愛と心の傷
ニコラス・ランバートという人間を形成するのは、嘘と自己嫌悪と、決して塞げない心の穴。
──ただ、それだけ。
◆◆◆
思い返せば、ニコラス・ランバートの人生は最初から歪んでいた。
傍から見れば、ニコラスは名門と呼ばれる侯爵家の長男であり、幼い頃から利発で優秀だと称賛され、容姿にも恵まれていた。
だが、決して愛情あふれる家庭に生まれ育ったわけではなかった。
ニコラスの父親、トビアス・ランバートは現ランバート侯爵であり容姿端麗で頭脳明晰な人物である。ニコラスと姉のエステルは、父から容姿と優秀な頭脳を受け継いだ。父はいつも冷静で、真面目で、そして聡明であり侯爵としては間違いなく有能な人だ。だが、そんな父は、昔から致命的なほど他人には興味がなくて、周囲には無関心だった。
恐らく、自分と仕事と趣味の狩猟しか眼中にない。
そして、それは自分の家族でさえも例外ではなかった。
若き頃の父、トビアスは両親によって婚約者を決められ、学校を卒業するとすぐに結婚した。彼は両親の意思で決められたこの結婚を、特に拒否することはなかった。彼の妻となったのは、歴史ある男爵家の令嬢であり、繊細で儚い美しさを持つ女性だった。
トビアスの妻であり、そしてエステルとニコラスの母でもあるハーモニー・ランバートは不幸な女性だった、とニコラスは思う。
元々、ハーモニーは男爵令嬢という身分ではあるものの、深い孤独を抱えた女性だった。ハーモニーの実母は生まれてすぐに亡くなり、父親の男爵はすぐに後妻を迎えたらしい。後妻がすぐに跡継ぎとなる男子を生んだため、ハーモニーの居場所は男爵家になくなった。虐げられることはなかったものの、他の家族からはほとんど空気のように扱われていたらしい。
だが、不幸な生まれだったハーモニーの、一番の不幸は、きっとトビアス・ランバートを心から愛してしまったことだった。
ハーモニーは年頃になると、すぐに父親によって勝手に結婚を決められた。完全なる政略結婚であり、そこにハーモニーの意志はない。父親と引き合わされた男性が、ランバート侯爵家の跡継ぎであるトビアスだった。
ハーモニーは、トビアスを見て一目で恋に落ちてしまったらしい。それも無理はない。若きトビアスは凛とした顔立ちの上品で優美な青年だったのだ。
元々結婚に乗り気ではなかったハーモニーだったが、一転してトビアスと結婚できるということを大喜びで受け入れた。そして、幸せになれることを信じて嫁いだ。
だが、トビアスはハーモニーを全く愛してはいなかった。嫌ってはいないが、ほとんど気にかけてさえいなかった。
元々、トビアスにとって結婚とは義務でしかなかった。家同士が決めた政略結婚であり、そこに愛はない。自分の両親と、親戚と、世間が納得さえすれば、それでよかったのだ。もしかしたら、トビアスはハーモニーの名前さえも知らなかったかもしれない。それほど、他人に無関心な人間だった。
それでも、ハーモニーはトビアスを心から愛していた。素っ気なく無愛想なトビアスに話しかけ、気を引こうと必死に追いかけ回した。だが、トビアスはハーモニーを愛することはなく、それどころかほとんど応えることはなかったそうだ。
それでも、一応子どもが生まれるまでは、夫婦として多少の交流はあったらしい。恐らく、それはトビアスにとって、侯爵としての責務でしかなかった。侯爵として跡継ぎを作るための義務だった。結婚してすぐに長女のエステルが、その2年後に長男のニコラスが生まれた。
跡継ぎであるニコラスが生まれたことにより、トビアスは、侯爵として跡継ぎを作るという責務を果たし、ハーモニーもまた侯爵夫人としての役割を終えた。夫婦として過ごす必要がなくなったため、トビアスはハーモニーに対して完全に興味を失ってしまった。
それでも、ハーモニーは夫を深く愛しており、愛を求めた。しつこく追いかけてくる妻が鬱陶しくなったのか、徐々にトビアスは侯爵家に滅多に帰ってこなくなった。どうやらどこかに別邸があるらしく、ほとんどそこで寝泊まりをするようになった。
ハーモニーは、夫が自分を避けていることが分かると大きく絶望した。どんなに愛を求めても、夫が答えてくれないことを嘆いた。
だが、ハーモニーは気づいた。夫の代わりに愛を受け入れてくれる存在がそばにいることを。
それは、自分の子であるエステルとニコラスだった。
◆◆◆
幼い頃から、母であるハーモニーはエステルとニコラスを溺愛していた。ニコラスの一番古い記憶は、母に抱き締められている温もりと愛の言葉だ。
『ニコラス、愛してるわ……あなたは、私のもの』
ニコラスを抱き寄せながら、ハーモニーは耳許で囁く。そして、同じようにエステルも抱き寄せながら、頬擦りをした。
『エステルも愛してるわ……私の可愛い子……』
ハーモニーは2人の子どもにすがるように尋ねてきた。
『ねえ、お母様の事が好き?愛してる?』
そう尋ねられ、エステルとニコラスがそれぞれ、“好き”と“愛してる”を言葉にすると、ハーモニーは歓喜したようにますます強く抱き締めた。
『もう一度言って……好きと、愛してると、言ってちょうだい』
求められるまま、母へ愛を囁く。それに満足すると、ハーモニーは子ども達の額や頬に口づけをして、目を潤ませながら言葉を紡いだ。
『……どうか、そばにいて。あなた達はどこにも行かないで』
その言葉は、今でも呪いのようにニコラスの胸に刻まれている。
『1人にしないで、私を好きならば、愛しているなら……お願いだから、どこにも行かないで……』
幼い頃は、そんな母が哀れで、ただ求められるままに愛の言葉を繰り返していた。
ハーモニーはエステルとニコラスの2人を深く愛していたが、どちらかというとニコラスに強く執着していた。恐らくは、父親と同性であること、そしてニコラスがトビアスに瓜二つである事が原因だろう。エステルも父親似ではあるが、ニコラスの方がトビアスに特にそっくりだった。
『好きよ、エステル、ニコラス……心から愛してるわ。2人とも、私を愛してるとそう言って』
父のいない寂しさから、母は執拗にエステルとニコラスに愛を求め続けた。
母から愛されているのはもちろん嬉しかった。だが、ねっとりとした声で、あまりにもしつこく愛を求められるのは子どもながらに異様さを感じて、息苦しかった。
ニコラスが物心ついた時から、ハーモニーは社交界に出向くこともなく、ずっと家の中に閉じこもっていた。ひたすら父の帰宅を待ち続け、ただ暗い瞳で子どもを溺愛し、愛の言葉を求めていた。元々心が弱く、孤独な女性だった。最も愛する人に振り向いてもらえない寂しさから、少しずつ歪んでいき、心が壊れ始めたのだろう。その頃の母は、明らかに精神的に病んでいた。
だが、そんなハーモニーを気にかける人間はほとんどいなかった。トビアスの両親は既に他界していたし、屋敷の使用人達はハーモニーを気味悪がって、必要以上に近づくのを嫌がるようになってしまった。時折、ハーモニーの様子をトビアスに報告する使用人もいたようだが、トビアスはハーモニーと関わるのを嫌がり、ほとんど屋敷に戻ってくることはなかった。家族である妻と子ども達は、完全に放置状態だった。
幼いニコラスは母の愛をなんとか受け止めようとしたが、子どもながら、母の様子が異様で、歪んでいることを感じていた。虚ろな瞳でひたすらに愛を求め続ける母が恐ろしかった。
そんなニコラスが唯一心を許せたのは姉のエステルだけだった。
『……お母様はおかわいそうな方なのよ』
エステルもまた、母から過剰な愛を向けられ、そしてそれを必死に受け入れようと努めていた。
『お父様が、かえってきたら、きちんとおはなしするようにおねがいするわ……だから、だいじょうぶよ』
エステルはそう言って、ニコラスを慰めた。
だが、父が自分の子どもを、そして妻を気にかけることはなかった。子どもへ過剰な愛を向けるハーモニーであったが、それでも彼女が一番に愛していたのはトビアスだった。珍しく父が屋敷へ戻ると、父にしつこくまとわりつく母の姿を、ニコラスは覚えている。母は父の気を引くために必死で話しかけ続けたが、父は煩わしそうに冷たい瞳を母に向けていた。母が何を言っても、ほとんど応えることはなく、全てを無視していた。
父が何も言わずに出ていくと、決まったように母はガックリと肩を落とし、エステルとニコラスにすがりつくように嘆いた。
『どうして……こんなにも、愛しているのに……』
そんな母を気の毒に思い、ニコラスは求められるまま母を抱き締め、声をかけ続けた。
『おかあさま、げんきだして……ぼくたちはおかあさまがだいすきだよ』
ニコラスが“好き”と“愛している”を繰り返しさえすれば、母が落ち着くということを理解していた。
その頃のハーモニーは、愛する夫の代わりに、夫にそっくりの息子に愛されることで、病みつつある精神をなんとか保っていた。
『ニコラス、可愛い子』
暗い井戸のような瞳でニコラスを見つめてくる。
『あなたは私のそばにいてくれるでしょう?』
その問いかけに小さく頷くと、ようやく母は安心したように微笑むのだ。
『ずっと、ずっと、そばにいてくれるでしょう?私の可愛いニコラス……』
幼いニコラスにとって、そんな母の相手はもはや苦行でしかなかった。母と話すのはいつだって息苦しくて、虚しくて、負担だったが、決してそれを口に出すことはなかった。
それを言ってしまうと全てが終わるという事を理解していたから。
そんな母の心が完全に崩壊したのは、ニコラスが5歳になった年だった。
『今日、ちょっとへん……』
ある日、子ども部屋で当時7歳だった姉のエステルがそう漏らした。
『へん?なにが?』
ニコラスが聞き返すと、エステルは難しい顔をして首をかしげた。
『お母様……なんだか、ずっとぼんやりしてる……なんだか、こわい目をしてるの……』
『……おかあさまはいつもこわいよ』
『そうじゃなくて……うまくいえないけど、いつもとちがったの』
何といっていいか分からないらしく、エステルはモゴモゴと口ごもり、やがて大きく息を吐き出した。
『なんだか、イヤなかんじがしたの』
そのエステルの嫌な予感は最悪の形で当たった。
午後、エステルは家庭教師に呼ばれて、勉強のために別室へと行ってしまった。1人子ども部屋に残されたニコラスが絵本を読んでいた時、ノックもなくハーモニーが入ってきた。
『ニコラス……』
震える声でニコラスの名前を呼びながら、近づいてくる。
『おかあさま……どうしたの……?』
ハーモニーは微笑みを浮かべながら、ニコラスの頬に触れた。その瞬間、よく分からないがニコラスは背筋がゾッとしたのを覚えている。ハーモニーの微笑みは明らかにいつもと違った。
『ニコラス……お母様のこと好き?愛してる?』
またいつもの言葉をかけられる。
ニコラスはハーモニーの様子に内心怯えながらも、必死に笑顔を作り、頷いた。
『だ、だいすきだよ……あいしてる……』
それを聞いたハーモニーは満足げにニコラスの頭を撫でる。ニコラスが安心して微笑み返すと、ハーモニーが囁くように声を出した。
『だったら……一緒に逝きましょう……』
ハーモニーの言葉の意味が分からず、ニコラスがきょとんとした瞬間、ハーモニーが突然動いた。ニコラスをソファに押し倒し、細い首に両手をかける。
『……っ!?』
ニコラスが驚いて声をあげる前に、ハーモニーは信じられないほど強い力で首を絞めた。喉が一気に苦しくなり、息ができなくなる。死に物狂いで酸素を求めてもがくニコラスの姿を、ハーモニーは首を強い力で絞めながら見つめていた。驚いたことに、彼女は幸せそうに笑っていた。
『安心して……すぐにエステルと一緒に私も逝くから……』
手足の感覚が失われていく。
どんどん意識が薄くなっていく。
『私も好きよ……ニコラス、愛してる……っ!』
母の愛の言葉だけが耳に届く。その言葉に、身体を、そして身体を貫かれたような感覚がした。
その時、母ではない声が聞こえた。
『──奥様!!』
フッと首への圧力が消失して、肺へと一気に空気が入ってきた。必死に呼吸を繰り返す。
気がつくと、エステルがニコラスを強く抱き締めていた。
『よかった……ニコラス、ニコラス!だいじょうぶ!?』
エステルが泣きじゃくっているのが分かった。ぼんやりと顔を上げると、恐ろしい形相のハーモニーが使用人達に取り押さえられていた。その姿を目にして、ニコラスの意識は完全に消失した。
ハーモニーが起こした事件の原因、それは父のトビアスがとうとうハーモニーに離婚を申し出たからだった。ニコラスが随分後になってからそれを知ることになる。
屋敷に戻る度に自分をしつこく追いかけ回すハーモニーに、とうとうトビアスは我慢できなくなったらしい。顔を合わすことも嫌がり、手紙でハーモニーに離婚を切り出した。
元々精神が病みつつあったハーモニーは、愛する夫から離婚を言い渡された事で、心が完全に壊れた。離婚しても、実家には帰れない。既に折り合いの悪い異母弟が男爵家を継いでおり、そこにハーモニーの居場所はない。離婚されたら、本当にどこにも行く当てはないのだ。それに、子どもはどうなるのだろう。エステルはともかく、跡継ぎであるニコラスをトビアスは絶対に渡さないであろうことは予測できた。それ以前に、ハーモニー1人の力で子どもたちを養うことなど絶対に不可能だ。
ハーモニーは今度こそひとりぼっちになる。
精神的に追い詰められたハーモニーは、とうとう子どもたちとの心中を決意し、実行に移した。
最初に殺そうとしたのは幼いニコラスだったらしい。だが、使用人の1人が掃除のためにたまたま子ども部屋の近くにいたことが、ニコラスの命を救った。使用人は不審な物音が聞こえたため、子ども部屋の様子を見ようと扉を開き、ニコラスの首を絞めているハーモニーを発見した。発見した使用人が大きな悲鳴をあげたため、近くの部屋にいた他の使用人も駆けつけてきたらしく、ハーモニーはすぐに彼らに取り押さえられた。
その後、完全に錯乱状態だったハーモニーを使用人達は取り敢えず侯爵家の一室に入れ、出られないように鍵をかけたらしい。使用人が大騒ぎしながら、医者やトビアスに連絡を取っている間に、ハーモニーはその部屋で首を吊った。
ハーモニーが起こした事件は、父のトビアスによって完全に隠蔽された。表向き、ハーモニーは心臓の発作によりこの世を去ったことになっている。名門であるランバート侯爵家でそんな事件が起きたなんて外の人間には絶対に知られるわけにはいかない。有能な侯爵であるトビアスによって、事件は見事に闇に葬られた。関わった使用人達には箝口令が敷かれたため、現在、侯爵家でハーモニーの名前は禁句となり、事件については誰も触れないようにしている。
母に殺されそうになったニコラスは、当然のことではあるがショックで苦しむこととなった。眠りに落ちる度に、夢の中で最後の母の嘆きがよみがえり、泣き叫びながら飛び起きる。更に、ニコラスは事件からしばらくの間、女性恐怖症のような状態となってしまった。家族であり最も信頼しているエステルだけは平気だったが、それ以外の女性は恐怖の対象となってしまった。近づくだけで母を思い出し、吐き気がして息苦しくなり、全身が震えた。
そして、姉のエステルもまた、ハーモニーが亡くなった事が大きな心の傷となっていた。
『おかあさま……』
母を思い、毎日のように涙を流すエステルに、ニコラスはただ寄り添って声をかけ続けた。
『おねえさま、なかないで』
エステルは泣きじゃくりながら、ニコラスに抱きついた。
『ニコラス……ニコラスはどこにもいかないで……ずっとここにいて……っ』
そんなエステルを小さな手で抱き締め返し、ニコラスは頷いた。
『だいじょうぶ、……ずっとそばにいるから』
父はあんな事件があったというのに、相変わらず子どもに無関心だった。どんなに苦しんでいても見向きもしない。ニコラスはそんな父に対して深く失望した。
母の事件で深く傷つけられたエステルとニコラスはお互いに支え合いながら、恐ろしい記憶と戦いつつ生きていくしかなかった。
月日が流れるうちに、姉弟の心は少しずつ安定して、落ち着いていった。事件そのものは忘れられないが、徐々に母の記憶は薄れていき、傷ついた心もお互いに支え合う事で癒えていった。
ニコラスは女性が苦手なのは変わらないが、少なくとも近づくだけで体調が悪くなることはなくなった。穏やかに接して、落ち着いて会話が出来るようになった。それでも、女性との関わりはやはり苦手で、心を開いて話せるのはエステルだけだった。
そんなニコラスに対して、エステルは何度も申し訳なさそうに謝った。
『ごめんね、ニコラス……』
エステルは、母の心中未遂事件を防げなかったことを、何年経っても悔いていた。
『私が、もっと早く気づいていればこんなことにはならなかったのに……あの日、お母様の様子がおかしいってことは分かってたのに……せめて、あなたを残していかなければよかった。一緒についていればよかった……』
ニコラスは首を横に振って何度も否定した。
『お姉様のせいじゃない……気に病むことはないよ。……僕は、大丈夫だから』
ニコラスはそう言ったが、その後もずっとエステルは心の中で自分を責め続けているようだった。
母が起こした事件は、確かに衝撃的で決して忘れられないが、もはや過去の話だ。自分の心も徐々に落ち着いてきた。もう何も心配することはない。
エステルに何度もそう言って、自分でもそう思っていた。
──思っていたのに。
ニコラスは気づいていなかったが、母によって植え付けられた心の傷は、知らない間に少しずつ広がっていた。
ニコラスにとって転機が訪れたのは、社交界に顔を出すようになってすぐにことだった。その日は、姉のエステルと共に友人とのお茶会に出席していた。
そのお茶会で、ニコラスは顔見知りの貴族の令嬢から人気のない居場所に呼び出された。2人きりになるのは気が進まなかったが、断りきれずその場所に向かうと、既に待っていたその令嬢から、告白をされた。
『ニコラス様……私、ずっとニコラス様をお慕いしておりました』
顔を真っ赤に染めながら、必死に想いを告げる彼女はとても可愛らしかった。だが、ニコラスにとって彼女はよき友人としか思えない。そのため、断ろうと頭を下げようとしたその時だった。
『あなたのことが、好きなんです……!』
“好き”と彼女に言われたその瞬間、ニコラスの脳裏に母の声が響いた。
──好きよ、ニコラス
──愛してる
闇のように暗く染まった瞳、愛を求める薄い唇、ねっとりとした高い声が頭の中で甦る。目の前の令嬢と母の姿が重なった。
『……っ!?』
気が狂いそうなほどの恐怖が芽生え、心臓が跳ね上がる。身体中の血液が逆流するような感覚がした。胸が詰まり、苦しくなる。脊髄が震え、両足の感覚を完全に失いそうになり、よろめいた。
『ニコラス様!?』
動揺する令嬢の声が聞こえた。
ニコラスは必死に倒れそうになるのを堪えつつ、体調を崩したと令嬢に誤魔化すと、その場から逃げ出した。
この時の事がきっかけとなり、ニコラスは自覚した。自分が、女性が苦手なだけではなく、恋愛に関連する物事に対して異常に恐怖を抱いている事を。
母が起こした事件が原因となったのは明白だった。誰かに“好き”や“愛してる”を言うこと、言われることを想像するだけで、心中しようとする母の顔や声が頭の中で甦る。フィクションや他人の恋愛事情については特に何とも思わない。だが、少しでも自分に関わると、もうダメだった。周囲の女性から恋慕の視線を向けられるだけで、身体がムズムズした。相手が自分の事を好きなのだと気づくと、恐怖で鳥肌が立った。何よりも恐ろしかったのは、他人から“好き”や“愛してる”と言われることだった。他人にその言葉を告げられた途端、ニコラスの身体は異常をきたす。顔が真っ青になり、足がガクガクと震えた。胸が詰まるのと同時に呼吸がおかしくなった。
自分が恋はできない人間なのだと、ニコラスは悟った。
自分の体質を自覚したニコラスは、できる限り女性を避けて、恋愛事には関わらないように努めた。ニコラスにとって不運だったのは、次期侯爵という身分を持つことと、美しい顔立ちを父から受け継いだ事だった。
ニコラスは黙ってても、その容姿の美しさから周囲の女性達の注目を集めた。何人かの女性に想いを告げられたが、気分が悪くなるを必死に誤魔化しながら、なんとか断った。
次第にニコラスは女性と接するのを避けるため、晩餐会やパーティーなどの出席を拒むようになった。そういう場が苦手なのだと必死に言い訳をして逃げる。父はいい顔をしなかったが、エステルが上手く取り成してくれた。
『苦手なのは仕方ないわ……私が代わりに出席するから大丈夫よ』
そんなエステルに対しても、ニコラスは自分の体質を秘密にしていた。エステルに知られるのだけは、絶対に避けたい。今でも、エステルが母の事で自分を強く責めている事を、ニコラスはよく知っていた。自分が母のせいでそんな体質になったなどと知られたら、きっとますます責任を感じてひどく苦悩するだろうと思うと話せなかった。
情けなくて、不甲斐なくて、心の底から自分自身に失望した。吐き出したくなるような自己嫌悪に支配されながら、ニコラスは嘘をついて生きていくしかなかった。
その後もできる限り女性と関わり合いになるのを避け続け、15歳になった時、ニコラスは魔法学園に入学した。学園でもニコラスは女生徒から注目され、想いを寄せられることは珍しくなかった。だが、幸いなことに、ニコラスは学園の女生徒にとって、高嶺の花のような存在となったらしい。話しかけてくる女性はいたが、不思議なことに告白してくる女性はほとんどいなかった。その事に安堵しながらも、女生徒との交流は出来る限り避け続けた。
◆◆◆
そんな日々が続く中、ニコラスは彼女と出会った。
最初に出会ったのは、学園の長期休暇中に出席したパーティーの会場だった。いつもならそんなパーティーにニコラスは絶対に参加したりはしない。だが、出席するはずのエステルが風邪をひいてしまったため、急遽その代理を務めることとなった。
珍しくパーティーに出席したニコラスへ、女性達の視線が集まる。その視線を軽く受け流しつつ、友人であるパーティーの主催者の青年と会話をしていたその時だった。
周囲の人々がザワリと揺れるのを感じた。誰かに注目しているようだ。ニコラスは不思議に思いながら、人々の視線を追った。
そこにいたのは、1組の男女だった。薄い金髪を持つ彫刻のように整った顔立ちの青年と、やはり金髪の鮮やかなドレスを身にまとった年若い女性。人々の視線は女性の方へと向けられていた。
『おや、珍しい。コードウェル伯爵が妹を連れてきたなんて……』
ニコラスの視線に気づいた友人が驚いたようにそう呟いた。
『妹?』
『ああ。ニコラス、君の同級生だろう?三大美女の1人で、社交嫌いのウェンディ・コードウェル嬢』
そう言われて気づいた。ほとんど関わることはなく、今まで話したことさえもなかったが、学園の同級生であるウェンディ・コードウェルだった。
『噂通り、すごい美人だな……』
友人がウェンディを眺めながら惚けたように呟く。確かに、遠目から見てもウェンディの美しさは際立っていた。
その場にいるパーティーの参加者、特に男性達はウェンディを見てコソコソと盛り上がっていた。
『声をかけたいな……』
『少しでもお近づきになれれば……』
『だが、あの令嬢は人間嫌いだと有名だぞ』
そんな青年達の様子に苦笑しながら、ニコラスは一歩引いて遠くからウェンディを見つめた。
本当に、綺麗な女性だ。エステルと肩を並べて三大美女と呼ばれているのも頷ける。だが、人間嫌いという噂は事実らしく、先ほどから多くの人間に話しかけられているのに、無表情のままほとんど口を開いていない。ただ冷ややかな眼差しだけを返している。話しかけた男性達は、ウェンディのあまりの反応の冷たさにガックリと肩を落として去っていった。ウェンディの隣にいる兄のコードウェル伯爵は困ったような顔で妹を嗜めているようだが、ウェンディの態度は変わらなかった。
『……関わりたくはないな』
ボソッとニコラスは呟いて、ウェンディから目をそらした。
その後、ニコラスは出来るだけ目立たないように、パーティー会場の隅っこで過ごした。だが、ニコラスの容姿は目立つため、次から次へと女性に声をかけられる。なんとか穏やかに対応していたが、徐々に体調が変化していった。
『……きつい』
身体が重くなり、頭痛がする。慣れないパーティーという場で気が張り詰めすぎていたのかもしれない。もしくは、エステルの風邪が移っていたのかもしれない。少し休憩するために、ニコラスはさりげなく身体を動かすと、そのままバルコニーへと出た。
幸い、バルコニーにはニコラス以外誰もいない。もう少し休憩したら、適当に理由をつけて帰ろう。そう考えながら、休んでいたその時だった。ニコラスよりも年下らしい貴族の少女がバルコニーへとやって来た。
『あの、ニコラス様……!』
『あ……はい……?』
『あの、私……私は──と申し……ずっと前から……』
目の前の少女が顔を赤く染めながら、何かを言っている。どうやら、必死に自己紹介をしているらしい。だが、今のニコラスに、にこやかに対応できる余裕はなかった。少女の視線は明らかに恋慕が含まれている。それに気づいた瞬間、身体が震えた。頭痛が強くなっていき、思考が乱れる。身体が重くて、目眩がした。
それでもニコラスはなんとか弱々しく笑いながら、少女に向かって言葉を返した。
『すまないが……話は、後でいいかな……ちょっと、気分が──』
だが、そんなニコラスの言葉が聞こえないのか、令嬢は必死な形相で言葉を放った。
『私……っ、ずっと前から、ニコラス様の事が──』
まずい、とニコラスは一歩引いた。これは確実に告白する雰囲気になっている。今の体調で、この場で令嬢に告白されたら、本当にまずい。今のニコラスに穏やかに断る余裕はない。告白されたその瞬間、体調が急変して、この場で失神してしまうかもしれない。
令嬢は想いを口にする勇気があと一歩出ないらしく、言葉に詰まってモジモジしている。
もういっそこのまま逃げてしまおうか──そう思いながら、ニコラスが顔を青くして、再び一歩引いたその瞬間だった。
誰かがバルコニーに出てくる気配がした。
ハッと顔を向けると、そこに立っていたのはウェンディ・コードウェル嬢だった。
近くで見ると、威圧的で、人間離れしている美貌の女性だった。その美しさは、どこか非現実的で、他の人間が決して触れるのを許されないような、神々しささえ感じる。
エステルを見慣れているニコラスさえ、思わず体調不良を忘れ、息を飲み、ウェンディに見とれる。ウェンディは片方だけ眉を吊り上げ、冷たい視線でニコラスと令嬢を見てくる。その視線の強さに、ニコラスの身体は硬直した。告白しようとしていた令嬢もウェンディの美しさと冷たい視線に脅えたのか、萎縮したように震え上がる。そして、慌てたように頭を下げた。
『あ、あの、……失礼しました!』
そう言って、その場から逃げるように立ち去った。
『──少し夜風に当たらせてもらおうかと思ったんだけど、お邪魔だったわね』
残されたウェンディは、ニコラスに小さな声で謝罪した。
『ごめんなさい』
冷ややかな声だったが、どこか気まずそうなその表情にニコラスは苦笑した。
『いや、……むしろ助かった。困っていたんだ』
本来ならば、令嬢を追いかけて言葉をかけた方がよかったかもしれない。だが、ニコラスは穏やかに微笑むと、真っ直ぐにウェンディを見て、頭を下げた。
『ありがとう』
ウェンディはそんなニコラスを見て、なぜか顔をしかめた。目をそらすと、そのままハンカチを取り出す。そしてそれをニコラスの方へ差し出してきた。
『気分が悪そうね』
『あ……ありがとう』
ウェンディからハンカチを受け取り、ニコラスは慌てて礼をいった。ウェンディはそれに返事をすることなくバルコニーから立ち去った。
不思議な女性だった、とニコラスは思った。
ウェンディ・コードウェルはニコラスの心に強く印象に残った。とても冷たい瞳でこちらを見据えてきた。神々しくて独特な雰囲気を持っているが、どこか影があるような不思議な人だった。
結局、ウェンディと出会った後、ニコラスは適当に理由をつけて早々にパーティー会場から出ていった。ウェンディのハンカチを借りたままだと気づいたのは、実家に到着してからだった。
休暇が明け、ニコラスは学園の寮へと戻り、学生生活が再開した。
新学期の初日、授業が終了した後、ハンカチを返すためにウェンディに話しかけようとしたが、ウェンディはいつの間にかどこかへ消えていた。
ニコラスがどうしようか迷っていると、クラスメイトが話しかけてきた。
『ニコラス、どうしたんだい?』
『あー……、コードウェル嬢に用があるんだけど、どこにいるか知らない?』
その問いかけにクラスメイトは驚いたような顔をした後、首をかしげて口を開いた。
『コードウェル嬢?彼女なら、寮に帰ったと思うが……あ、図書室にいることが多いから、もしかしたらそこにいるかも』
それを聞いたニコラスはクラスメイトにお礼を言って、図書室へと向かった。
図書室では数人の生徒が本を読んだり勉強をしていた。その中に、ウェンディ・コードウェルの姿もあった。無言で本を読んでいる。そんなウェンディの雰囲気は相変わらず独特で、周囲の生徒は近づきにくいのか、ウェンディの周りには不自然な空間が出来ていた。テーブルの上には数冊の本が積み重なっていて、近くの椅子にはウェンディの物らしい学生鞄が置いてある。
『──コードウェル嬢』
ニコラスが小さな声で呼びかけると、ウェンディは本から顔を上げた。そのまま真顔でニコラスに視線を向けてくる。
『何か、ご用?』
ニコラスは微笑みながら、彼女にハンカチを差し出した。
『これ、返したくて……』
『ああ……』
ウェンディは納得したように受け取った。
『別に返さなくてもよかったのに』
『そんなわけにはいかないよ。ありがとう』
『どういたしまして』
ウェンディは冷静に言葉を返して、ハンカチを受け取る。そのまま本に視線を戻したため、ニコラスは苦笑した。これ以上、自分と会話はしたくないらしい。こんなにも自分に興味を持たれないのは珍しいことだった。
『それじゃあ、僕はこれで……』
ニコラスが踵を返そうと身体を動かした瞬間、持っていたニコラスの鞄がテーブルの本に当たる。そのまま、たくさんの分厚い本は大きな音をたてて床に落ちてしまった。
『あっ、すまない!』
思わず大声を出したニコラスに、図書館にいた生徒達の視線が集まる。ウェンディは少し驚いたような顔をした後、立ち上がり、淡々と床に落ちた本を拾った。
『ご、ごめん』
ニコラスも慌てて近くに鞄を置いて、散らばった本を集める。ウェンディは首を横に振った。
『私こそ、ごめんなさい……立ち上がるのが面倒だからって本を集め過ぎたわ』
ウェンディの言葉にニコラスは苦笑した。
『本が好きなんだね』
『……ええ』
ウェンディは小さく言葉を返すと、再び椅子に腰を下ろした。ニコラスは本をテーブルに戻すと、自分の鞄を手に取り、再びウェンディに声をかけた。
『それじゃあ……本当にありがとう』
『ええ』
そして、ニコラスは素早くその場から立ち去った。
これで、この美しい令嬢との繋がりは切れた。
ニコラスはそう思っていた。
次の回は、ウェンディの秘密編。
更新は少し遅くなります。気長にお待ちください。




