最後の夜
「……はぁ~」
昼食を食べながら思いため息をつくレベッカに、キャリーが声をかけてきた。
「レベッカ、朝からため息ばかりね。まあ無理もないけど」
苦笑しながら問いかけてくる。
「お嬢様の荷造りは終わったの?」
「……今、ジャンヌがやってます」
レベッカは沈んだ表情を浮かべながら答えた。
とうとう、明日、ウェンディは学校の寮へと戻ってしまう。現在、ウェンディと付き添いの使用人として同行する予定のジャンヌは、荷造りをしていた。
ウェンディとまた離ればなれになってしまう。分かってはいたことだが、寂しさを抑えきれず、レベッカの表情は朝からずっと暗かった。
「でも意外ね」
突然のキャリーの言葉に、レベッカは口に運ぼうとしていたスプーンを止めて顔を上げた。
「はい?」
「お嬢様の事だから、レベッカを無理にでも学校の寮に連れていくと思ってたわ。あなたにベッタリだし」
「あー……」
レベッカが何かを言う前に、代わりに別の声が飛んできた。
「連れては行くつもりだったそうです。初めは」
レベッカとキャリーが声の方に顔を向けると、そこにはジャンヌが立っていた。やや疲れた様子で昼食を手にレベッカの向かい側に腰を下ろす。
「あら、ジャンヌ、お疲れ様」
「はい、疲れました」
小さな声でそう言いながら、ジャンヌは昼食を口にする。レベッカはそんなジャンヌに声をかけた。
「荷造りは終わったの?」
「もう少しですね……」
苦笑しながらそう答えるジャンヌに、今度はキャリーが話しかける。
「お嬢様はレベッカを学校に連れていくつもりだったの?」
その問いかけに、ジャンヌは頷いた。
「はい。最初は、そのつもりだったみたいですね。でも、流石に……その、今のレベッカさんをメイドとして連れていくのは……かなり不自然だし、周りから奇異の目で見られるだろうって」
「ああ……そう、ね」
キャリーとジャンヌがチラリとレベッカに視線を向ける。レベッカは無言で苦笑した。
「レベッカさんにとってもそんな生活は辛いだろうし、苦労するだろうから、止めて方がいいだろうと……リゼッテ様が説得したみたいですよ」
「なるほどねぇ……」
キャリーが納得したように頷いた。
「ジャンヌは……お嬢様が入学してからずっと使用人として学校で生活していたんだよね?」
レベッカが問いかけると、ジャンヌは頷いた。
「はい、そうです」
「あの、さ……じゃあ、ちょっと聞きたいんだけど……」
レベッカは躊躇いつつも言葉を続けた。
「学校でのお嬢様ってどんな感じ?」
その言葉にジャンヌは昼食を食べる手を一瞬止めて、難しい顔をした。
「……あまり、その……学校を楽しんでいる感じではない、ですね」
言いにくそうに、モゴモゴと言葉を重ねた。
「……すごく成績は優秀みたいなんです、けど……誰とも深く関わろうとしないみたいですし……あまり仲がいい方もいないみたいです。1人で本を読んでいる事が多いですね」
「そう、なんだ……」
「あ、でも、1人だけ……」
「ん?」
レベッカが首をかしげると、ジャンヌは苦笑しながら言葉を重ねた。
「1人だけ、仲のいい方がいらっしゃるんですよ。同じクラスの方で、ランバート侯爵のご子息で……」
その言葉にレベッカの顔は凍りついた。キャリーがハッとしたように口を挟んできた。
「ああ!その噂なら聞いたわ!本当だったのね」
「はい。なんだか、気が合うみたたいで、よくお話しをされてるんですよ」
「へぇ~。お嬢様もお年頃だからねぇ……このまま婚約、とかかしら?」
その言葉にレベッカは下を向いた。無意識に強い力でスプーンを握りしめる。
ーーなんだろう、これ。
ーーザワザワする。すごく、すごく、嫌な感じ。
冷たくて黒い何かが込み上げてくるのを感じた。心臓が締め付けられたように痛い。
痛くて痛くて、この場から消えたくなる。
「……レベッカさん?どうしました?」
名前を呼ばれてハッと顔を上げる。気がついたらキャリーとジャンヌが不思議そうにこちらを見ていた。
「あ、な、何でもないです」
レベッカは慌てて立ち上がった。
「私、仕事に戻りますね!」
何かを誤魔化すようにそう言って、キャリーとジャンヌの視線から逃げるようにその場から立ち去った。
その日の仕事が終了した後、レベッカは自室に戻った。
部屋に入ってすぐにベッドに飛び込む。
とうとう、明日からウェンディのいない日常が始まる。
心が空っぽになっていくような感覚がした。孤独感と寂しさで涙が出そうだった。
「……」
それに、気がかりな事がもうひとつ。ウェンディと仲がいいというランバート侯爵の子息の事が気になって仕方ない。
遠く離れた地で、ウェンディは学生生活を再開する。
レベッカの知らない世界で、ウェンディはーー
『ベッカ』
ウェンディの輝くような笑顔を想像する。
あの笑顔を、ランバート侯爵の子息にも見せるのだろうか。
「……うぅ」
思わず唸った。
部屋の時計に視線を向ける。まだそんなに遅い時間ではない。
レベッカはモゾモゾと身体を起こす。そしてベッドから降りると、部屋から飛び出した。
部屋から出て、廊下を真っ直ぐに進む。廊下はひっそりとしていて、人の気配は感じられなかった。沈んでいく気持ちを誤魔化すように足を進め続け、ようやくウェンディの部屋へとたどり着いた。
すぐに扉をノックしようと腕を上げたが、その直前ハッとして動きを止めた。
「……っ」
瞳を揺らして、腕を下げる。
そのまま扉の前でウロウロと動き回った。何度かノックしようとして、止めるといった動作を繰り返す。レベッカはそんな自分が情けなくて、ため息をついた。
「……何やってるんだろう」
ポツリと小さく呟く。そして、手を強く握りながら静かにウェンディの部屋の扉を見つめる。
しばらく見つめていたが、ようやくその場から立ち去ろうと足を動かしたその時だった。
ガチャリと音がして扉が開いた。
「あ」
レベッカは思わず声を出す。
「え?」
扉の向こうから現れたのはもちろんウェンディだった。
レベッカの姿を見て驚いたように目を見開く。
「ベッカ、どうしたの?」
「あ……」
ウェンディに問いかけられて、レベッカは目を泳がせる。そのまま泣きそうな表情をして、うつむいた。
「……ベッカ?」
ウェンディに呼びかけられて、レベッカはモジモジする。そのまま小さな声を出した。
「……あの……あの」
ウェンディはその場でしゃがみこむと、レベッカの顔を覗き込むようにしながら声をかけてきた。
「ベッカ、なあに?」
その優しい声に、レベッカは一瞬だけ唇を噛む。そして、再び絞り出すように声を出した。
「……あの、今夜は……その……」
どう言えばいいのか分からず、言葉が続かない。唇を開いては閉じる動作を何度も繰り返すレベッカをウェンディはしばらく見つめる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「一緒に寝たい?」
ウェンディがそう言った途端、レベッカは顔を真っ赤にした。その顔を見たウェンディが顔を綻ばせた。
「……っ、いえ、あの!ちがいますっ!!」
レベッカは慌てて顔を隠すようにしながら声をあげる。
「すみません、私……っ、戻ります!!」
そのままその場から走り去ろうとしたレベッカの腕をウェンディが掴んで止めた。
「他の人には内緒にしておくわ。だから大丈夫よ」
「お、お嬢様……いえ、あの……でも……」
「私もベッカと寝たいの。ね?」
耳元で囁かれたレベッカは、ウェンディの顔を見つめる。そして真っ赤な顔のまま、「あ~っ」だの「う~っ」だのしばらく唸っていたが、再びウェンディをチラリと見上げる。ウェンディはニッコリと笑い返した。その笑顔を見て、レベッカはようやくコクリと小さく頷いた。
ウェンディが微笑みながら、優しくレベッカの手を取る。
「さあ、来て」
その微笑みに誘われるように、レベッカは部屋へと足を踏み入れた。
「あの……っ、ほんのちょっとだけですから!!すぐに戻りますから!!」
「はいはい」
ベッドに上がりつつレベッカがそう言うと、ウェンディがクスクスと笑った。その笑顔を見て顔を真っ赤にさせたレベッカは頬を膨らませながら視線をそらす。
ーーやっぱり来るべきじゃなかった。
今更、そんな事を思ってしまう。
でも、どうしても耐えきれなかった。ウェンディと離ればなれになってしまう現実に。
せめて、どうしても最後の夜をウェンディと一緒に過ごしたかった。
ーー馬鹿だ。私は。メイド失格だ。
ーー主人のベッドに、自分から入ってしまうなんて。
自分の行動が情けなくてレベッカは頭を抱える。そんなレベッカをウェンディは嬉しそうに見つめると、不意に手を伸ばしてきた。そのまま身体をまさぐるように、くすぐってくる。
「へっ、あっ、ちょっ、お嬢様!やめて、くださっ、ひあああっ」
「ふふ、ベッカ、可愛い」
「ふあっ、あっ、本当にやめっ……」
もがいた拍子に、レベッカはそのままベッドに倒れこむ。ウェンディもクスクスと笑いながら、手を止めた。そして、レベッカの耳元に唇を近づけ、囁くように声を出した。
「懐かしいわね……昔、私がベッカをからかうとこうやってくすぐられていたわ……」
そう言いながら、ウェンディは荒い息遣いをしているレベッカのすぐそばに横たわった。
「あ、あの、お嬢様――」
レベッカが呼び掛けながら起き上がろうとすると、ウェンディの手がそれを止めた。
「えっ、わっ――」
そのままウェンディはレベッカに抱きついてきた。
「お嬢様、何を――」
慌てるレベッカに構わず、ウェンディはレベッカの胸の当たりに顔を埋め、何度も大きく息を吸い込む。
「――ベッカの大きい胸もよかったけど、これはこれで……悪くないわね」
ウェンディのそんな呟きが聞こえて、レベッカは顔を引きつらせた。モゾモゾと動きながら、ウェンディに声をかける。
「あの、お嬢様……離していただけませんか?流石にこの体勢は――」
レベッカの言葉に、ウェンディは上目遣いで答えた。
「ねえ、ベッカ。お歌を歌って」
「はい?」
「ベッカのお歌が聞きたいの。お願い」
レベッカはそのおねだりに複雑そうな顔をして答えた。
「あの、お嬢様……十分ご存知だと思うんですけど……私、音痴で……」
「いいの。それでいいの。ベッカの音痴なお歌が好きなの」
ウェンディはレベッカの手を取ると、その手に軽く唇を押し付けた。その柔らかな感触にレベッカの心臓は大きな音をたてる。
ウェンディは再びレベッカの目を真っ直ぐに見つめながら、声を出した。
「ねえ、ベッカ。お願い。ちょっとだけ」
そんなウェンディの顔を見て、レベッカは思わず目を閉じて顔を上に向ける。
このウェンディの顔はマズい。昔から、レベッカはウェンディのこの顔に弱いのだ。何でも言うことを聞きたくなってしまう。多分、ウェンディも分かっててやってる。それでも、咎められない。
「――本当にちょっとだけですよ」
レベッカがそう言うと、ウェンディは顔を輝かせ頷いた。
「ありがとう、ベッカ」
レベッカは苦笑して、ウェンディの手をそっと握る。そのまま子守唄を歌い始めた。
レベッカの下手な歌が部屋に響き渡る。ウェンディが幸せそうな顔でゆっくりと目を閉じた。
しばらくすると、ウェンディがウトウトしていくのを感じた。もう少しで眠りに落ちていくだろう。レベッカは一旦口を閉じ、小さく呼び掛けた。
「――お嬢様、眠っていいですよ」
「んー」
「おやすみなさい」
ウェンディがほんの少しだけ笑う。そんなウェンディを見つめながら、レベッカも微笑んだ。眠りゆくウェンディを静かに見つめる。
――本当に綺麗。
――女神みたいに、美しい……
そんな事を思いながら、見つめ続けていると、やがてレベッカの意識もまたぼんやりとしてきた。疲れのせいか、頭が働かない。ダメだ、と一瞬思ったが身体が動かない。思考はすぐに沈んでいき、そして滑らかに深い眠りへと落ちていった。
『ベッカ』
声が聞こえる。
なんだろう、この声は。
優しくて、熱い。
瞳を開けると、何かが見えた。
宝石のような輝き。
この世で一番美しい緑の輝き。
『ベッカ』
突然、唇に何かが押し当てられるのを感じた。
信じられないくらい、柔らかな感触。
「……う?」
何が起きているのか分からず、思わず声を出す。
不思議な感覚だった。
ゾクゾクして、身体が空中に浮いてしまいそう。
だけど、どこか懐かしい。
そのままその柔らかい何かは唇を抉じ開け、舌に絡み付いてきた。
ああ、どうしてだろう。
本当に幸せ--
「あ、起きた?」
目を開けると、朝だった。柔らかな光が目に入ってくる。隣を見ると、ウェンディが身体を起こしてレベッカを見つめていた。
「おはよう、ベッカ」
ウェンディがフワリと微笑みながらレベッカの頭を撫でる。
「お、はよう、ございます……」
レベッカはぼんやりとしながらそう答えた。
ーーあれ?なんだっけ?何か、すごく幸せな夢を見た気がする……
確かに夢を見たはずなのに、どうしても夢の内容が思い出せない。
「うーん……」
レベッカは眉をひそめながら、目を閉じる。そんなレベッカにウェンディがクスクスと笑いながら声をかけた。
「ベッカ、まだ眠いの?でも、もうすぐ皆が起きてくる時間よ」
ウェンディの言葉にレベッカはハッとして慌てて身体を起こした。
ーーまずい、今日はお嬢様が学校に出発する大事な日だ。
仕事は山のようにあるのに、ついぼんやりしてしまった。急いで戻らなければ。
「わ、私、部屋に戻りますね!!」
バタバタとしながらレベッカは慌ててベッドから降りる。そして、
「失礼しました!!」
そう大声で言うと、素早く部屋から飛び出した。
部屋に残されたウェンディは、静かにレベッカが出ていった扉を見つめる。
ゆっくりと、自分の唇に手を伸ばした。そのまま指で撫でるように赤い唇に触れる。
そして、目を閉じると、
「んふ」
小さく笑った。
その日の午後。
レベッカは、他の使用人やクリストファー、リゼッテと共にコードウェル家の門の前に立った。
「それでは、そろそろ出発します」
外出用の服に身を包んだジャンヌが声をあげる。その隣に立つウェンディが軽く頷いた。
これからウェンディはジャンヌと共に学校の寮へと出発する。再び波のように押し寄せてくる寂しさを必死に隠しながら、レベッカは他の使用人と共に頭を深く下げた。
「ウェンディ、身体に気をつけて。何かあったらいつでも呼んでくれ」
クリストファーはそう言ったが、いつも通り、ウェンディは視線を合わせなかった。ただ無言で軽く礼をする。
ウェンディはレベッカの前に立つと、その場にしゃがみこんだ。
「行ってくるわね、ベッカ」
「はい……」
「絶対に手紙を書くわ。休暇に入ったらすぐに戻ってくるから」
「お待ちしていますね」
レベッカの言葉に、ウェンディは泣きそうな表情をする。そのまま腕を伸ばすと、包み込むようにレベッカを抱き締めた。レベッカも同じように強く抱き締め返す。
「……大好きよ、ベッカ。もう絶対にどこにも行かないで。ここで、私を待っててね」
その囁きに、レベッカは小さく頷いた。
「はい、お嬢様」
レベッカの答えに、ウェンディはゆっくりと身体を離す。名残惜しそうにしながらも、立ち上がった。
そして、小さく手を振ると、ジャンヌを従え、コードウェル家から足を踏み出した。
しばしのお別れを……。




