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その道を選ばない


秘密の契約を結んだその日から、ニコラスとウェンディは偽の恋人として共に多くの時間を過ごすことになった。

契約期間は卒業パーティーまでと決めた。卒業したら、お互いにただの友人に戻ることになっている。正直、ウェンディのこの計画が上手くいくか心配だったが、ニコラスの想像以上に近寄ってくる女性が減少した。あることないこと噂をされるのは煩わしいが、それ以上に恋慕の視線や女性の声に悩ませられることがほとんどなくなって、ニコラスの学園生活は以前と違い遥かに快適になった。多分、相手がウェンディであるという事が大きいのだろう。どんな女性もウェンディの姿を目にすると、あまりの圧倒的な美しさに怖じ気づいて気後れしてしまう。それ故、ニコラスの相手がウェンディだと知るとほとんどの女性は怯んで離れていった。ニコラスとウェンディが一緒にいるだけで周囲は勝手に勘違いし、噂を広めていく。ニコラスは周囲の友人にウェンディとの事を聞かれたが、ウェンディに言われた通り肯定も否定もせず、『想像に任せるよ』などと曖昧な言葉を返した。その噂はとうとう学園を越えて、社交界にも広まっていったため、ニコラスは内心焦ったが、ウェンディはほとんど気にしていない様子だった。

『本当に助かってるわ。婚約の話がたくさん来てうるさかったんだけど、かなり減ったの』

ウェンディの言葉に、ニコラスはクスクスと笑った。

『それは僕もだよ。実家に帰る度に姉にいろいろ聞かれるのは困ってるけどね……君はご家族に詮索されたりとかしない?』

ニコラスの問いかけに、ウェンディは苦々しい顔をした。

『……兄とは話してないから、分からないわ』

その様子にニコラスは首をかしげた。

『前から思っていたけど、君、お兄さんと仲が悪いの?』

ニコラスは、ウェンディの兄であり現コードウェル伯爵であるクリストファーとは直接話したことはない。だが、彼がとても誠実で温和な人物であることは知っていた。だが、ウェンディの口から兄の話が出ることはほとんどない。その事を不思議に思っていた。

ニコラスの問いかけにウェンディは顔をしかめながら答えた。

『……昔は、仲がよかったんだけど……ちょっと、前にいろいろあって……私が怒って避けるようになった、だけ……』

『喧嘩?』

『……うん、まあ。そんな感じ、かな』

どうやら複雑な事情があるらしい。ウェンディは詳しく話すのを嫌がっている。それを察したニコラスは、

『早く仲直りできるといいね』

と慰めの言葉だけをかけた。その言葉にウェンディは渋い表情のまま、ニコラスから目をそらすようにして小さく呟いた。

『そう、ね……』

ニコラスはそんなウェンディを見つめながら言葉を重ねた。

『もしも、卒業したあと、君に結婚の話が出て……この関係が君にとって不都合な状況になったら、いつでも言ってくれ。できるかぎりの事はするから……』

ニコラスがそう言うと、ウェンディは首を横に振った。

『大丈夫よ。前にも言ったけど、自分の事は自分で責任を取るから……それに、私、結婚は無理だろうし』

『え?』

ニコラスが驚いて声をあげると、ウェンディはハッとしたように表情が固まった。

『結婚は無理って……どういうこと?』

ニコラスが問いかけたが、ウェンディはそれに答えるのを拒否するかのように立ち上がる。

『話しすぎたわ。忘れてちょうだい』

そう言って素早くどこかへと行ってしまった。

1人残されたニコラスはウェンディの言葉の意味を考える。好きな人がいるのに結婚は無理というのはどういう事なのだろう?結婚できない事情がウェンディか相手側にあるのだろうか?

『……好きな人が既婚者、とか?』

いろいろと考え勝手な想像を張り巡らせるが、結局ウェンディの言葉の意味はよく分からなかった。







季節は穏やかに巡り、長期休暇間近となった。ニコラスは実家への帰省が憂鬱で、頭痛の種になっていた。エステルには会いたいが、休暇中、絶対にウェンディの事について質問責めにあうだろう。最近では同学年でありエステルの婚約者でもあるブルックス・アルマンにも根掘り葉掘りウェンディとの関係を尋ねられてうんざりしていた。ウェンディもまた、帰省するのが嫌なのか、顔をしかめて大きなため息をついた。

『……帰りたくない』

『仕方ないさ、こればかりは』

ニコラスの言葉にウェンディはイライラとした様子で頭を抑える。

『休暇中、他に予定は?』

ニコラスが問いかけると、ウェンディは、

『何も。仕事をするくらいね』

そう言いながら肩をすくめた。

『休み中にそれは大変だね』

『まあ、好きな事だし……あっ』

ウェンディが何かを思い出したように声をあげる。そのままニコラスの耳元に顔を近づけると、コソコソと他の人間に聞かれないように言葉を続けた。

『そういえば、今度、児童書で新しいシリーズを始めるの』

『えっ、新作?』

ウェンディが頷いたため、ニコラスは顔を輝かせた。“エランの剣”以来の新しいシリーズだ。“レナトア・セル・ウォード”の作品はほとんど全てが高い評価を受けているが、とくに児童書は子どもだけではなく大人まで絶大な人気がある。そのため、ニコラスを含め熱心なファンは新作を今か今かと待ちわびていた。待ちに待った喜びの知らせに、ニコラスはやや興奮したようにウェンディに問いかける。

『今度はどんな話?“エラン”みたいな冒険もの?』

『ううん。そういうのじゃなくて、ちょっと変わった設定の探偵小説なの』

その言葉を聞いただけでニコラスはワクワクした。

『ミステリーか!珍しいね。すごく楽しみだよ』

『ええ。発売はまだ先だけど……あなたに1冊プレゼントするわ』

『えっ!?』

ウェンディがそんなことを言ったのは初めてだったので、ニコラスは驚愕して思わず大声をあげた。

『声が大きいわよ』

『あ、ごめん……ど、どうしたの?突然プレゼントなんて……』

当然自分自身で購入するつもりだったニコラスは戸惑いながらウェンディを見返した。ウェンディは腕を組み、少し気まずそうな声を出す。

『えっと、実は……』

ウェンディが何かを言いかけたその時、同じクラスの友人の声が声をかけてきた。

『ニコラス、先生が呼んでるよ。教務室に来てくれって』

そう言われたニコラスは慌てて振り返り、

『え?分かった』

と答える。突然の教師からの呼び出しを不思議に思いながら、ウェンディに向き直った。

『ごめん、行ってくるね』

『ええ。いってらっしゃい』

ウェンディが快く頷いてくれたため、ニコラスは軽く頭を下げなから教務室へと向かう。教務室にて、再びエステルが倒れたという実家からの知らせを受け取ったニコラスは慌てて実家へ戻るための準備をする。結局その後はウェンディと話す機会がないまま、長期休暇へと入っていった。






エステルは元々少し身体が弱い。幼少期から学生時代まで季節の変わり目に必ず体調を崩し、寝込んでいた。だが、学園を卒業してから倒れることが増えてきている。ニコラスはエステルが体調を崩す度に、実家へ戻り様子を確認していた。

今回もまた、ランバード家に戻ったニコラスを待っていたのは、体調を崩してベッドに横たわるエステルだった。医師を呼ぼうとするニコラスをエステルは止めた。

『風邪と、ちょっと疲れが溜まっているだけよ……昔からよくあったでしょう?』

エステルは穏やかに、しかし頑なに医師を呼ぶことを拒否する。ニコラスは顔をしかめて言葉を返した。

『でも最近多すぎるよ……やっぱり一度診てもらった方が──』

『大丈夫だから!もう、ニコラスは心配しすぎよ。自分の体のことはよく分かっているから……何かあったら必ずお医者様に相談するわ』

エステルはベッドの上でニコラスを安心させるように微笑む。そんな姉を見つめながら、ニコラスは渋々頷いて大きく息を吐いた。

『本当に、少しでも変わったことがあればすぐに相談してほしい……』

『ええ、分かってる。それよりも、ニコラス』

突然エステルがベッドの上で上半身を起こし、こちらへ身を乗り出す。

『聞きたいことがあるの』

エステルが何を聞きたいのか察して、ニコラスは思わず後退りしそうになった。

『……なに?』

『学校でのこと、聞いたわ。コードウェル家のご令嬢とのこと』

思った通りだ。ニコラスは頭を抱えながら目を閉じた。

『パーティーとかでもよく聞かれるのよ。婚約間近だとかいろいろ噂になってる。いい加減話してちょうだい』

ニコラスは無理やり笑顔を作りながら、言葉を返す。

『……いや、仲良くはしてるけど……婚約はしてないよ』

エステルは珍しく少し怒ったような顔をした。

『当たり前でしょう。あなたが勝手に婚約してたら流石に怒るわよ。家同士の問題も絡んでくるんですからね』

『ああ、そう、だよね……』

エステルは真剣な顔をして、ニコラスに問いかけてきた。

『本当のところを教えて、ニコラス。コードウェル家のご令嬢はただの友達なの?もっと親密な関係?』

『あ、いや、その……』

『恋人なの?将来のことは考えているの?それとも、もしかして他に好きな人がいたりする?』

“恋人”や“好きな人”という言葉にニコラスの身体が勝手に反応する。ゾワゾワする不快感を誤魔化すように、ニコラスは慌てて立ち上がった。

『ごめん、姉様、その話はまた今度ね』

『あっ、ちょっと、ニコラス!』

引き留めようとする姉を残して、ニコラスは慌てて部屋を出ていった。そのまま自分の部屋へと戻ると、中へ入り、ベッドに倒れこむ。

『……疲れた』

全身が怠い。姉に詮索されるだろうという事は予想していたが、想像以上の質問責めにあったことで異様な疲労感のようなものを感じていた。だが、それ以上に、自分への嫌悪感で泣きたくなるほどつらい。最愛の姉、エステルに隠し事をして、嘘をついて、取り繕って誤魔化し続ける自分が情けなくて胸が痛い。

『……ウェンディも今頃つらい思いをしてるのかな』

ウェンディの美しい顔を思い出しながら呟く。彼女の事情はよく知らないが、ニコラスと同じようにウェンディにとって実家が居心地の悪い場所であることは確かだ。つらい思いをしているかもしれないと思うと心配だった。

いや、それよりも、まずは自分のことを考えよう。ニコラスは目を閉じて頭を抑える。休暇中、エステルの詮索を上手く誤魔化し続けなければならない。いや、休暇中だけではない。今後の自分のことも考えなければ。

現在はウェンディの協力もあって声がかかることはないが、いずれ卒業してウェンディとの仮の関係が終われば、必ずどこかの貴族から令嬢との婚約話が持ちかけられるだろう。いつまでもそれを拒否するのは不可能だ。あの無関心な父親もニコラスが独身を貫くのは流石に黙っていないだろうということは察せられた。誰かと結婚するのを想像して、ニコラスは身震いする。自分が誰かと夫婦になれるわけがないと確信していた。婚約なんて、結婚なんて、できるわけがない。自分が誰かを愛するなんて不可能だ。それ以上に他人から愛されるなんてあまりの恐ろしさに目の前が真っ暗になる。

誰か、事情を理解してくれるうえで結婚して、仮の夫婦として生活をしてくれるような人がいればいいのに。そう、ウェンディのようにお互いに都合のいい共闘関係を──

『……あっ』

ニコラスは不意にあることを思いついて身体を起こした。

ウェンディは好きな人はいるが結婚は無理だと言っていた。ならば、現在の女避け・男避けの関係を卒業後も続けることはできないだろうか。正式に、結婚という形で。難しいかもしれないが、恐らくできないことはない。ウェンディは伯爵家の令嬢であり、家柄も身分も釣り合っている。父もエステルも納得するだろう。

何よりもニコラスはウェンディとならば上手くやっていける自信があった。友人の延長として、仮初の夫婦という形にはなるが、きっと共に歩むことができる。現在のウェンディとの関係は良好だし、彼女はニコラスの事情を承知のうえで女避けとしての役割を引き受けてくれている。もちろんウェンディ側も事情があるだろうが──

『学校が再開したら、提案してみるか』

そのために、この休暇を何とかして乗り切ろう。

ニコラスは決意を新たにゆっくりとベッドから降りた。






エステルの追求を躱して、なんとか誤魔化しながら長期休暇を過ごし、ニコラスはようやく学園へと戻ってきた。

授業のためにクラスに入ったニコラスは、一番にウェンディの姿を探す。いつも通り1人ポツンと椅子に座っているウェンディに後ろから声をかけた。

『やあ、久しぶり、ウェンディ』

その声に反応して、ウェンディは振り返る。

『ああ、久しぶり』

その顔を見てニコラスは眉をひそめた。

何だろう?何かが違うような気がする。いや、ウェンディの美しい顔は変わらない。だが、決定的に何かが変わった気がする。

『ウェンディ……』

ニコラスが再び声をかけようとしたその時、教師が入ってきたため、慌ててニコラスは自分の席へと戻った。

新学期が開始となり、やらなければならないことがたくさんあるため忙しい。そのため、しばらくウェンディと2人きりで話す時間が取れなかった。

授業中にこっそりと遠くからウェンディを見つめる。ニコラスは首をかしげた。やはり、休暇が明けてからウェンディの様子がおかしい。いつも仏頂面で感情のない表情だったが、今は少し明るい気がする。それにどこかソワソワしていて落ち着きがない。ぼんやりと考え事をすることが増えた。多分、他の人間は気づいてないだろう。本当に些細な変化だが、確実に休暇前の彼女とは違う。多くの時間を共に過ごしてきたニコラスだからこそ気づいた。

一体、長期休暇中にウェンディに何が起きたのだろう?

なかなかタイミングが合わず、ウェンディに話を切り出すことができずにいたが、それから数日後、ようやく少し時間ができたため、学生用の食堂で1人で食事をしていたウェンディの方へと向かった。防音魔法をかけてから、早速ウェンディに声をかける。

『……ウェンディ、休暇中に何かあった?』

『……なんでそう思うの?』

『いや、休暇が終わってから、なんとなく楽しそうというか……少し明るくなったような気がしたから』

ピクリとウェンディの肩が動く。しかし、結局いつも通り素っ気ない返事が返ってきた。

『……別に。コーリンには関係ない』

『そっか』

ニコラスはその頑なな様子に深く踏み込むことを諦めた。しばらく会話を交わし、本題を切り出す。

『僕と婚約をしないか?』

その言葉にウェンディはやはり表情を変えなかった。いや、少し怒っているように見える。ウェンディは冷たい視線をニコラスへまっすぐに向けてきた。

『この学園で一番女性に人気で、モテるあなたならもっと相応しい相手がいると思うわ』

やはり怒っている。それもかなりだ。突然婚約の話をまさかニコラスから持ちかけられるとは思ってもいなかっただろう。氷のような視線が、婚約は絶対に嫌だと言っている。それを察して、ニコラスは困ったように笑った。

『……僕の事情は知ってるだろう?それに君にとっても悪い話ではないはずだ』

自分の事情のことを強調すると、ウェンディは一瞬だけ何か考えるような表情をした。

結局その日は、ウェンディの専属の使用人が何か手紙を持ってきたため、話し合いは中断となった。そのため、ウェンディからの返事が来たのはそれから数日経ってからだった。

『……婚約の件なんだけど』

庭園の小さなベンチに並んで座ると、すぐにウェンディが切り出す。ニコラスは真面目な表情で軽く頷く。

『うん』

ウェンディはやはり鋭い瞳でニコラスをチラリと見た。

『いろいろと、考えたの。本当に』

『うん』

『……あなたのこと、嫌いではない』

ニコラスのために“好き”という言葉を避けてくれているらしい。それが分かって、ニコラスは微笑んだ。

『それは光栄だな』

『あなたはいい人だわ、コーリン。あなたとなら、きっと私はうまくやっていけると思う』

その言葉に自分でも驚くほど喜びを感じた。

『僕もそう思うよ、ウェンディ。僕達は、きっと“結婚相手”として……“夫婦”としてうまくやっていける』

ニコラスがいい返事を期待してそう言うと、ウェンディは一瞬だけ顔を伏せた。すぐに顔を上げると、

『そう、ね。そうかもしれない。それは、きっと賢い選択だろうし……その道は、きっと多くの人に祝福される……』

そして、ウェンディはまっすぐにニコラスの瞳を見据える。そのまま唇を動かした。

『私は──それでも、そちらを選ばない。私はあなたと結婚しないわ、コーリン』

ニコラスはその答えに目を見開く。そして、悲しげに笑った。

『そっか』

ウェンディの瞳からは強い意志が感じられた。きっとニコラスが思っている以上に慎重に考え、結論を出したのだろう。

『……すまない。自分勝手な提案だったね』

ニコラスが頭を下げると、ウェンディは顔を伏せた。

『そうね。正直少し怒ったわ……あなたの浅はかな考えに。今の契約は、責任のない学生だからこそ続いているのよ。その延長として正式に結婚という形になれば、必ずどこかで綻びが生じるでしょう……。私は、社交嫌いだし、人付き合いも苦手だわ。あなたの“妻”としては務まるはずがない。何よりも、結婚したら必ず“次”を求められる。あなた、後継ぎの事はどうするつもりだったの?何も考えていなかったの?』

痛いところを突かれて、ニコラスは思わず呻いた。その通りだ。周囲は結婚したら必ず子どもを求めてくるだろう。それこそ絶対に不可能だ。ニコラスは女性に触れるのが怖いし、ウェンディも拒否するだろうということは明白だった。どこかから養子を取るという方法はあるが、周囲の人間は必ずいろいろと口を出すに違いない。

黙り込むニコラスをチラリと見てウェンディは大きなため息をつく。そして、少し考えてから口を開いた。

『だけど、もし、休暇前にあなたがその提案を持ちかけていたら……私は受け入れたかもしれない』

『えっ』

その意外な言葉にニコラスは思わず声をあげた。

『コーリン、あなたは本当にいい人だし、提案してくれた結婚は私にとって……多少の不安要素があるとはいえ、好都合だったから……でも、今は無理ね。私は、一生結婚しない』

『それは……どうして?』

ウェンディはベンチから立ち上がると、そのままニコラスと正面から向かい合った。

『……帰ってきたの』

『え?』

『帰ってきたのよ。私の大切な人が』

ウェンディの“探し人”がどうやら休暇中に帰ってきたらしい。だから、新学期からウェンディの表情が明るかったのかとニコラスはようやく理解した。

『私は、ずっと一生、その人のそばにいる。もう二度と離れない。誰かに否定されても、受け入れられなくても、理解されなくても、構わない……。もう決めたの。私は、自分の想いを貫くわ』

ニコラスは正面に立つウェンディの姿を見て、息を呑む。ウェンディが、微笑んでいた。心から幸せそうに。満面の笑みを浮かべるウェンディを目にするのは初めてだった。

『私の全てであり、私の唯一なの。その人だけを愛してる……心から!』

あまりにもまっすぐなその言葉に目を見開く。そしてニコラスはゆっくりと微笑み返した。

『そう……残念だけど、それは仕方ないね』

『ええ。でもね、コーリン』

ウェンディが不意にニコラスの両手に触れてきた。驚くニコラスに構わず、ウェンディはニコラスの手を優しく包む。

『あなたも、進まなくては。他人である私は、あなたの事情に口を出すべきじゃない。それは分かってる。それでも、言わせて。あなたは、自分の心と、お姉様に向き合うべきだわ』

『それは……』

『お願い……あなたは十分苦しんだわ。もう無理をしてほしくない』

ウェンディが何を言いたいのか理解できた。心の傷を修復すること、姉と話して向き合うことを考えなければいけない。

いつまでもこの状態が続けば、きっと自分の心は耐えきれなくなる。それは言われなくても分かっていた。

だが──

『……それは、できない……どうしても』

エステルがきっと悲しむ。自分を責めて、何度も何度もニコラスに謝るだろう。その姿を想像するだけで心臓が痛くなった。

『できないんだ……ウェンディ』

ニコラスの苦しげな言葉に、ウェンディは唇を噛みしめ、そっと顔を伏せた。






結局のところ、ニコラスは心が弱い。

どうしても勇気が出ない。自分の心に向き合うのが恐ろしくてたまらない。

だが、悠長にしている暇はない。どんどん卒業が近づいてきている。ニコラスは考えなければならない。自分がどうすべきかを。

ウェンディの言う通りだ、というのは分かっている。このまま誤魔化し続けるわけにはいかない。自分の心と向き合い、エステルに全てを話すべきだ。だが、ウェンディに諭されてもどうしても決心できなかった。エステルの悲しむ顔を想像しただけで心が耐えられなくなる。

どうしても一歩踏み出せず苦しんでいるニコラスを見て、ウェンディは痛ましく思っているようだが、それ以上は何も言ってこなかった。

ウェンディはニコラスの提案したその場しのぎの婚約話に、多少気を悪くし怒ったようだが、女避けとしての関係はそのまま継続することを承知してくれた。

昼休みの庭園にて、ウェンディは昼食を食べながら、

『まあ、卒業パーティーまではね。このままの状態は居心地がいいし』

とボソボソ言う。ニコラスが心から感謝しながら、

『本当にありがとう』

と礼を述べると、ウェンディは軽く頷いた。

卒業パーティーの場でも、ウェンディはニコラスのパートナーとして出席してくれる予定だ。

『でも騒がしい場所は苦手だし、一曲踊ったら帰るわよ』

ウェンディの素っ気ない言葉にニコラスは頷いた。

『ああ、十分だよ。ありがとう、ウェンディ』

そんなニコラスに、ウェンディは大きな包みを差し出してきた。

『はい、これ。約束のもの』

『え?なに?』

『開けてみて』

ウェンディにそう言われ、包みをゆっくりと開く。中には一冊の本が入っていた。表紙に大きな文字と少女の絵が描かれている。

“嘘つき少女の閉じられた記憶  レナトア・セル・ウォード”

その表紙を見たニコラスの顔が輝いた。

『これ、新作!?』

『ええ。発売日前だけど、あなたにだけ特別よ』

『いいの!?ありがとう!』

大好きな作家の本を発売日前に読めるという喜びで、ニコラスの心は久しぶりに明るくなる。

『でも本当にもらってもいいのかい?』

『ええ。でももうすぐテストもあるから、あまりのめりこみ過ぎないようにね』

『うん!』

その時、他の学生が姿を現したため、ニコラスは慌てて本を隠すように鞄に押し込むと、ウェンディに声をかけた。

『じゃあ、また!』

バタバタしながら、寮へ向かう。ウェンディは無言でヒラヒラと手を振ってくれた。







試験が終わると短いが休暇が学生達に与えられる。いつもならばニコラスはエステルに会うために実家へと戻るが、今回はそれを取り止めた。エステルが心配ではあるが、それ以上にウェンディとのことを詮索されるのがつらい。誤魔化し続けることに疲れていた。ブルックスがエステルの様子を見に行くらしいので、久しぶりに会うのだから、2人きりにしてあげた方がいいだろう。それに、1人で考える時間が欲しかった。

学園のすぐ近く、王都の小さな宿に泊まり、ニコラスは1人静かに過ごす。図書館へ行ったり、公園を散歩して穏やかな時間を楽しみつつ、ニコラスは自分の将来のことに思いを馳せた。1人で物思いに耽るのはほんの少し寂しいが、こんな休暇も悪くない。そう思いながら、明るい日差しの中、近くのカフェでウェンディから贈られた本を開く。

“嘘つき少女の閉じられた記憶”は探偵小説だった。嘘ばかりついている少女・シエナと、全ての記憶を失くした少年がコンビを組んで不思議な事件を解決していく。子ども向けではあるが、終盤に世界観がひっくり返るほどの大きなどんでん返しもあって、大いに楽しめた。これは、“エランの剣”と同じくらい、いやそれ以上に人気が出るだろう。ニコラスはそれを確信して本を閉じる。そして、表紙に記されている“レナトア・セル・ウォード”の文字を撫でながら呟いた。

『そういえば……ウェンディはなぜ僕にこれをプレゼントしてくれたんだろう……?』

次に会った時に聞いてみよう。

そう思いながら、ニコラスはペンを取り、ウェンディに送るための手紙を書き始めた。







裏設定

※ニコラス・ランバート

ランバート侯爵の子息。中性的で上品な美しさを持つ青年であり、姉のエステルによく似ている。基本的には優しくて誠実な青年だが、物事に対してなかなか決断ができずウジウジと悩む癖がある。学園で一番女生徒にモテる。女性は苦手だが、男性の友人は多い。趣味は読書で、“レナトア・セル・ウォード”の大ファン。姉のエステルを何よりも大切に思っている。





ようやく過去編が終了です。“百合に挟まる男”くんことコーリンの背景が明かされました。次回より現在に戻ってきます。





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[良い点] 全く、この子もいい具合に挟まってくれたなぁ。 ただ良い子だから許してやろう!(どこ目線だよ) てかこちとら胸焼けとモヤモヤ感で死にそうだったんじゃぞ! もうメイドと令嬢はとっととくっついて…
[良い点] レベッカの帰還が遅れていたらウェンディは結婚していたかも知れなかったのですね!危なっ! コーリンが鬱々うじうじしていたころウェンディはレベッカとお風呂を楽しんでいたんだなー(笑) [気に…
[良い点] はー面白かった! 朗報、レベッカ、帰還時期がファインプレーだった [一言] ウェンディの想い人考察 ヒント1 10年近く行方不明 ヒント2 兄と仲違い中 ヒント3 最近帰ってきた ヒン…
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