知らない世界
「ベッカ!ベッカ!」
「はい、お嬢様」
ウェンディとの距離が、また近づいた。最近ウェンディは部屋の隅っこにはいない。レベッカが部屋に入ると、すぐに駆け寄ってくるようになった。自分から話しかける事が増え始め、更には時折レベッカの手を握るようになった。
「これ、かしてあげる!」
ウェンディがはきはきと声を出して、大きな本を差し出してきた。見たことのない表紙だ。
「新しい本ですか?」
「うん!おにいさまが、またおくってきてくれたの。おもしろいのよ!」
「私が読んでもよろしいのですか?」
「うん!」
ウェンディが大きく頷いたので、レベッカは笑いながら本を受け取った。
「それでは、今日仕事が終わったら、早速読んでみますね」
本の表紙をじっくり眺めながら、レベッカはウェンディに尋ねた。
「どんな内容なんですか?」
「しゅじんこうが、ねがいをかなえてくれるおはなをさがして、たびするおはなしよ。ちょっとながいけど、おもしろいの」
ウェンディの言う通り、少し分厚くて読むのに時間がかかりそうな本だ。冒険ものか、と考えながらペラペラとページをめくる。その時、あることに気がついて、レベッカは少し笑った。
「お嬢様は冒険もののお話が好きなんですね」
ウェンディが気に入る本は、主人公が旅をしたり冒険をする内容が多い。レベッカの指摘にウェンディが目を丸くした。
「あ……そうなの、かしら?」
「気づいていらっしゃらなかったんですか?」
「……うん」
ウェンディがコクリと頷いた。
「私も好きですよ、冒険もの。ワクワクして、楽しいですよね」
レベッカの言葉に、ウェンディがまた大きく頷いた。
「そう!しらないせかいをしることができるから、すき!」
ウェンディとレベッカはクスクスと笑い合った。
夜、ウェンディの部屋を訪れ、蜂蜜入りのミルクを準備するのは、もはや習慣のようになってきた。
「ベッカの、いれてくれるミルク、すき」
ウェンディがミルクを一口飲み、顔を綻ばせながらそう呟く。その柔らかい表情を見て、レベッカは微笑みながら口を開いた。
「私も、昔、眠れない夜に、こうやって蜂蜜入りのミルクを入れてもらって、飲んだんです」
幼い頃、実家でミルクを入れてくれたのは、今は亡きメイドのレベッカだった。
『さあ、どうぞ、お嬢様』
優しくそう言って、差し出されたミルクはびっくりするくらい甘くて美味しくて、ホッとしたのを覚えている。
懐かしい思い出に浸っていると、ウェンディが不思議そうにこちらを見つめてきた。
「ベッカ?どうしたの?」
ウェンディの方へ顔を向けて、思わず笑った。
今では、自分がレベッカと同じメイドという立場になり、主人にミルクを入れている。そんな状況がなんだかおかしくなり、クスクスと笑いながらウェンディへと手を伸ばし、頭を優しく撫でた。
「お嬢様が、とっても可愛らしいな、と思って」
「な、なに、とつぜん」
ウェンディが狼狽えたような顔をする。レベッカは笑いながら、言葉を重ねた。
「世界一、可愛いです。本当に」
「……っ、なんなのよ、もう!」
ウェンディが顔を真っ赤にしてレベッカの腕を軽く叩いた。レベッカはそれでも笑いながら、ウェンディを撫で続けた。
ある日、ウェンディの部屋にて、レベッカはいつも通り掃除を終わらせたあと、ウェンディに声をかけた。
「お嬢様、申し訳ありませんが、明日のお掃除はちょっと遅くなります。午後から始めますね」
テーブルで兄からの手紙を読んでいるウェンディが、その言葉に軽く首をかしげた。
「いいけど……なにかあるの?」
「いえ、明日、庭師さんの手伝いを頼まれまして……庭仕事をするんです……それで、午前中はこちらには来るのは難しいかと……食事はいつも通りの時間にお持ちいたしますので」
「わかった」
ウェンディは小さく頷き、また手紙に視線を戻した。レベッカは特に何も言われなかったことに少し安心しながら、掃除用具の後片付けをして部屋から出た。
次の日、午前中に庭師と共に庭の手入れを終えると、すぐにウェンディの部屋へと向かった。
「失礼します。お待たせして申し訳ありません……」
「べつにまってないわ」
ウェンディはソファに座って本を読んでいた。
「では始めますね」
「んー」
そう声をかけ、掃除を開始する。床を綺麗にして、窓を拭いていると、不意にソファに座るウェンディが本を閉じて、声をかけてきた。
「にわのていれは、どうだった?」
その問いかけに振り返って答える。
「少し大変でしたが、綺麗になりましたよ。今は黄色の薔薇が綺麗に咲いているんです」
「……ばら」
「はい」
レベッカはふと思い付いたように声を出した。
「よろしければ、一緒に庭に行って、見てみませんか?本当に綺麗な薔薇なんですよ」
いい気分転換になるだろう、と深く考えずにそう誘ってしまった。たまには庭で過ごすのもいいのではないか、と軽く考えていた。
ウェンディは、レベッカの誘いに肩をピクリと動かした後、何も答えなかった。しばらく沈黙が続く。
「お嬢様……?」
レベッカが戸惑いながら声をかけたその時、ようやくウェンディが首を横に振った。
「いかない」
きっぱりとしたその声に、少し驚く。ウェンディの顔は強張っていた。
「あ、……そうですか」
レベッカが困惑しながら肩を落とすと、ウェンディはハッとして慌てたように口を開いた。
「あ、ち、ちがうの。ベッカといくのがいやなわけじゃない、わ……」
「え、は、はい……」
レベッカが戸惑っていると、ウェンディが気まずそうに顔をそらした。
「……わたくしが」
「はい?」
「わたくしが、そとにでると、……みんな、あざを、こわがって、きんちょうしてしまうから。だから、いいの。わたくしは、このへやから、でない」
その言葉に、言葉が詰まった。それと同時に安易に庭に出ようと提案したことを多いに後悔する。
「も、申し訳ありません」
深く頭を下げると、ウェンディが静かに声を出した。
「こちらこそ、ごめんね、ベッカ。せっかくさそってくれたのに」
「……申し訳、ありませんでした」
震えながら再びそう謝る。自分の言動が恥ずかしくて、顔が熱くなった。
私はやはり馬鹿で呑気だ。主人の気持ちを考えもせずに悲しい思いをさせてしまうなんて。
そう思った時、唐突に気づいた。ウェンディが本を読むことが好きなのは、この部屋から出るのを諦めているからだ。ウェンディは生まれた時からずっと部屋にこもって生活をしている。冒険小説を好むのは、この部屋以外の世界を知らないから、外の世界を自分の目で見ることが出来ないから、なのだろう。だから、知らない世界に少しでも触れたくて、本を読んで想像の世界を楽しんでいる。
そんな生き方しか、できないから。
それに気づいた瞬間、心が沈んでいき、胸が苦しくなった。心臓が痛くて仕方ない。今まで気づかなかった自分の鈍さに怒りを感じた。
その時、ウェンディが立ち上がる気配がした。
「ベッカ」
「……」
「おかおを、あげて」
そう言われて、ゆっくりと頭を上げる。小さな主人は目の前で笑っていた。
「わたくしのためにいってくれたんでしょう?ありがとう」
「……」
ウェンディにお礼まで言わせてしまい、情けなくなって思わず顔を歪める。そんなレベッカの手を、ウェンディが自分から握ってきた。
「ねえ、こんやは、ふたりでミルクをのみたい。はちみついりの、よ」
「……はい」
「また、ねるまで、わたくしのてをにぎって」
「はい」
「それからね、ベッカのこもりうたがききたいの。おうたを、うたってね」
「……お、おんちだから、いやです」
「それでいいの。ベッカのおうたがいいの」
ウェンディが楽しそうに笑う。反対にレベッカは泣きそうな顔でウェンディの手を強く握り、やっとのことで頷く。
この笑顔を、守りたいと思った。
次の日。
「これ……」
ウェンディがポカンと口を開け、こちらを見上げてくる。レベッカは緊張した面持ちで、薔薇の花束をウェンディへ差し出した。
「庭師さんとメイド長さんから許可をいただいて、持ってきました」
黄色の薔薇の花束を見て、ウェンディは呆気に取られていたが、やがて声を出して笑い出した。
「ふふふ、ほんとう、きれい、ね」
「はい、お嬢様にも見てほしかったんです」
「わたくし、このばら、とてもすきだわ」
「本当ですか!」
「うん。おへやに、かざって」
ウェンディが笑いながら、命じる。レベッカは大きく頷いて、返事をした。
「承知しました!」
他の使用人から花瓶を借りて、部屋のテーブルに薔薇を飾る。ウェンディとレベッカは一緒にソファに肩を並べて座り、薔薇を眺めた。
「こんなにきれいにさくのね……」
「他にも綺麗なお花が庭に咲いているんです。また、もらってきますね」
「かわいいおはながいいなぁ……」
「承知しました。あ、そういえば、庭師さんから面白いお話を聞いたんです。この薔薇は観賞用なんですけど、食べられる薔薇もあるそうですよ」
「えぇぇ?うそぉ……」
「本当です」
「じょうだんでしょ?」
「いや、本当なんですよ」
2人で会話をしながら、薔薇を見つめる。ウェンディが嬉しそうに笑って、レベッカを見上げてきた。
レベッカも微笑み返しながら、この時間が楽しいな、と思った。
それから数日後。
「レベッカ、倉庫から掃除道具を持ってきて」
「はーい!」
使用人から頼まれて、急いで倉庫へと向かう。これが終わったら、お嬢様の夕食を運んで、キッチンでの仕事を終わらせなければ。何時ごろ仕事が終わるかな、と考えながら足を進め、角を曲がったその時だった。
「あっ」
誰かとぶつかる。軽い衝撃を受けて、反射的に口を開いた。
「申し訳ありませんっ」
「いや、こちらこそ、すまない。大丈夫かい?」
聞き覚えのない声が聞こえて、前を向く。そこに立っていたのは、一目で分かるほど、上品で高級な服を身につけた美しい青年だった。薄い金髪を少し伸ばして後ろで結んでいる。その瞳は、紫水晶のように美しい。こんなにも美しい男性を見たのは初めてだ。思わず見とれていると、青年が困ったような顔をしながら口を開いた。
「ちょうどよかった。君、レベッカというメイドがどこにいるか知ってるかい?」
青年の問いかけに、思わず目を見開いた。どう答えればいいのか分からず、困惑した声が出る。
「あ、あの…」
「ああ、ごめん、ごめん。急にこんなこと聞かれたらびっくりするよね」
青年が苦笑しながら、言葉を重ねた。
「僕の名前は、クリストファー・ジーン・コードウェル。レベッカというメイドを探しているんだ。――どこにいるか、知らない?」




