嬉しい知らせ
『――さま』
『なかないで』
『だいじょうぶ』
『ずっとそばにいるから』
『ずっと、ずっとそばにいるから』
◆◆◆
姉が体調不良で倒れた。
その知らせを聞いたニコラス・ランバートはすぐに学園に外出届を提出し、魔法を使って実家であるランバート侯爵家へと戻った。
使用人に迎えられ、軽く挨拶をした後、すぐに姉の私室に向かう。広大な屋敷の中を無言で歩き、部屋に到着すると、ゆっくりと扉を叩いた。
「エステル姉様?」
姉の名前を呼ぶ。だが、返事は返ってこない。
「姉様?入るよ」
一応そう声をかけてから、ニコラスは扉を開いた。
扉の向こうには、女性らしく美しく装飾された部屋が広がっていた。大きなベッドの上には、ニコラスと同じ青みがかった黒髪の美しい女性が横たわっている。ニコラスがベッドへ近づこうとしたその時、女性の瞳が静かに開かれた。ニコラスを見て、嬉しそうに赤い唇を綻ばせる。
「まあ、ニコラス、来てくれたの?ごめんなさい、寝ていたわ……」
そのままエステルはゆっくりと起き上がった。ニコラスは慌てて手を上げてそれを止めようと口を開いた。
「姉様、そのまま寝ててくれ。まだ体調が悪いんだろう?」
「大丈夫よ。最近忙しかったから、疲れが貯まっていただけ……」
エステルはニコラスを安心させるように笑う。その姿を見たニコラスはホッと息をつきながら、ベッドの側の椅子に腰を下ろした。
「ニコラス、あなた学校は?」
「姉様が倒れたって聞いて、抜け出してきた」
「まあ、そんな……」
「外出届けは出してきたよ。だから大丈夫」
ニコラスはそう言いつつ、姉の顔をさりげなく見つめる。確かに、どこか疲れたような顔をしている。それに、前回会った時よりも痩せたような気がした。
「……父上は?」
ニコラスが問いかけると、エステルは苦笑しながら首を横に振った。
「お父様はお忙しいから……こちらへ来るのは難しいのよ」
その言葉に、ニコラスはため息をつきそうになったがなんとか堪えた。
エステルとニコラスに母親はいない。ニコラスが5歳の時に他界した。
父親のランバート侯爵は存命ではあるが、あまり良好な関係ではない。侯爵としては有能で立派な人物ではある。だが、昔から驚くほど他人には無関心で、仕事と趣味の狩猟にしか興味がない人間だった。それは自分の子ども達でも例外ではなく、姉弟は幼い頃からほとんど放置状態だった。父親には向いていない人なのだ、とニコラスはほとんど諦めていた。
「……見舞いくらいすればいいのに」
ニコラスは思わずそう漏らすが、エステルはコロコロと笑った。
「あなたが来てくれたから、私は大丈夫」
そんなエステルの笑顔を見て、相変わらず美しい人だ、とニコラスは思った。
三大美女と言われるほど美しいこの姉は、幼い頃から男性にも女性にも人気だった。容姿も素晴らしいが、性格も明るく優しく、しっかり者で彼女に憧れている人間は少なくない。勉学も優秀な上、品行方正であり、学生時代は学園で生徒会長も務めていた。正に非の打ち所のない女性だ。感情表現が豊かで、笑うだけでその場が一気に明るくなるような、魅力的な女性だった。
ニコラスは気を取り直すようにエステルに微笑み返し、言葉を重ねた。
「……ブルックスにも顔を出すように伝えておくよ」
その言葉にエステルは慌てたように首を横に振った。
「大丈夫よ。彼も忙しいんだから、内緒にしてて。ね?」
「……」
ニコラスは口を閉じて顔をしかめる。
エステルは最近婚約した。相手はエステルの2歳年下で、ニコラスの同級生でもあるブルックス・アルマンだ。
正直に言うと、エステルがブルックス・アルマンを結婚相手として選んだのは意外だった。ブルックスはアルマン男爵の息子であり、学園では生徒会にも入っている優秀な学生だ。強い魔力を持ち、魔法の技術も高い。優しく物静かだが、真面目すぎて少し気が弱い所もある青年だった。エステルならもっと身分が高く、自分と同じ明るいタイプの青年を選ぶと思っていたので、ニコラスにとってこの婚約は本当に予想外だった。
「ブルックスとは……うまくいってる?」
ニコラスがそう問いかけると、エステルは手を合わせるようにして軽く頷いた。
「ええ。よくお手紙をくれるの。今度休暇に入ったら、こちらに顔を出すそうよ」
「……そう」
「それより!私もあなたに聞きたい事があるの」
「うん?」
ニコラスが首をかしげると、エステルは興味津々な様子で言葉を続けた。
「噂を聞いたわ。あなたにもお付き合いしている方がいるとか……」
「……あー」
ニコラスは苦笑してさりげなく視線をそらした。エステルはそんな弟に拗ねたような顔を向ける。
「ひどいわ。私に教えてくれないなんて」
「……いや」
「コードウェル伯爵の妹様でしょう?私は顔を見たことあるけど、話したことはないの。とても綺麗な方よね。どんな方なの?」
「あー、えーと……」
「嬉しいわ。とうとうあなたにも恋人ができるなんて……ねえ、どこまで話は進んでるの?婚約するの?」
ニコラスはどんどん話し続けるエステルから逃れるように立ち上がった。
「ごめん、姉様。その話はまた今度」
「ええ?ニコラス、あなたね――」
「僕にもいろいろあるんだ。何かあったら必ず姉様に話すよ」
ニコラスは誤魔化すようにそう言って微笑むと、その場から足を踏み出す。
「授業もあるから戻るよ。またね、姉様」
そう言いながら手を振って部屋から出ていくニコラスを、エステルは不安そうな表情で見送った。
◆◆◆
「ねえ、聞いた?あの話……」
「知ってる知ってる!ニコラス様とウェンディ様の事でしょ?」
魔法学園にて、生徒達はヒソヒソと声を出して会話をしていた。
「何か密談をしていたらしいわね。やっぱり婚約するのかしら?」
「え~、ニコラス様が婚約するなんて、ショック……」
「仕方ないでしょ。あの2人、仲がいいし……」
「誰にでも冷たいあのウェンディ様が、ニコラス様とだけはとても親しいし」
「なんであの2人、あんなに仲がいいんだろう?何か共通点あった?」
「さあ……?」
生徒達は息をひそめるように、2人の仲を想像しながら話を広げていった。
◆◆◆
エステルを見舞ってから数日後のこと。
学園の庭園にて。ニコラスはベンチに座り、静かに本を読んでいた。現在は昼休みだ。もう少ししたら午後の授業が始まる。そろそろ教室に戻ろうか、と思いながらページを捲ったその時だった。
突然、ニコラスに1人の青年が声をかけてきた。
「ニコラス……」
ニコラスが顔を上げると、そこに立っていたのは、儚げな雰囲気の気弱そうな青年だった。明るい茶色の短い髪に、顔に散らばるそばかす、薄い青緑色の瞳が印象的なその青年は、どこか不安そうな表情でニコラスを見ている。
「どうした?ブルックス」
ブルックスと呼ばれた青年は、許可も取らずにニコラスの隣に腰を下ろした。
「……本当なのかい?」
「何が?」
本へと視線を戻しながら淡々とニコラスが聞き返すと、ブルックスは躊躇ったような顔をしながらも言葉を重ねた。
「コードウェル家の令嬢とのことだ」
「……」
ニコラスは何も答えずに沈黙する。
「君達は、その……特別な仲なの?」
その問いかけに、ニコラスは大きなため息をついた。
「それ、答えなきゃダメ?君には関係ないだろう?」
ニコラスの言葉に、ブルックスはムッとしたように声をあげた。
「関係なくはない。君は、俺の義弟になる人なんだから……」
その言葉にニコラスは本から顔を上げて、苦笑した。
「君が姉上と婚約したのは驚いたよ。どうやってあの姉を口説いたんだ?」
「話をそらさないでくれ」
ブルックスの声に、ニコラスは一度口を閉じる。すぐにニッコリと笑いながら、人差し指を立てて唇に当てた。
「彼女とはいろいろ今後のことを話し合っているんだ。決まったら伝えるよ」
「決まったらって……」
ブルックスが不満そうな顔をする。ニコラスは再び苦笑し、ゆっくり立ち上がった。
「それよりも、ブルックス、君は自分の心配をした方がいい。結婚式の事とか考えることはいくらでもあるだろう?」
そして、読んでいた本を抱え直す。そして、
「じゃあな」
そう言うと、足早にその場から去っていった。
「……」
そんなニコラスの後ろ姿をブルックスは顔を曇らせたまま無言で見つめていた。
◆◆◆
一方、コードウェル家にて。
『大好きなベッカへ
お手紙をありがとう。何度も読み返しました。料理を習っているのね。すごいわ!あなたの作った料理を今すぐにでも食べたいです。でも手を傷つけないように十分注意してね。それに、あまり無茶な事はしないようにね。それから――』
夜遅く、レベッカは私室にてウェンディからの手紙を何度も読み返していた。
ウェンディからは毎週欠かさず手紙が届いている。手紙の内容は学校で起きた出来事や最近読んだ本の事、勉強の事など内容は様々だ。だが、全ての手紙の書き出しは、必ず『大好きなベッカへ』となっている。その事が嬉しくて、文字をなぞりながらレベッカは1人で笑った。
「ふふふ……」
そのままもう一度手紙を読み返す。そして、自分もペンを手に取ると、ウェンディへの手紙を書き始めた。
その翌日、ウェンディへの手紙を送った後、レベッカは仕事に精を出していた。本日の仕事は庭の掃除だ。
「レベッカ、1人で大丈夫?」
キャリーが少し心配そうに問いかけてくる。レベッカは大きく頷き、口を開いた。
「大丈夫ですよ!キャリーさんは台所の仕事に行ってください」
「何かあったらすぐに声をかけてね」
キャリーはそう言うと足早にキッチンへと向かっていった。
レベッカは1人でバタバタと動き回り、庭の掃除を進めていく。この掃除が終わらせたら、今日の仕事も終了だ。
明日は休日だからまたリースエラゴを呼び出しておしゃべりしようかな、と考えたその時だった。
「あら、レベッカさん」
後ろから声をかけられる。そこに立っていたのはリゼッテとリゼッテ専属のメイドだった。
「あっ、リゼッテ様!こんにちは」
レベッカが慌てて挨拶をすると、リゼッテも微笑みながら言葉を返した。
「こんにちは。お仕事ですか?」
「はい。掃除中です……」
レベッカはそう言いながら、リゼッテの顔をチラリと見上げる。最近リゼッテは体調が悪いらしく、私室で過ごす時間が多い。そのためリゼッテと顔を合わせるのはかなり久しぶりだった。今もなんとなく顔色が悪い気がする。
大丈夫かな、と思いつつレベッカは言葉を続けた。
「リゼッテ様はお散歩ですか?」
「ええ。たまには少し散歩をしてみようと思って。最近はずっと部屋にこもってたし」
その言葉に、レベッカは心配になってリゼッテの顔を見つめながら声を出した。
「あの、大丈夫ですか?病気とか……」
「あ、ちがうの」
リゼッテは慌てたように手を振った。
「ごめんなさい。心配しないで。病気とかではないのよ……」
「え?あ、そうですか……」
リゼッテの様子に困惑しながらレベッカは眉をひそめる。
そんなレベッカに、リゼッテは少し迷った顔をしたが、すぐに微笑むとその場にしゃがみこんだ。そのままレベッカと視線を合わせる。
「リゼッテ様?」
「あのね、実はね――」
リゼッテがレベッカの耳元で小さく囁くように言葉を紡ぐ。その言葉が届いた瞬間、レベッカは顔を輝かせた。
「ほ、本当ですか!?」
思わず大声を上げる。リゼッテは大きく頷き、言葉を重ねた。
「クリストファー様も大喜びだったの。まだ他の人には秘密だから、無理矢理抑えているみたいだけど」
「それは、すごく大変でしょうね」
「必死よ。あんなふうになるのは初めてだわ」
リゼッテとレベッカはクスクスと笑い合った。
リゼッテはそのまま人差し指を立てて口元に当てた。
「もう少ししたら、周囲にも発表するつもりなの。それまでは秘密ね」
「はい!」
レベッカは大きな返事をする。リゼッテは再び微笑むと、小さく手を振りながらメイドと共に屋敷の中へと戻っていった。
その後ろ姿を見つめながら、レベッカは大きく胸を膨らませる。そのまま未来へと思いを馳せた。
――来年、この屋敷に新しい家族が1人増えるのだ。
持っていた箒をギュッと握りしめ、思わず拳を天に向かって振り上げる。久しぶりに、心の中が幸福と希望でいっぱいになるのを感じた。
裏設定
※ブルックス・アルマン
アルマン男爵の子息。気が弱いが、真面目で努力家な優等生。生徒会にも入っている。幼い頃、2歳年上のエステルとパーティーで出会い、一目惚れした。最近になってその想いが実を結び、エステルと婚約。卒業したらすぐに結婚する予定。




