ぬくもりと笑顔
翌日から掃除や食事の運搬に加えて、夜にミルクを持っていくことが仕事に加わった。毎晩のように、チリンと呼び鈴が鳴り、その音を合図にレベッカはウェンディの部屋へと向かう。
「お待たせしました」
「ベッカ、おそい」
ウェンディはいつもベッドの上で待っていた。もはや、レベッカです、と訂正するのも面倒くさくなった。苦笑しながらミルクを温めて、蜂蜜をたっぷり入れる。
「はい、どうぞ」
「ん」
蜂蜜入りの温かいミルクを差し出すと、ウェンディは小さく返事をして受け取る。相変わらず口数は少ないが、最初の頃と比べるとその表情は随分と柔らかくなった。ちびちびと少しずつミルクを飲むウェンディを近くから見つめる。
「美味しいですか?」
レベッカが声をかけると、ウェンディは何も言わなかったがコクリと頷いた。その姿がとても可愛らしくて、レベッカは思わず微笑んだ。そんなレベッカにウェンディは何かを言いかけ、
「……っ」
結局何も言わずに目をそらす。レベッカはただ微笑みながらウェンディを見つめ続けた。
気がつくと、レベッカがウェンディの世話係になって3ヶ月も経っていた。
「ねえ、レベッカ、大丈夫なの?」
「はい?」
久しぶりにキャリーと会い、そう尋ねられる。
「体調悪くない?」
「ええ、前にも言いましたが、大丈夫ですよ」
そう答えて微笑むと、キャリーは心から安心したような顔をした。
「よかった。最近全然会わないから心配だったのよ」
その言葉に苦笑する。最近はウェンディの世話がメインの仕事になりつつあり、キッチンや洗濯室での仕事をするのが少なくなってきていた。
「ご心配おかけして、申し訳ありません。私なら本当に大丈夫なので」
「うん。すごいわ、本当に。お嬢様の部屋の仕事がこんなに長く続けられるなんて……」
「もう慣れましたから」
肩をすくめながらそう言った時、後ろから声をかけられた。
「レベッカ」
はい、と返事をして振り向くと、メイド長がこちらへ近づいてきた。
「これ、お嬢様に渡しておいてくれる?クリストファー様からの手紙よ」
そう言って、封筒をレベッカへ差し出してきた。
「承知しました」
レベッカが頷いてそれを手に取ると、メイド長はさっさとどこかへ行ってしまった。
「クリストファー様からのお手紙かー。元気なのかなぁ」
「あ、キャリーさんはご子息に会ったことあるんですね」
「うん。すっごくかっこいいの。それに優しくて真面目でね……伯爵様とは大違い」
最後の言葉を吐き捨てるように言ったため、驚いてキャリーの顔を見た。
「それは、どういう――」
その時、キッチンから大きな声がした。
「キャリー、こっち手伝って!」
そう呼ばれたキャリーは
「あ、はーい!じゃあね、レベッカ」
慌てたようにそう言って、走って行ってしまった。
「……」
なんだろう、今の言葉。なんだか、気になる。
モヤモヤしたものを感じながら、ウェンディの部屋へと向かった。
「お嬢様、お手紙です」
そう言って、手紙を差し出すと、ウェンディがハッとしたような顔をして、素早く受け取った。ソワソワしながら手紙を開封し、それを読む。その顔はいつもの無表情ではなく、明らかに緩んでいた。
本当に仲がいいんだなと思い、微笑ましくなり、ついレベッカもクスリと笑ってしまった。それに目敏く気づいたらしいウェンディがこちらを見てきた。
「……なによ」
「あ、何でもありません」
慌てて背を向けて、風呂の準備をするために浴室へ向かう。背中にウェンディの強い視線を感じ、こっそり苦笑した。
それから数日後。
「本当にお借りしていいんですか?」
「うん」
ウェンディは所有している小説を本当にレベッカに貸してくれた。先日購入した、今話題になっているという冒険小説の1巻は、評判通りとても面白かった。ウェンディが貸してくれるのはその続編だ。小説の続きを読めることが嬉しくて、レベッカは顔を輝かせながらウェンディにお礼を言った。
「ありがとうございます、お嬢様!」
「――うん」
レベッカの笑顔を見たウェンディは戸惑ったように顔をそらした。
それから数日かけて、仕事が終わってから、ウェンディが貸してくれた冒険小説を読んだ。
「面白かったです!」
「も、もう、よんだの?」
本を返却したレベッカに、ウェンディが驚いたような顔をした。
「はい!お嬢様の仰ってた通り、とっても面白かったです!」
「そ、そう」
「特に、主人公が宿敵と対決するシーンは胸が熱くなりました」
レベッカの言葉に、ウェンディが大きく頷いた。
「わ、わかるわ。あそこ、ほんとうにどうなるかわからなくて、わたくしもドキドキしたもの」
「あと、新しく登場した魔女!性格が面白いですよね」
「そう!ゆかいで、ばかみたいだけど、おかしいの!」
「続きが楽しみですね。3巻も絶対に読みたいです」
「わたくしも、ぜったいに、かうわ!」
ウェンディが大きな声でそう言って、レベッカは微笑んだ。ウェンディがハッとしたように、下を向く。そんなウェンディに、レベッカは声をかけた。
「……また、教えてください」
「え?」
ウェンディがキョトンとする。レベッカはゆっくりとしゃがんで、ウェンディとまっすぐに目を合わせ、言葉を紡いだ。
「お嬢様のオススメの本。また、紹介していただけますか?」
その言葉に、ウェンディがポカンと口を開ける。そして、戸惑ったように目を泳がせながら小さく答えた。
「し、しかたないわね。すこしなら、……よくてよ」
「はい」
レベッカが笑う。ウェンディはモジモジとした後、逃げるように浴室へと飛び込んでしまった。
「あ、レベッカ!」
ある日、午後になってすぐ、メイド長から声をかけられた。
「はい、なんでしょうか」
淡々と答えると、メイド長が少し困ったような顔で口を開いた。
「お嬢様の部屋の掃除、終わったんでしょう?今からキッチンの仕事をお願いできる?」
「承知しました」
そう答えると、メイド長は急いでどこかへと行ってしまった。
「今日は忙しいのかな……」
そう呟きながらキッチンへと向かう。なんとなく使用人達もバタバタしているような気がした。キッチンへ顔を出すと、すぐに皿洗いを頼まれた。運ばれてきた食器をどんどん洗っていく。メイド長や使用人が忙しそうにしている理由はすぐに分かった。
「もしかして、伯爵様か奥様が帰ってきてるんですか?」
洗うよう命じられたたくさんの皿や食器が、明らかに高級な物ばかりだったため、近くの料理人にそう尋ねると、料理人は苦笑しながら頷いた。
「ああ、珍しく、旦那様がね」
どうりで使用人達が忙しくしているわけだ。レベッカは心の中で納得しながら皿洗いを続けた。
この屋敷の主、コードウェル伯爵は、滅多に屋敷に帰ってこない。そのため、レベッカは伯爵がどういう人間なのか、雇い主だというのによく知らない。何やらいつも仕事で忙しいから屋敷には帰ってこない、という事しか知らないのだ。伯爵夫人に至っては、どこで生活しているのか今まで一度しか姿を見たことはなかった。
そういえば、ウェンディの口からも伯爵夫妻の話は出てこないな、と気づいた時、近くの使用人から声をかけられた。
「レベッカ、これを備品庫に運んでもらえる?」
大きな箱を差し出されて、慌てて濡れた手を拭いてそれを受け取った。
「承知しました!」
箱を手に持ち、急いで備品庫へと向かう。適当な場所に箱を置いて、キッチンへと戻ろうと廊下を進んでいたその時だった。
誰かの笑い声が聞こえた。甲高くて、はしゃいだような、知らない女性の笑い声だ。
声がした方を振り返り、目を見開く。廊下の向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。伯爵と知らない女性だ。慌てて廊下の端へと移動し、頭を深く下げた。伯爵と女性はレベッカの事など全く気にも留めずに廊下を歩き続け、どこかへと行ってしまった。
「……」
頭を上げて、二人の後ろ姿を見つめる。伯爵と女性は随分と親しい様子だった。女性は伯爵にピッタリとくっついて、腕を絡ませている。伯爵は下品な笑みを浮かべていた。
「ああ、新しい愛妾でしょ」
キッチンへと戻り、たまたま顔を合わせたキャリーに伯爵が知らない女性と歩いていた事を話すと、あっさりとそう言い放ったため、レベッカは驚いた。
「愛妾、ですか……」
「知らなかった?伯爵様、物凄く女好きなのよ。奥様がここにほとんど帰ってこないでしょ?それをいいことに、たまに、今日みたいに愛妾を連れてくるのよね。何を考えているのやら」
「す、すごいですね」
少し顔を引きつらせながらそう言うと、キャリーは唇をレベッカの耳元に近づけてヒソヒソと声を出した。
「今の結婚だって、3回目なのよ」
「3回目!?」
「声が大きい!1人目の奥様とは子どもができなくて離縁、2人目の奥様との間にはクリストファー様が生まれたけど、伯爵様の女遊びに奥様が怒っちゃって離縁、3人目――今の奥様ね、結婚してすぐにウェンディ様がお生まれになったけど……今はかなり仲が悪くて、いつ離縁してもおかしくない、って感じらしいわ。今の奥様がここに帰ってこないのは、伯爵様とお嬢様の顔を見たくないから、らしいし……」
「か、顔を見たくないって……」
母親なのに?と思わず言いそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。
「レベッカも、伯爵様には気をつけてね。あの女好きは、きっと一生治らないわよ」
キャリーが肩をすくめながらそう言って、レベッカはどう答えればいいか分からず、曖昧に頷いた。
チリン、と呼び鈴が鳴って、レベッカは慌てて立ち上がった。すぐにミルクと蜂蜜をトレイに乗せて、ウェンディの部屋へと向かう。
「失礼します」
扉をノックして、開くと、ウェンディはいつも通りベッドの上で待っていた。その顔を見て、レベッカは首をかしげる。いつもの無表情だが、なんとなく憂鬱そうな顔をしているような気がした。
素早くミルクを温めて、カップに注ぐ。蜂蜜を入れて、ウェンディにカップを差し出した。
「お嬢様、どうぞ」
ウェンディは無言でそれを受け取る。ゆっくりとカップを唇に近づけ、
「……」
結局唇をつける前に、カップを下ろした。下を向いて、大きく息を吐く。
「……お嬢様?どうされました?」
レベッカが声をかけると、ウェンディはゆっくりと口を開いた。
「……きょう、……お、とうさまが、きてたでしょ」
その言葉に、少し驚いたがすぐに頷いた。
「はい……よくご存知ですね」
「お、とうさまが、きているときは、なんとなく、……このやしきの、くうきが、いつもとちがうから」
ウェンディが言葉を区切るようにそう言って、また大きなため息をついた。
「お嬢様……?大丈夫ですか?」
その様子に、レベッカが声をかける。ウェンディはしばらく無言だったが、不意に顔を上げてレベッカを見上げた。
「……ベッカ」
「はい」
「ここ、すわって」
「はい?」
首をかしげると、ウェンディが自分の乗っているベッドをポンポンと軽く叩いて示してきた。
「ここよ、ここに、すわるの」
一瞬キョトンとしたが、レベッカはすぐに動いた。
「では、失礼します」
一応そう声をかけて、示された位置に座る。ウェンディはレベッカを見ながらソワソワと四つん這いで近づいてきた。
「べ、ベッカ」
「はい?」
「あ、あのね、あの、ね……」
「なんですか?」
首をかしげながら、ウェンディの言葉を待つ。ウェンディは迷ったようにオドオドしていたが、ようやく口を開いた。
「……さ、」
「さ?」
「――さ、さわってもいい?」
レベッカはウェンディの言葉の意味が分からなくて、眉をひそめた。
「触る?何をですか?」
「――べ、ベッカに、さわっても、いい?」
ポカンと口を開ける。ウェンディはレベッカの反応を見て、泣きそうな顔をしていた。ウェンディの言葉の意味が分からず、困惑しながら、とりあえずレベッカは答えた。
「えーと、よく分かりませんが、とりあえず、……どうぞ」
レベッカがそう言ってウェンディに身体を近づけると、ウェンディはビクリと少し後退りした。
「ど、どうぞって……いいの?」
「え?なにがですか?」
「の、のろわれる、かもしれないのよ。あざが、うつるかも」
その言葉にレベッカは驚いて声を出した。
「えっ、移るんですか?メイド長さんがデタラメだって言ってましたけど」
「う、うつらない、けど」
「じゃあ、問題はないじゃないですか。それに、最初、風邪を引いた時に、一度お嬢様を抱っこしたり、頭を撫でたりしていますから。今更ですよ」
「そ、そうだけど」
「さあ、どうぞ」
またウェンディに近づく。ウェンディはビクビク震えていたが、大きく息を飲むと、ようやく手を伸ばしてきた。
ウェンディの手が、レベッカの頬に触れる。小さな、子どもらしい手だ。思わず笑うが、ウェンディは真剣な瞳でレベッカの頬を撫でた。
「あたたかい、のね……」
「そうですか?」
「やわらかい……」
レベッカは笑いながら、ウェンディの手を自分から握った。
「……っ」
ウェンディが驚いたように一瞬呼吸を止めた。
「こっちはもっと温かいでしょう?」
そう言って微笑む。そして、ゆっくりとぬくもりを分け合うように、ウェンディの両手をそっと優しく包んだ。
「……ほんとだ」
ウェンディが泣きそうな顔で何度も頷いた。
「……ベッカ」
「はい」
名前を呼ばれて、返事をする。
「……ベッカ、……ベッカ、ベッカ」
「はい」
「……わたくしを、よんで」
「お嬢様?」
「そうではなくて、……なまえを、よぶの」
「……はい、ウェンディ様」
レベッカが名前を呼ぶと、ウェンディは華が咲いたように笑った。その笑顔に心臓が高鳴る。あまりにも美しく、無邪気な笑顔だった。ウェンディが笑顔のまま言葉を重ねる。
「こんやは、ずっとここにいて」
「ここに、ですか?」
「わたくしが、ねむるまで、こうして、てをにぎってて、ほしいの。おねがい」
「はい、よろしいですよ」
レベッカの答えに、ウェンディが満足そうに頷き、ベッドに横たわった。
「――ベッカ」
「はい」
「あのね、こんやは、すごく、いいゆめをみるようなきがする」
「あら、どうしてですか?」
「ふふふ」
レベッカの問いかけにウェンディは答えず、小さく笑った。笑いながら、瞳を閉じる。そしてゆっくりと夢の世界へと旅立った。レベッカはウェンディの手を握りながら、その様子を静かに見つめ続けた。




