向いてくれたのだが、どうやらそこでウェンディと親しくなったらしい。そのパーティーの後、ニコラスは時々ウェンディに声をかけ、会話を交わすようになった。2人きりでコソコソと話している姿が学園内でよく見られるようになったらしく、他の生徒達も恋人になったのではないかと噂をしているようだ。ウェンディはニコラスの事を“コーリン”というあだ名で呼んでいるらしい。
その噂を聞いたエステルは頭にカッと血がのぼるのを感じた。防壁を作ろうとしたのに上手くいかない。こんなこと、母が起こした事件以来だ。とてつもない不安に襲われ、目の前が真っ暗になる。ここまでニコラスとの距離が近くなった女性は初めてだ。ニコラスはウェンディと共に、エステルのそばを離れていくかもしれない。想像しただけで、気が狂いそうだった。
手紙でニコラスにウェンディのことを尋ねてみたが、ニコラスは何も話してくれない。エステルは何度も体調を崩したふりをして、それを学園に知らせる。すると、仮病とも知らずに、必ずニコラスは学園に外出届を出して屋敷へと戻ってきてくれた。その度にエステルは何度も何度もウェンディの事を持ち出してどんな関係か問いただそうとしたが、ニコラスは絶対に口を割ろうとしなかった。業を煮やしながらも、表向きは祝福しているふりをして、あからさまに婚約の話を振ったりもしたが、ニコラスはのらりくらりとかわし続ける。
あまりにもニコラスの口が固いため、エステルは他の方法で探ることにした。
ウェンディに関する情報を、人を使って片っ端から集める。学園や社交界のエステルを崇める信者達を使って、少しでもウェンディの事を探り続けた。また、コードウェル家で開かれたお茶会に顔を出し、迷ったふりをして屋敷の中を調べようとした。少しでもウェンディに関する秘密を握れないかと期待したが、残念ながら、屋敷の使用人らしき少女に見つかってしまったため、断念した。
そうこうするうちに、社交界にまでニコラスとウェンディが親しい関係という噂が広がり、婚約間近という話まで出てきた。エステルはその噂を聞いて、怒りが吹き上がり卒倒しそうだった。
最悪なことに、ウェンディはエステルよりも美しい。あの美しさにニコラスは魅了されたのかもしれない。いや、そうではない。きっとウェンディの方が、あの美貌を武器にしてニコラスに無理矢理迫ったのだ。
──あの女、許せない
エステルは怒りのあまり、出血しそうなほど強く拳を握った。
ニコラスは騙されているのだ。あの顔だけの女に。そうだ、そうに決まってる。
どうにかしてニコラスの目を覚まさせる必要がある。
あの女を排除しなければならない。
エステルは次の行動に移った。ブルックスや、学園内にいるエステルの信者達に命令して、ウェンディへの嫌がらせを開始した。
手紙で何度も『ニコラス・ランバートに声をかけるな』『呪われた化け物』などと書いてウェンディに送りつける。更に、ブルックスに命じて、鋏で教科書を切り刻む嫌がらせを行った。ウェンディは学校側に流石に報告したようだが、思ったより効果は薄く気にした様子は見せない。それどころか、ますますニコラスとの距離が近くなっているらしい。2人きりで過ごす時間が多くなり、卒業パーティーにもパートナーとして出席して、更にはその場で婚約を発表するという噂まで流れ始めた。
更には、長期休暇を間近に控えていた中、エステルのもとへ、とんでもないことが書かれている手紙が届いた。手紙はニコラスからで、次の長期休暇には実家に帰らないと記されていた。あんなにもエステルを第一で考えていたニコラスが、実家に帰ってこないだなんて到底信じられない。エステルを心配して今までは必ず休暇の度に帰ってきてくれたのに。ニコラスから送られてきた手紙によると、どうやら学園の近くに宿を取ってそこで過ごすらしい。一応は“ブルックスとの2人きりの時間を楽しんで”などと気を使うような言葉が書いてあったが、エステルを避けているに違いない。もしかしたら、長期休暇の間にもウェンディに会うつもりなのかもしれない。それを想像したエステルは、怒りのあまり、学園にいるブルックスを呼び出すと八つ当たりした。
『ニコラスは騙されているのよ。そうに決まってるわ。そうでしょう?』
『はい、その通りです。エステル様……』
エステルの声は静かだが激しい怒りを秘めている。ブルックスはその剣幕に震えながら一度顔を伏せる。しかし、すぐに、顔を上げると、
『お役に立てず申し訳ありません、エステル様……。ですが』
そう言って少し胸を張るように、言葉を続けた。
『嫌がらせはあまり効果がありませんでしたが、今度は必ず上手くいくと思います』
エステルはブルックスの言葉に眉をひそめる。
『は?ブルックス、あなた、何をしたのよ?』
『プレゼントとしてコードウェル嬢にハンカチを贈りました』
その言葉にエステルは鋭い視線でブルックスを見返した。
『は?ハンカチ?なんでそんなの贈ったの?もしもバレたら──』
『大丈夫です。差出人は書いていません。長期休暇中にコードウェル家に届くことになっています。そのハンカチの刺繍に、少しずつ生気を吸い取る魔法をかけました。きっと上手く──』
『馬鹿なの?』
エステルはブルックスの声を遮るように、そばにあったクッションを投げた。
『どこの令嬢が差出人を書いていない相手から贈られたハンカチを持ち歩くっていうの?もう少し頭を使いなさいよ』
『……え……で、ですが……』
ブルックスがオロオロとして固まる。恐らくエステルに褒められるのを期待していたのだろう。その顔が真っ青になっていくが、エステルはそれを気にとめることなく怒りを露にしながらため息をつき、
『もういいわ、帰って』
そう言うと、ブルックスから顔をそらすと腕を組んだ。ブルックスはオロオロとしていたが、やがてガックリと肩を落とすと部屋から出ていった。
残されたエステルはイライラとしながら考える。ブルックスは従順で何でも言うことは聞くが、肝心なところで詰めが甘く手ぬるい。これで効果があるわけない。
もはや、ニコラスへの想いとウェンディへの怒りで、エステルは防壁を作るどころか、感情さえ上手くコントロールできなくなっていた。
──もう我慢できない。直接的な行動に出るしかない。
エステルはとうとう決心した。
それからしばらくして、学園は長期休暇に入った。手紙に書いてあった通り、やはりニコラスは帰ってこなかった。その代わりに、オドオドとしながらもブルックスがエステルに会いに来た。そんな婚約者に、エステルはニッコリと微笑む。
『私からお願いがあるの。聞いてくれる?』
ブルックスが大きく頷いた。
『もちろんです。どのような願いでも、あなたのためならば……』
どうやら前回エステルを怒らせたことで嫌われてはいないか怯えているらしい。そんなブルックスの様子を眺めながら、エステルは声を出した。
『もう我慢できないの。あの女を連れてきて』
『は?』
ブルックスがポカンとする。エステルはハッキリと言葉を続けた。
『私が直接脅すのよ、あの女を』
『え?そ、それは……』
『あの女を連れてきなさい、私の前へ』
そう命じると、ブルックスは顔を真っ青にしながら慌てた様子で言葉を重ねた。
『つ、連れてくるなんて……あのコードウェル嬢を、ですか?脅すって……』
『脅すのは私がするわ。あなたは連れてくるだけでいいから』
エステルの前にウェンディを連れてくるだなんて、どう考えても不可能だ。ブルックスは今までウェンディとの交流は皆無だ。呼び出しても、嫌がらせで警戒が強まっている今、大人しくついてくるわけがない。それに、伯爵令嬢を脅すだなんて完全に度を越えているし、怒りのあまり我を失っている今のエステルが、脅すだけで終わるとはとても思えない。もしかしたら、何か危害を加えるかもしれない。そんなの、バレたらどうなるか分からない。
今までエステルのどんな要望も聞き入れてきたブルックスは流石に動揺して声を出した。
『エ、エステル様、その、それは──』
『少し話すだけよ。ニコラスに近づかないように、注意するだけだから。多少強引でも構わないわ。無理矢理にでもいいから、私の前に連れてきて』
冷静にそう話すエステルだったが、その声に激しい怒りが宿っているのが分かり、ブルックスは震え上がった。
『む、無理矢理と言われても……そんなことしたら──』
誘拐だ、と続けようとした言葉はエステルの声にかき消された。
『何度も言わせないで。私と結婚したいのなら、私の命令をききなさい』
◆◆◆
そして、今、エステルの前にウェンディ・コードウェルがいる。ウェンディは手足を縄で縛られながらも、鋭い視線をエステルに送ってきた。
「なぜ、こんな所に私を連れてきたの?」
こんな所、ウェンディとは言ったが、ここは紛れもなくアルマン家の所有する建物だ。ブルックスの父親であるアルマン男爵は薬師兼科学者でもある。研究を愛するあまり、アルマン男爵はいくつもの研究所を自ら作った。この研究所は、その一つだ。
古い建物であり、現在、研究所というよりはほとんど倉庫のような使われ方をしているらしい。エステルとウェンディの周囲にもたくさんの書物や、薬が入っているらしい瓶が並べられている。中にはかなり危険な薬が入っている瓶もあるようだが、特に気にしてはいない。ランバート家の屋敷を使うのは使用人の目があるために不可能だったので、ブルックスに無理矢理この研究所を借りたのだ。ブルックスは渋っていたが、ここなら人の目を気にする必要はない。この古い建物の周辺には、ほとんど誰も足を踏み入れないため、大声を出しても気づかれない。ウェンディが助けを呼ぶのは不可能だ。
「何が目的?」
ウェンディの問いかけに、エステルは手に持った扇を閉じて、微笑んだ。
「……近くで見ると、本当に美しい方ね」
そのまま扇をウェンディへと近づけ、顎に当てながら無理矢理顔を上げる。そして冷たい声を出した。
「この顔で、ニコラスを誑かしたの?」
ウェンディはその言葉に眉をひそめ、思わず声を出した。
「……はあ?何を言ってるの?」
その態度にカッとなったエステルは、思わず扇を捨てて、その手を振り上げる。そして、勢いよくウェンディの頬を叩いた。
「エステル様!」
ウェンディは目を見開き、後ろに控えていたブルックスが声をあげる。ブルックスの声にに答えることもなく、エステルは燃えるような瞳をウェンディに向けた。
「あなたのせいで!あなたが、奪ったから、ニコラスは帰ってこなくなったわ!!全部、あなたのせいよ!!全部、全部!!」
癇癪を起こしたように叫ぶエステルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「私の、ニコラスを返してよ!返しなさい!!」
その悲痛な声に、ウェンディは息を飲む。しかし、すぐにエステルを真っ直ぐに見つめると、声を出した。
「私は、奪ってない……コーリンは、あなたを大切に思ってる。コーリンは──」
ウェンディが何かを言いかける。だが、ニコラスの事を“コーリン”と呼ぶウェンディに我慢できなくなったエステルの怒りは爆発した。
「私の弟よ!!“コーリン”じゃない!!」
そのまま隠し持っていたナイフを取り出す。そして、それをウェンディの頬へと当てた。
「エステル様っ、落ち着いてください!」
ナイフを見てギョッとした様子のブルックスが駆け寄ってこようとする。エステルはそんなブルックスを魔法で突き飛ばした。ブルックスは悲鳴をあげて倒れこんだが、それに構わずエステルはウェンディを睨んだ。
「少し、脅すだけのつもりだった……でも、あなたが、悪いの……私から弟を奪おうとするあなたが……」
怒りのあまり声が震える。ナイフを当てられたウェンディは流石に顔を青くしたが、それでも冷静に言葉を続けた。
「いや、だから、そうじゃなくて……私と、その、あなたの弟は、ちょっと特別というか、かなり特殊で……めんどくさい関係ってだけで……」
ウェンディはどう説明すればいいのか分からず目を泳がせる。ニコラスとの関係は、決してエステルが思っているようなものじゃない。だが、ニコラスだけではなくエステルの過去にも関わっている複雑な話を、この場でどう説明すればいいか分からず、それ以上の言葉が出てこなかった。だが、“特別”という言葉を出した瞬間、エステルの顔が真っ赤になる。“恋人じゃない”と明確に否定すればよかったと気づいたが、もう遅かった。
金切り声をあげながら、エステルはウェンディの腹部を勢いよく足で蹴る。グッと息が詰まって、ウェンディは後ろへと倒れた。痛みで何も考えられなくなり、目の前が暗くなる。だが、エステルの声だけは聞こえた。
「ニコラスは私のものよ!!」
そう叫びながら、エステルがナイフを振りかざす。それを気配で感じたウェンディは、思わず目を閉じた。
次の瞬間、爆発するような音が聞こえた。
何が起きたのか分からない。雷がなったと思ったが、違うのだろう。ガラスの壊れるような音が響いて、直後にエステルが短い悲鳴をあげる。強い衝撃を感じたウェンディは、ようやく瞳を開けた。
最初に目に入ってきたのは崩れている壁だった。ウェンディの正面にあったはずの壁が、消滅している。エステルとブルックスが入ってきたはずの扉もない。見るからに固そうな扉は壁もろとも完全に破壊されていた。なぜか周囲には煙が渦巻いている。崩れ去った壁と扉の欠片がパラパラと崩れ落ちるのが見えた。ウェンディは呆然としながらその光景に目を見開く。揺らめくような白っぽい煙の中に人影が見えて、ウェンディの口から声が漏れた。
「あ……」
壁があったその場所に、誰かが立っている。
そして、
「やれやれ……ようやく見つけたぞ」
海のような瞳を持つ女はニヤリと笑った。
「それじゃあ、カーテンコールといこうか」




