闇の中で
その感情が芽生えたのはいつだったのだろう。
自分でもよく分からない。
何がきっかけだった?
どうしてこんな気持ちが生まれた?
自分で、自分が分からない。
初めは、ただの仕事だった。ひとりぼっちのウェンディに仕えること。支えること。それだけだった。
それがいつの間にか思慕へと、親愛へと変化した。純粋な好意だった、筈だ。レベッカにとって、ウェンディは、この世界で一番大切で、守りたい存在になった。今もそれは変わらない。
柔らかい金髪も、宝石ように輝く瞳も、砂糖菓子のような甘い声も、抱き締めた時のぬくもりも。
その存在の全てを、守りたいと。
そばにいたいと、願った。
親のような、姉のような心をもって、見守っていくつもりだった。
――その気持ちが、どうしてこんな感情に変化したのだろう。
否定したい。だけど、もう自分の心がそれを拒絶している。
だって、ウェンディが自分以外の人間と親しくしているところを見ただけで、レベッカの胸はひどく苦しくなり、息ができなくなる。心が焼け焦がれるような感覚になり、痛くて痛くて死んでしまいそうだった。
生まれて初めて抱く感情だった。そして、そんな感情に気づいたのと同時に、頭の中で何かが弾けた。心の奥底に隠していた想いがあふれてくる。きっと、もう、止めることはできない。
ウェンディの事を思うだけで、心が揺れ動く。甘美な気持ちが、熱い想いが、電流のように全身を駆け巡る。
その笑顔を思い浮かべるだけで、世界が輝く。
心の奥底で、芽生えたそれは、間違いなく“愛おしさ”だった。
そして、それは主人に対しての敬慕ではなく、思慕でもなく、親愛でもない。確実に違う、別の感情だ。
レベッカは、ウェンディという存在を1人の女性として、愛している。
◆◆◆
一体どれだけ時間が経ったのだろう。いつの間にか昼休みは終了したらしい。ウェンディとニコラスはベンチから立ち上がると、どこかへ立ち去ってしまった。
レベッカは植え込みの陰で顔を地面に伏せ、固まったままだった。ウェンディを追いかける気力もなく、無言で物思いに沈んでいると、
『レベッカ』
突然名前を呼ばれ、ヨロヨロと顔を上げた。いつの間にか、目の前に白猫のリースエラゴが立っていた。
『よかった。見つかって……探したぞ』
リースエラゴは心から安心したような表情をする。レベッカはぼんやりとリースエラゴを見返した。
『リーシー……』
『すまなかった。ここへ来るのが遅くなって……』
『いえ……』
レベッカはぼんやりとリースエラゴを見つめながら言葉を重ねた。
『……私がここにいるってよく分かりましたね』
リースエラゴは軽く首をかしげながら答えた。
『人間達に捕まりかけてな。なんとか人間から逃げ切った後、お前の魔力の気配を追いかけてきたんだ』
『そう……ごめんね、はぐれちゃって』
レベッカは項垂れるようにそう言うと、リースエラゴは不思議そうな顔をした。
『……レベッカ、どうした?何かあったか?』
レベッカの様子を不審に思ったのか、リースエラゴな心配そうに尋ねてきた。レベッカはゆっくりと首を横に振り、ようやく声を出す。
『……いいえ。何でも、ありません。何でも……』
震えるように声を出して、言葉を続けた。
『リーシー……、帰ろう』
『は?』
リースエラゴはびっくりしたような声をあげた。
『帰るって……だって、お前――』
『もういいから、帰ろう』
レベッカが更にそう続けると、リースエラゴは何かあったことを察したのか口を閉じた。
しばらく無言でレベッカを見つめ、やがて小さく頷く。
『分かった。帰ろう』
『……ごめんね、リーシー。せっかく連れてきてくれたのに』
『気にするな』
リースエラゴはゆらゆらと尻尾を揺らした。
『それじゃあ、戻るぞ』
そのまま、レベッカの身体に尻尾で触れる。
次の瞬間、パチンと音がした。
ハッとして顔を上げると、そこはどこかの路地裏だった。
『レベッカ』
リースエラゴに名前を呼ばれ、顔を向ける。白猫の顔がグニャリと歪む。次に視界が真っ白に染まった。
「――あ」
気がつくと、リースエラゴが元の人間の姿に戻ってレベッカの真正面に立っていた。レベッカは自分の顔をペタペタと触り、感触を確認する。どうやら自分の姿も元に戻っているらしい。
「戻ってる……」
「ああ」
リースエラゴはレベッカをまじまじと見つめた。
「身体の調子は悪くないか?」
「いえ、特には……」
「そうか」
リースエラゴは満足そうに頷くと、レベッカを抱き上げた。
「……何か食べてから帰るか」
どうやら意気消沈しているレベッカを気遣ってくれているらしい。その気持ちはありがたいが、今はとてもそんな気にはならない。レベッカはふるふると頭を横に振った。
「ごめんなさい……今はちょっと……」
「そうか」
リースエラゴは軽く頷くとそのまま路地裏からゆっくりと表へ出る。そのまま悠々と足を踏み出し、街中を進んで行った。恐らくはレベッカの様子を不思議に思っているに違いない。だが、リースエラゴは無言のまま、何も尋ねてこなかった。レベッカはその事に感謝しながら、リースエラゴの服に顔を埋めるようにして物思いに耽っていた。
「レベッカ、着いたぞ」
リースエラゴの声に顔を上げる。いつの間にかコードウェル家の屋敷の前に立っていた。
「……ありがとう、リーシー」
レベッカはお礼を言いながら、リースエラゴの服から手を離し、腕から降りた。
「本当に大丈夫なのか?」
リースエラゴがその場にしゃがみこみ、レベッカの顔を覗き込むように尋ねてくる。レベッカはうつむきながらも言葉を返した。
「……うん。大丈夫。……ごめんね。本当に、ありがとう」
再び謝ると、リースエラゴは困ったような顔で言葉を返した。
「気にするな。お前と久しぶりに会えて、私も楽しかった」
「……もう、行くの?」
レベッカが小さな声を出すと、
「……ここにいた方がいいか?」
リースエラゴが心配そうな顔で問いかけてくる。レベッカは慌てて首を横に振った。
「ご、ごめん。ちがうの」
自分の服を両手でギュッと掴む。そして、弱々しく笑いながら言葉を続けた。
「……ちょっと、しばらく1人で考える。リーシーは気にしないで」
そう言うと、リースエラゴは何か言いたげな顔をする。しかし、
「――そうか」
結局出た言葉はそれだけだった。
「それじゃあ……」
「うん」
リースエラゴは立ち上がろうとしたが、考え直したように動きを止めた。そして、不意に手を伸ばすと、レベッカの身体を抱き締めた。
レベッカは驚いて目を見開く。リースエラゴは耳元で小さく囁いた。
「……何かあったらいつでも呼べ」
レベッカは一瞬躊躇ったが、自分も少しだけリースエラゴを抱き締め、
「うん」
と頷いた。
レベッカの答えを聞いて、リースエラゴは満足そうに手を離す。そして、レベッカをまっすぐ見つめながらゆっくり立ち上がった。
「じゃあな」
「またね、リーシー」
レベッカが別れの挨拶をすると、リースエラゴが頷く。そして、パチンと指を鳴らすと、その姿は煙のように消えた。
◆◆◆
「ただいま、戻りました」
コードウェル家の屋敷に戻ったレベッカを迎え入れたのはキャリーだった。
「ああ、おかえりなさい、レベッカ」
「キャリーさん……今日は突然休んで申し訳ありませんでした」
「いいのよ。お医者様のところに行ってたんでしょ?大丈夫?」
「はい」
レベッカは頷いたが、キャリーは顔を曇らせながらレベッカの顔を覗き込んできた。
「レベッカ、本当に大丈夫?なんだか顔色が悪いわ」
「……大丈夫、ですから」
レベッカがそう答えたその時、
「ああ、レベッカ、おかえり」
そう言って近づいてきたのはクリストファーとリゼッテだった。
「クリストファー様、今日は本当に申し訳ありませんでした」
「いや、大丈夫だよ。リースエラゴさんは?」
「えーと、もう帰りました」
レベッカがそう返すと、「あら」とリゼッテが頬に手を当てた。
「私もご挨拶したかったわ……」
「な、なんだか、お仕事が忙しいらしくて……」
レベッカが適当に誤魔化すと、リゼッテは残念そうな表情をしながらも頷く。
「そう……お医者様は大変ねぇ」
その時、クリストファーが突然その場にしゃがみこんだ。そのままレベッカの顔を見て、口を開く。
「レベッカ、なんだか顔色が悪いけど……大丈夫?」
「あ、だ、大丈夫です。ちょっと、疲れただけ、なので……」
「そうか……じゃあ、もう今日は休んで――」
「い、いえ!」
レベッカは慌てて首を横に振ると、言葉を重ねた。
「だ、大丈夫です!本当に!!」
そして、クリストファーから顔をそらすと、
「私、仕事に戻ります!キッチンに行きます!」
キッパリとそう言って、その場から逃げるように走り去った。
その姿をキャリーは首をかしげて見送り、クリストファーとリゼッテは不思議そうに顔を見合わせていた。
いろいろと考えることが多すぎたのかもしれない。あまりにもたくさん思い詰めたのが悪かったのだろう。次の日、レベッカは熱を出して寝込んだ。
「うぅ……」
ベッドの中で、レベッカは唸る。熱さで意識が朦朧とする。
クリストファーがすぐに医者を呼んでくれた。医者はレベッカを診察し、風邪だろうと診断を下す。そして、薬を処方すると、すぐに部屋から立ち去っていった。
キャリーの手を借りながら、処方された薬をなんとか飲みこむ。そのまま倒れるようにベッドに戻ったレベッカの額に、キャリーが冷たい氷の入った袋を当ててくれた。
「大丈夫、レベッカ?」
「……申し訳、ありません……こんなに、休んで……」
「それは気にしなくていいから。ゆっくり休みなさい」
キャリーの優しい声に泣きそうになりながら、レベッカはベッドの中で頷いた。
「……ありがとう、ございます」
「何か、欲しいものある?お腹すいてない?」
「大丈夫、です……キャリーさんは、お仕事に戻ってください……」
「えっ、でも――」
「これ以上ご迷惑をおかけするのは申し訳ないので……寝てたら、治ります……何かあったら、誰かを呼びますから……」
キャリーは心配そうにしながらも、レベッカの言葉に頷き、立ち上がった。
「じゃあ、行くけど……本当に大丈夫なのね?」
「はい……」
「苦しかったら、絶対に呼んでね。あと、お水は飲んで。もう少ししたら何か食べ物を持ってくるから、少しは食べてね。それから――」
熱で苦しくて、キャリーの言葉は半分程しか理解できなかったが、なんとか弱々しく頷く。キャリーはレベッカのそんな姿に心配そうな顔をしながらも、部屋から出て仕事に戻っていった。
ひとりぼっちになった部屋で、レベッカはぼんやりする。ふと、小さな声で呟いた。
「お嬢様……」
無性にウェンディに会いたかった。直接顔を見て、話したかった。だけど、同時に顔を合わせるのが怖い、とも思った。
『ベッカ』
頭の中でウェンディの声が響く。会いたくて会いたくてたまらないはずなのに、ウェンディの事を考えるだけで、心臓を掴まれたみたいに胸が苦しくなる。自分の感情を自覚したからだろうか。心が痛くて、息が苦しい。もう止まらない。
だって、この気持ちは、絶対に叶わないと理解しているから。
『ベッカ、だいすき!』
ウェンディに慕われている、とは思う。間違いなく、ウェンディにとってレベッカは大切な存在なのだ、と思う。それは間違いない。だからこそ、レベッカが行方不明の4年間もの間、待っててくれたのだ。
だけど、それはきっと、レベッカが幼少期からずっとウェンディのそばにいたからだ。ウェンディのその想いは、自分のメイドに対する純粋な好意であり親愛だ。特別な感情ではない。
「でも、私は……」
ぼんやりとレベッカは小さな声で言葉を重ねた。
「私は……恋愛としても、お嬢様が、好き、だから……」
風邪のせいか思考が乱れて絡み合う。頭が混乱してクラクラしてきた。いろいろな思いが脳の中で氾濫していく。苦しくて、辛くて、切ない。
レベッカがどんなにウェンディを想っているとしても、どんなに願っても、この恋は叶わないだろう。いや、始まることさえない。
多少の特別な繋がりがあるとはいえ、ウェンディは貴族令嬢であり、レベッカはただのメイドだ。それに、同性同士だ。そこには何の未来もない。
ウェンディはいずれ結婚してレベッカの元から去ってしまうだろう。レベッカの大切な女の子が、誰かのものになる。その事実があまりにも苦しくて、悲しくて、叫んでしまいそうだった。
いや、ウェンディの事だから、結婚してもレベッカをそばに置きたがるかもしれない。そばにいられるのはもちろんとても嬉しい。だけど、そうなったら、ウェンディが誰かと幸せになる光景を一番近いところでレベッカはただ見つめ続ける事になる。そんな光景を想像するだけで、心が壊れるような感覚がした。きっと、絶対に耐え切れない。
それに、ウェンディはもう既にニコラスと心を通い合わせているかもしれない。だって、あんなに仲が良さそうだったのだ。
目の前が真っ暗になった。希望も何も見いだせない。じわじわと心に黒い染みが広がっていく。
「うぅ……」
レベッカの瞳から、大粒の涙があふれた。
◆◆◆
その頃、魔法学園の教室にて。
午前中の授業が終了した後、ウェンディは立ち上がるとニコラスの元へまっすぐ近づいていった。
「コーリン、今日のお昼、どうする?」
天気もいいし昨日のように外で食べるのもいいな、と思いながらウェンディが尋ねると、ニコラスは困ったように首をかしげた。
「ごめん、今日はちょっと……」
ニコラスの様子にウェンディは眉をひそめた。
「どうしたの?」
「いや……朝に連絡があったんだけど、実は、また姉が体調を崩したらしくて……」
ニコラスの言葉にウェンディは納得したように頷いた。
「ああ……お見舞いに行くの?」
「うん。昼休みを利用して、ちょっと行ってくるよ」
「分かった。気を付けてね」
ウェンディはヒラヒラと手を振り、教室から立ち去っていった。
久しぶりに1人での昼食だ。淡々と廊下を進み、学生用の食堂へ行くウェンディの耳に周囲の生徒の声が届いた。
「昨日、学園に猫の親子が忍びこんだんだって」
「猫?どこから入ったの?」
「さあ……。親猫の方は職員室とか校長室とかに入りこんで散々暴れまわって、大変だったらしいよ」
「へえ、それでどうなったの?」
「いつの間にか2匹とも消えたって。逃げたんじゃない?」
猫、という言葉を聞いてウェンディの顔が自然と強張る。ウェンディは動物が苦手ではないが、決して好きというわけではない。関わりたくはないな、と思いながら足を進めた。
このところ、ニコラスの姉、エステル・ランバートが体調を崩す事が増えた。
ニコラスは外出届を学校に提出し、“転送”の魔法でランバート家に向かう。到着してすぐにエステルの部屋を訪れた。
部屋の扉を叩くとすぐに、
「はい」
と柔らかなエステルの声が返ってくる。ニコラスはすぐに扉を開けると、部屋に足を踏み入れた。
「久しぶり、エステル姉様」
ニコラスが顔を見せると、エステルはベッドから身を起こし花のように笑った。
「まあ、ニコラス」
ニコラスはまっすぐにベッドに近づき、すぐそばにある椅子に腰を下ろす。
「来てくれたのね……嬉しいわ」
「うん。身体の方は大丈夫?」
「ええ。最近忙しいからちょっと疲れてるだけ。ごめんなさい、心配をかけて……」
そう言いながら、エステルは手を伸ばすと、ニコラスの頬に優しく触れてきた。
「あなたこそ、ちょっと痩せたのではなくて?」
「……そうかな。確かに最近ちょっと食欲がないんだけど……」
「ダメよ。ちゃんと食べなくちゃ」
「はいはい」
適当に返事をしたニコラスに、エステルは少し怒ったような顔をする。そのままニコラスの頬を軽くつねる。
「もう、私は心配しているのよ、ニコラス」
エステルは腕を下ろすと、ゆっくり顔を伏せた。
「あなたに何かあったら、きっと私、生きていけないもの……」
「大げさだな、お姉様は」
ニコラスは苦笑するとそのまま立ち上がった。
「ごめんね、そろそろ戻るよ」
「あら、まだいいじゃない」
「いや、顔を見に来ただけだし……あまり遅くなったら学校側も心配するだろうから」
そのままその場から離れようとしたニコラスの服をエステルは掴んだ。
「ねえ、ニコラス……1つだけ教えて。あなた、やっぱりコードウェル家の令嬢と特別な関係なの?」
その言葉に、ニコラスは顔を曇らせる。そして、エステルから目をそらし、口を開いた。
「あまり、その話はしたくないな」
「でも……姉として、知りたいのよ。あなたは昔から愛想はいいけど、他人にはほとんど無関心だった……。そんなあなたに恋人が出来たなんて……」
「……」
「あなたの将来にも関わる問題でしょう?あのね、もしも……もしも、その、あなたがお母様とのことを気にしてるなら――」
「悪いけど」
エステルの言葉を遮るように、ニコラスは声を出した。
「悪いけど、話したくないんだ」
キッパリとそう言うと、ニコラスはそっとエステルの手を服から離す。
「またね、お姉様」
そう言って逃げるように部屋から出ていった。
学校へと戻ったニコラスは1人で図書室へと向かった。後で知られたら叱責されるとは分かってはいるが、どうしても授業に戻る気になれない。
授業中ということもあり、図書室には誰もいなかった。都合がいいことに司書も席を外しているらしく、図書室は静まりかえっている。
ニコラスは設置された椅子に座ると、テーブルに肘をついて外の景色を眺める。そして、そのままゆっくりと目を閉じた。目の前に闇が広がる。
頭の中で、かつての記憶が甦った。
声が聞こえる気がした。忌まわしい、あの声が――
『ニコラス、可愛い子』
『あなたは私のそばにいてくれるでしょう?』
『ずっと、ずっと、そばにいてくれるでしょう?私の可愛いニコラス……』




