防壁
エステル視点の過去編です。
エステル・ランバートという人間を形成するのは、罪と歪な愛情と、そして心の防壁。
──ただ、それだけ。
◆◆◆
エステル・ランバートは、誰よりも美しく、誰よりも優秀で、誰よりもニコラスを──たった1人の家族を愛していた。
エステルが物心ついた時から、母親であるハーモニーは心を病んでいた。
一日中屋敷の私室に閉じ籠り、ぼんやりと虚空を見つめている。その瞳は暗く濁っており、何も映っていない。時折ベッドに頭を沈めては、すすり泣いていた。その小さな泣き声は、徐々に号泣へと変化していく。屋敷中に泣き声が響く度に、エステルは使用人に手を引かれ、ハーモニーの私室に無理矢理押し込まれた。
ハーモニーに寄り添い、慰め、歪んだ愛を受け入れること。それが、エステルの幼い頃からの責務であり仕事でもあった。
『エステル……エステル……お父様が帰ってこないの……』
ハーモニーは嘆き悲しみながら、エステルにすがり付く。その姿は幼いエステルから見ても明らかに異様で、恐ろしかった。
『どうして私を無視するのかしら……?こんなにも愛しているのに……』
そんなの知らない、と突き放せればよかったが、エステルにとってはどんなに恐ろしくても、実の母親だ。
『おかあさま、だいじょうぶ。わたしがそばにいるわ』
そう言ってエステルは嘆き悲しむ母を必死に慰め、小さな手で抱き締めた。
『おとうさまにも、かえってくるようにおねがいするから……』
そうは言ったものの、父親であるトビアスは別邸で暮らしているらしく、滅多に屋敷には戻ってこない。元々他人に興味のない、冷めている人だった。大切なのは仕事と趣味だけで、家族に対して愛情などない。それどころか愛を求めて付きまとう妻を鬱陶しく思い、時には嫌悪感を露にすることさえあった。
稀に屋敷に帰ってくることがあったが、しつこく付きまとうハーモニーが煩わしいのか、冷たい瞳で睨むとすぐにどこかへ行ってしまう。その様子に失望してハーモニーは一層嘆き悲しみ、部屋の中で泣き喚くのだ。ハーモニーのその姿を使用人達はあからさまに避けており、現実から顔を背けるように誰も助けてはくれなかった。
一度だけ、珍しく屋敷に帰ってきたトビアスにエステルは声をかけた。
『おとうさま、どうかおねがいします』
エステルはトビアスの服の裾を掴み、懇願するように言葉を続けた。
『もうすこし、すこしだけでいいから……おかあさまにこえをかけてあげてください……』
母を哀れみながら涙を流すエステルへと返ってきたのは、父の侮蔑の視線だった。
『あの女の話を私にするな』
トビアスは氷のような声でそう言い放つと、エステルの手を振り払った。
『あの女も、お前も、存在の全てが不愉快だ。本当に鬱陶しくて、気持ちの悪い』
父の言葉が理解できず、エステルは呆然とする。そんな娘の様子を気にかけることもなくトビアスは言葉を続けた。
『いいか?決して私に面倒をかけるな。母親が大事ならば、お前が上手く立ち回れ。適当に対処すればいいだろう。私に迷惑をかけることは許さない。お前が何とかするんだ、エステル』
そう言って背を向けると、興味を失ったように去っていった。
頭の中がビリビリとしびれて、全身が冷たくなる。父の言葉が頭の中で何度も繰り返されて、刃のように胸を刺す。痛くて痛くてたまらない。それを取り払うように必死に頭を左右に降る。エステルは身に付けている服を握った。涙を流すのを我慢しなければならない。母を慰めるために、支えるために、しっかりしなければ。
──わたしが、なんとかしなくちゃ。
母に寄り添うため、父からの言いつけを守るため、そして、完全に心が崩壊するのを防ぐために、エステルは自分の中に壁を作ることを覚えた。
母が泣き喚く。父が存在を無視する。使用人達に避けられる。そんな現実に直面する度に、自分の中に、防壁を作る。決して心が壊れないように、丈夫な防壁を。壁さえ作れば傷つくことはない。どんなに辛くても、苦しくても、笑顔で対応できる。自分の心を守る防壁さえあれば、母を支え続けることはできるはずだ。エステルさえ上手くやれば、きっと──
『だいじょうぶ。わたしが、すこしがまんすればいいだけ……』
自分に言い聞かせるように、呟く。
『わたしが、もうすこし、がんばれば……きっとおかあさまは、げんきになる。おとうさまも、もどってくるはずだもの……それに、それに……ニコラスがいる』
エステルにとって、唯一壁を作らずに接することができる相手、それは弟のニコラスだけだった。可愛くて可愛くてたまらない、たった一人の弟。
『ニコラスがいるから……がんばるの……』
エステルは弟のためだったら、どんなに辛くても苦しくても頑張ることができた。いつか、きっといつかは、絵本の中で見たような愛のあふれる家族になれるはずだ。そう信じていた。
だが、そんなエステルの努力が報われることはなかった。母のハーモニーの精神状態はどんどんひどくなっていく。壊れていく母は、まるで父の代わりにするように、エステルとニコラスに愛を求めていくようになった。
『エステル、ニコラス……愛してるわ……私の可愛い子……』
ハーモニーは自分の子ども達に囁くように何度も尋ねてくる。
『ねえ、お母様の事が好き?愛してる?』
そう聞かれる度に、エステルの心は咄嗟に防壁を作り出す。そして無理矢理笑顔を作りながら、その愛に答える。
『ええ、あいしてるわ、おかあさま』
小さな弟のニコラスも、戸惑ったように答える。
『ぼくも、だいすき』
そう言うと、ハーモニーは歓喜したように微笑み、2人を強く抱き締めた。
『もう一度言って……好きと、愛してると、言ってちょうだい』
母が満足できるように何度も愛を返す。そうすると、ハーモニーは子ども達の額や頬に口づけをして、懇願するように声を出した。
『……どうか、そばにいて。あなた達はどこにも行かないで』
『ええ、もちろんよ、おかあさま』
エステルはそう言って抱き締め返した。
エステルは心が傷つくのを防ぐために、自分の中に防壁を作ることを覚えたが、弟のニコラスはそんなことができるはずはなく、ひたすら母の様子に戸惑い、恐れているのが分かった。
『お母様はおかわいそうな方なのよ』
エステルはニコラスを慰め、励まし続けた。
『お父様が、かえってきたら、きちんとおはなしするようにおねがいするわ……だから、だいじょうぶよ』
どんなに訴えても父が自分達を気にかけることなどない。それは分かっていたが、弟を、そして自分の心を守るために、誤魔化すようにそう言うしかなかった。
幼いエステルは全てが崩壊しかけていることに気づかなかった。気づいたとしても、きっとどうすることもできなかったのだろう。だけど、だけど、それでも──
ニコラスはエステルが守らなければならなかったのに。
母の様子がおかしい。
最初にそれに気づいたのは他ならぬエステルだった。母の目がいつもと違う。ぼんやりとしていて暗く濁っているのは同じだが、妙に不気味な光を放っている。なぜか、それを恐ろしく感じた。
『今日、ちょっとへん……』
子ども部屋にて、エステルは思わずそう呟く。すぐにニコラスは反応して聞き返してきた。
『へん?なにが?』
エステルは難しい顔をして首をかしげた。
『お母様……なんだか、ずっとぼんやりしてる……なんだか、こわい目をしてるの……』
ニコラスが顔をしかめる。
『……おかあさまはいつもこわいよ』
その言葉にエステルは言い返そうとしたが、どう言い表していいのか分からず、モゴモゴと呟いた。
『そうじゃなくて……うまくいえないけど、いつもとちがったの』
なぜだろう。胸がゾワゾワと音を立てる。それを感じながら、エステルは大きく息を吐いた。
『なんだか、イヤなかんじがしたの』
母が何をしようとしているのか、幼いエステルにもニコラスにも予想することなどできなかった。
その後、すぐにエステルは家庭教師によって別室へと連れていかれ、ニコラスは1人で子ども部屋に残ることになった。
家庭教師の授業を受けていた最中、何か大きな音と悲鳴のような声が屋敷に響いた。母の声が聞こえたような気がする。エステルは瞬時に立ち上がると家庭教師の制止を無視して部屋を飛び出した。全速力で廊下を走り、子ども部屋へと向かう。すると、部屋の前で使用人達がオロオロとしている姿が見えた。
『どいて!』
集まっている使用人を押し退けるようにして、子ども部屋へと飛び込むと、グッタリとしたように床に横たわるニコラスが見えた。
『そんな──ニコラス!』
悲鳴をあげて、エステルは弟に駆け寄る。
『ニコラス!ニコラス!』
大声で呼び掛けながら、小さな弟の身体を必死で起こした。ニコラスは瞳を閉じたまま何も答えない。その細い首には手の痕が残っており、エステルは思わずギョッとする。同時にニコラスが咳き込んだ。必死に呼吸をしながら、ぼんやりとエステルの方へと視線を向けてくる。
よかった、生きている。エステルは安堵のあまり泣きじゃくりながら弟を抱き締めた。
『よかった……ニコラス、ニコラス!だいじょうぶ!?』
ニコラスは微かに頷くと、そのまま気を失ったように瞳を閉じる。エステルは泣きながら顔を上げると近くにいた使用人に声をかけようとした。
『この子を──』
医者に見せて、と言おうとしたが、その前に視界に飛び込んできたのは母の姿だった。ハーモニーは使用人達に取り押さえられている。髪を振り乱し、恐ろしい形相で暴れていた。
『離して……!離しなさい!!その子達を殺して、私も死ぬの!!ひとりはもういやなの!!』
その言葉で、エステルは母が弟の命を奪おうとしたという事を理解した。悲痛な叫び声が部屋中に響く。
『お願いだから、死なせてよぉ……あの人と離れるくらいなら、子どもと一緒に死なせて……!』
──この人は、なんでこんな母親なのだろう。
エステルは防壁を作ろうとした。いつも通りに。母に優しく声をかけて、愛の言葉を伝えるべきだった。どう見ても錯乱している母を宥めて、安心させるのが、エステルの役目だった。
だけど、この世で一番大切な弟を失いかけたエステルの心が、いつもの防壁を作るのを拒否した。きっと母が弟を殺そうとしたという事実に、エステル自身も追い詰められて精神状態が破綻していたのだろう。元々限界を向かえていた心に大きな亀裂が入る。エステルは顔を上げると、鋭い瞳で母を見据えた。
そんなエステルの様子に気づかず、ハーモニーは再び泣き叫ぶように言葉を漏らした。
『どうしてこんなことになったの……?どうして、あの人は愛してくれないのよぉ……』
母の嘆くようなその言葉に、エステルだけが応えた。
『お母様のせいでしょ……』
ポツリと呟くような声は小さかったが、母には届いたらしい。暴れていたハーモニーはピタリと動きを止めた。
『お母様が、そんなだから……お父様はここに、こないのよ。お母様が……きらいなのよ。だから、お母様は、ひとりぼっちなの……ずっと、ずっと……そうだったじゃない!』
ハーモニーが呆然として、大きく目を見開く。
エステルは涙を浮かべながら母をまっすぐに見返す。そして、
『そのまま……っ、ひとりぼっちのまま、かってにしねばいい!』
そうはっきり言い放つ。その言葉にハーモニーは放心したような顔をした。そのまま使用人達に取り押さえられ、どこかへと連れていかれる。エステルは泣きじゃくりながらニコラスを強く抱き締めた。
エステルはこの時の事を死ぬほど後悔することとなる。ニコラスを1人で子ども部屋に残したことを。そして、哀れな母にひどい事を言ってしまった事実を。
ハーモニーはその後すぐに侯爵家の一室で首を吊って、その命を終わらせた。エステルが言った通り、ひとりぼっちで。
愛する母が亡くなった。その命を、自ら散らせた。
使用人から連絡を受けた父のトビアスが珍しく慌てた様子で屋敷へと戻ってきたが、それを気にすることもなくエステルはずっと意識のないニコラスに寄り添っていた。
ニコラスが意識を取り戻す少し前に、母が亡くなったという事を、エステルは使用人から知らされた。その後のことはよく覚えていない。気がついたら、後始末も、葬儀も終わっていた。エステルはニコラスに寄り添いながら無言で静かな葬儀の光景を見つめることしかできなかった。父親のトビアスは自分の子ども達の異常な状態に気づくことなく、葬儀を終えると、再びどこかへと去ってしまった。
大きな屋敷の中に弟と共に残されたエステルは、この世にもういない母へと想いを馳せる。母の背中を押したのは間違いなくエステルの最後の言葉なのだろう。
それを痛いほどエステルは自覚していた。これは、エステルの罪だ。言ってはいけない言葉を言ってしまった。どれ程後悔しても、もう遅い。失った生命は帰ってこない。
どんなに恐ろしくても、精神を病んでいても、それでもエステルにとっては、たった一人の母だったのに。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。弟を殺そうとした母に初めて怒りを覚え、勢いあまって、酷いことを言ってしまった。母が亡くなったのはエステルの責任だ。
母への思いが胸の中でキリキリと疼いた。幼いエステルは知らなかったが、それは母を死に追いやったことへの罪悪感だった。あまりの痛みに心が砕けそうになる。同時にニコラスから母を奪ってしまったことに対しても、心苦しさで胸がいっぱいになった。それは、幼いエステルが抱えるには、あまりにも重いものだった。
『おかあさま……』
底知れぬ絶望感に、自分の気持ちを整理する術をもたないエステルは涙を流す。憂鬱さと落胆に心が支配される。何よりも絶望で目の前が真っ暗だ。居ても立ってもいられず、死にたくて死にたくて堪らなくなる。そんな自分の感情に戸惑い、怯えた。
『おかあさま……』
母を思い、涙を流す。そんなエステルを慰めてくれたのはニコラスだけだった。
『おねえさま、なかないで』
小さな弟は、そう言ってエステルの手を握り寄り添ってくれた。
幼いニコラスもまた、母の事件が深い心の傷となって残ってしまった。元々大人しい性格ではあったが、事件の後は口数が少なくなり、感情が欠落したようにぼんやりとしている時間が増えた。また、母に襲われた影響なのか、特に女性に対して拒否反応を示すようになった。エステル以外の女性が近づくと全身が震えだし、顔色が真っ青になる。眠っている時は魘され、時には悲鳴を上げながら飛び起き、泣きじゃくる夜もあった。
それでも、ニコラスは懸命にエステルに寄り添い、支えてくれた。
『ニコラス……ニコラスはどこにもいかないで……ずっとここにいて……っ』
あまりの辛さにそう言って泣きじゃくるエステルを、小さな手で抱き締め返し、ニコラスは頷いた。
『だいじょうぶ、……ずっとそばにいるから』
そう言ってくれるニコラスを強く抱き締める。
──きっと、大丈夫だ。ニコラスさえいれば。
──きっと、立ち直れる。また防壁を作るの。そうしたら、今度こそニコラスを守らなくちゃ。
──失いたくない。ニコラスだけは。
この子は、エステルの家族なのだから。だから、今度こそ失くさないように守らなければ。絶対に離れない。
エステルの中で、弟への歪んだ思いと執着が生まれた。
事件当時、母に襲われたニコラスは気を失っていたから、エステルが母に対して言い放った酷い言葉を知らない。でも、きっと、知られたら、ニコラスはエステルを嫌いになるに違いない。ニコラスにとっても大切な母だったのだから。母に死のきっかけを与えたのはエステルだ。知られたら、恐らくニコラスは軽蔑し、そして離れていく。
──それだけは避けなければ。
エステルは何よりも弟が離れていくのを恐れ、危惧した。だから、決意する。母の本当の死の原因を永遠に自分の胸の中に仕舞っておくことを。
幸運にも、ハーモニーが起こした事件は、父のトビアスによって完全に隠蔽された。関わった使用人達には箝口令が敷かれたため、もう誰も事件のことは口にしない。
侯爵家でハーモニーの存在とエステルの罪は完全に消え去った。
本当は過去編は1話で済ませる予定でしたが予想外に長くなりそうなので次に続きます。それにしても最近主人公の影が薄いな……。




