嫌ではない
食堂を出たレベッカは、素早くホットミルクの準備して、ウェンディの部屋へと向かった。扉をノックするとすぐに、
「入って」
と返事が聞こえたため、静かに扉を開ける。
「失礼します」
そう言って部屋に入ると、ソファに座って本を読んでいたらしいウェンディが顔を上げた。
「すみません、お嬢様。遅くなって……ミルクですよね?」
「うん。お願い」
ウェンディの言葉に頷いて、レベッカはホットミルクをカップに入れ始めた。
そんなレベッカの姿を見つめながら、ウェンディは本を閉じる。そして声をかけた。
「仕事はどうだった?」
レベッカは微笑みながら答えた。
「……やっぱり前と同じようには働くのは難しいですね。でも、お屋敷の皆さんがとても親切で助けてくださるので……なんとか頑張れそうです」
「何かあったら、すぐに私に言ってね」
「ありがとうございます」
レベッカはお礼を言いながら、蜂蜜を入れたホットミルクをウェンディに差し出した。
「はい、お待たせしました」
「ありがと」
ウェンディが嬉しそうにカップを受け取る。
暖かいミルクを少しずつ飲むウェンディをレベッカはしばらく無言で見つめた。その視線を感じたらしく、ウェンディがレベッカに顔を向けた。
「ベッカ?どうかした?」
レベッカは躊躇いながらも、口を開いた。
「あの……私、お嬢様に聞きたいことがあって……」
「あら、なあに?」
ウェンディが微笑んで首をかしげる。
――婚約のこと、本当なのか確かめないと……
レベッカは、問いかけるために口を開いた。しかし、どう言えばいいのか分からず、すぐに口を閉ざす。尻込みをするようにモジモジとするレベッカを不思議そうに見つめながら、再びウェンディが声をかけてきた。
「ベッカ、どうしたの?何が聞きたいの?」
レベッカは視線を泳がせながら、やがて決心したように口を開いた。
「あの……お嬢様が――」
その時だった。コンコン、というノックの音が聞こえた。レベッカはそれに驚き、口を閉じる。
ウェンディが顔をしかめ、扉の方へと声をかけた。
「何?」
すぐに扉の外から声が聞こえた。
「――お嬢様、私です」
レベッカは驚いて目を見開く。それは、執事のリードの声だった。ウェンディが大きく息を吐いて、再び扉の方へと声をかけた。
「今、忙しいの。後にして」
すぐに冷静な声が返ってきた。
「申し訳ありません、お嬢様。しかし、かなり急ぎの用件がありまして……」
それを聞いたレベッカはウェンディに向かって口を開いた。
「あの、お嬢様、私の事はいいので、リードさんの方を優先してください。困ってるみたいですし」
「でも……」
「私の方は、また今度でもいいので」
レベッカが笑うと、ウェンディは迷ったようにしながらも、
「――ごめんね」
そう言って、扉の方へと近づいていった。
ウェンディが扉を開けると、黒い執事服を身につけたリードが立っているのが見えた。リードはすぐにウェンディに何かを言いかけるが、部屋の中にいるレベッカに視線を止め、ハッと口を閉ざす。
「何?」
ウェンディが不機嫌そうにリードへと話しかけた。リードが言いにくそうにしながら、それに答える。
「夜遅くに申し訳ありません、お嬢様。少しお話がありまして――」
リードが話しにくそうな顔でチラリとレベッカの方へ視線を向ける。その様子を見て、レベッカは慌てて立ち上がった。
「お嬢様、私、今日はもう戻りますね」
ウェンディは迷うようにレベッカとリードを交互に見る。そして、ため息をつくと、不満そうにしながらも頷いた。
「ごめんね、ベッカ」
「いえ。それでは、失礼します」
ウェンディに向かって軽く頭を下げる。そのままリードにも目礼し、レベッカは部屋から出ていった。入れ替わるようにリードが部屋に入り、扉が閉められる。
暗い廊下に出たレベッカはその場に佇み、固く閉ざされた扉を無言で見つめた。そして、首をかしげる。
――リードさんはここに何をしに来たんだろう……?
考えてみれば、リードはクリストファー専属の執事だ。何の用事でウェンディの元へと来たのだろうか。
レベッカは少し躊躇ったが、扉にそっと耳を押し当てた。ウェンディとリードの小さな声が聞こえる。
『お嬢様、こちらを…………お願いしたいそうで…………』
『なんで今更……それは…………無理だって…………』
『申し訳ありません、お嬢様。ですが……』
『嫌よ。しばらくは……私は…………なぜ…………あちらに伝わってないの?』
『……ですが、先方が…………どうしてもと…………そう仰って……』
『どうしてもっと早く言わないの…………それなら……次はもう…………』
『それは承知して……ですが…………多くの…………待っているようで…………こちらからも…………期限の方は…………』
ボソボソとした声が、途切れ途切れに聞こえる。声が小さすぎて全て聞き取るのは難しいようだ。レベッカは諦めたようにゆっくりと扉から離れる。そして、静かに自分の部屋へと戻っていった。
翌日、朝の台所仕事を終わらせたレベッカは、掃除をするためにジャンヌと共にウェンディの部屋へと向かった。
いつものように扉をノックをすると、すぐさま返事が返ってきた。
「……入って」
「失礼します」
レベッカは部屋の扉を開ける。そして目を見開いた。
ウェンディはソファに座っていた。その顔色は青白く、目の下にはクマが出来ている。かなりやつれている様子だった。それでもレベッカと目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「ベッカ、おはよう」
「お、おはようございます。お嬢様……お体の調子が悪いんですか?」
「……ううん。ちょっと……眠れなかったの」
それを聞いたジャンヌが、ウェンディに冷静な声をかけた。
「では、少しお休みになりますか?掃除は後からいたしますので……」
「……」
ジャンヌの言葉に、ウェンディは無言で目を閉じて頭を抑える。やがて小さく頷いた。
「……そうね。そうする……」
「それでは、何かありましたらお呼びください」
ジャンヌが深く頭を下げる。レベッカも慌てて頭を下げ、2人揃って部屋から出た。
廊下に出た後、レベッカは心配になって扉を見つめながら口を開く。
「お嬢様、大丈夫、なのかな……?」
その言葉にジャンヌがサラリと答えた。
「心配いりませんよ」
レベッカが訝しげにジャンヌへ視線を向けると、ジャンヌは肩をすくめた。
「――お嬢様、時々眠れなくなるみたいで、あのように体調が優れない日があるんです。その時は、できるだけ邪魔しないように放っといてほしい、と言われているので……」
それでもレベッカが不安そうに扉をチラリと見ると、ジャンヌは苦笑して言葉を重ねた。
「用事がある時は呼び鈴がなりますよ。ですから、大丈夫だと思います。今日は他の仕事に回りましょう」
ジャンヌの言葉にレベッカは小さく頷いた。
ウェンディの部屋を出たレベッカは、ジャンヌや他のメイドと共に、皿洗いや料理人の補助などキッチンでの仕事をすることになった。水仕事を終わらせた後、野菜の下準備をしているジャンヌに声をかける。
「ジャンヌ、手伝うよ」
しかし、ジャンヌは首を横に振った。
「ここはもう少しで終わりそうなので……」
その時、料理人が声をかけてきた。
「だったら、レベッカ、すまないが、倉庫に行って、台所用の新しい布巾を持ってきてくれないか?」
「あ、はい!」
レベッカは大きく返事をする。すぐさま台所を出ようとした時、ジャンヌが慌てた様子で野菜の皮を剥く手を止め、声をかけてきた。
「レベッカさん、私も行きます!」
「え?いや、いいわよ。倉庫に行くだけだから。ジャンヌはそっちに集中して」
そう断り、足早に倉庫へと向かった。
暗い倉庫に足を踏み入れる。
「えーと、どこかな……」
布巾を探して、当たりを見渡す。やがて、それらしい物が入っている箱を発見したが、
「あー……」
棚の高い位置にあったため、レベッカはガックリと肩を落とした。どう見ても、レベッカの身長では届かない。
「えーと、どうしようかな……」
周囲に踏み台や椅子は見当たらない。他の使用人に頼もうか、いやそれよりも踏み台を探そうかと思案していたその時だった。
誰かが倉庫に入ってくる音が聞こえた。レベッカは思わずギクリとして入り口へと顔を向ける。そして、
「……え?」
思わずキョトンとして声をあげた。倉庫に入ってきたのは、クリストファーの妻、リゼッテだった。リゼッテもレベッカを見て驚いたように目を見開く。
「あら」
リゼッテはすぐにニッコリと微笑んだ。
「こんにちは、レベッカさん」
レベッカは慌てて頭を下げた。
「リ、リゼッテ様、どうしてこちらに?」
リゼッテは少し困ったように言葉を返してきた。
「ええ、ちょっと……探し物を」
リゼッテは軽く首をかしげながら、言葉を重ねた。
「レベッカさんはお仕事ですか?」
「あ、はい。ちょっと、頼まれて、布巾を取りに来て……」
レベッカがモゴモゴとそう言うと、リゼッテはチラリと棚に視線を向ける。
「……もしかして、届かない、とか?」
察しのいいリゼッテに、レベッカは苦笑した。
「実はそうなんです。この身長だと難しくて……踏み台を持ってこようと思っていた所でした」
「私、取りましょうか?」
「えっ!?いやいや!ダメですよ、そんなの!!」
伯爵夫人にそんなことさせるわけにはいかない。レベッカは慌てて首を横に振る。
リゼッテは少し考えるような顔をする。そして、
「それなら……」
と、言いながら近づいてきた。レベッカが反応する前に、リゼッテはレベッカの腹部の当たりに手を伸ばしてくる。そして、
「へっ?」
そのままヒョイとレベッカを抱き上げた。
「はい、これなら取れるでしょう?」
「えっ?へっ?リ、リゼッテ様!」
突然の出来事にレベッカがアワアワしていると、リゼッテはクスクスと笑いながら声をかけた。
「ほら、レベッカさん。早く取って」
「あ、は、はい!!」
リゼッテに促され、レベッカは動揺しながらも棚に手を伸ばし、箱を手に取った。それを確認したリゼッテは、すぐにレベッカの身体を床に下ろす。
あまりにも突然の出来事に、レベッカは困惑しながらリゼッテと箱を交互に見つめた。小さいとはいえ、レベッカはそれなりに体重がある。リースエラゴはともかく、リゼッテのような優美な貴婦人に抱き上げられるとは思いもしなかった。意外と力持ちなんだ、とレベッカが思っていたその時、リゼッテがソワソワしながら口を開いた。
「あ、あの……」
「はい?」
「わ、私……レベッカさんにお話があって……」
「え?お話、ですか?」
レベッカが戸惑いながら聞き返すと、リゼッテは小さく頷いた。
「もしよければなんですが、……お茶を飲みながらゆっくりお話できませんか?レベッカさんのご都合のいい時間に合わせますので……」
恐縮した様子のリゼッテに、レベッカは不思議に思いながらも、
「え、えっと……分かりました」
そう答える。リゼッテは安心したように微笑んだ。
「よかった。では日程の方は……」
その時、倉庫の入り口で声が聞こえた。
「奥様!こちらですか?」
レベッカとリゼッテが顔を向けると、バタバタとメイドが入ってきた。リゼッテが笑いながら、口を開く。
「ごめんなさい。道具を探してて……」
メイドは慌てた様子で言葉を返してきた。
「それなら私が探しますから!旦那様がお呼びですよ」
「あら。それじゃあ、行かなくちゃね」
リゼッテは苦笑すると、レベッカに向かって申し訳なさそうに声を出した。
「ごめんなさい。後からまた声をかけますね」
「あ……、はい!」
レベッカが頷くと、リゼッテはメイドと共に倉庫から出ていった。
布巾の入った箱を手に、レベッカは台所へと戻った。料理人に頼まれて、皿を拭きながら物思いに耽る。
「……リゼッテ様からの話ってなんだろう?」
考えてみるが、思い当たることはない。リゼッテときちんと話すのは初めてだ。なんだか緊張しそうだな、と思ったその時、キッチンにキャリーが入ってきて、声をかけてきた。
「レベッカ、そっち終わった?」
レベッカは綺麗になった皿を置いて、頷いた。
「はい……後は何かありますか?」
「それじゃあ、一緒に廊下の掃除をしましょ。人が足りないの」
「はい!」
レベッカは大きく返事をする。そのままキャリーと共に掃除をするために、キッチンから出ていった。歩きながら、キャリーに声をかける。
「忙しいですね……」
「昔よりはマシでしょ」
昔の、常に人手不足だった頃の事を思い出し、レベッカは苦笑した。
その後は、キャリーや他のメイドと協力しつつ、忙しく働き回った。
その日の夜遅くに、仕事が終了したレベッカは私室に戻った。着がえようとしたその時、呼び鈴が鳴り響き、レベッカは苦笑した。
いつも通り、ミルクの準備をしてから、ウェンディの部屋へと向かう。
扉をノックすると、すぐに、
「はい」
と返事が聞こえた。
「失礼します」
レベッカが扉を開くと、ウェンディは相変わらずソファに座っていた。朝よりは顔色がいいようだが、どこか疲れた表情をしている。レベッカは部屋に足を踏み入れながら、口を開いた。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
「……うん」
ウェンディは頭を抑えながら、頷いた。
「すぐにミルクを準備しますね」
レベッカがそう言うと、ウェンディは首を横に振った。
「……いや、ミルクはいらない」
「えっ、よろしいんですか?」
「うん。今日はやめておく」
ウェンディはそう答えながら、手招きをした。
「ベッカ……ちょっとこっちに来て」
「……?はい」
首をかしげながらも、言われた通りにウェンディに近づく。
「それ、ここに置いて」
「あ、はい」
そう言われて、レベッカは慌ててミルクの瓶やカップをテーブルに置いた。すぐにウェンディの手が、レベッカに触れてきた。
「ベッカ、……ここ、座って」
ウェンディが誘導するようにレベッカの手を引っ張る。レベッカは躊躇いながらも、ソファに腰を下ろした。
「あの、お嬢様――」
声をかけようとしたその時、ウェンディが身体を動かした。そのまま後ろからレベッカを抱き締める。
「わっ、お嬢様?」
「ごめん。ちょっと、しばらくこのままで……」
ウェンディが瞳を閉じて、レベッカの肩に顔を埋めるように押し付ける。そのまま勢いよく息を吸い込んだ。
「わっ」
レベッカは思わず小さな声をあげる。そんなレベッカに構わず、ウェンディは肩に顔を埋めたまま、何度も大きな深呼吸を繰り返す。レベッカはどうすれば分からず、ウェンディの腕の中で固まっていた。
ウェンディはそのまましばらく無言でレベッカを抱き締め続けた。しばらく経って、ようやくウェンディが囁くような声を出した。
「――はああぁ……、やっぱり癒される……」
その言葉を聞いたレベッカは、そっと手を動かし、ウェンディの腕を撫でた。
「お嬢様……お疲れですか?」
「うーん……ちょっとだけ、ね……でもベッカをギューってしたら元気がでたわ」
ウェンディがモゾモゾと動く。レベッカがウェンディの顔を見るために顔を動かしたその時だった。
こめかみの当たりに何か柔らかい物が触れてきた。
「……え」
レベッカは何が起こったのか分からず、目を瞬かせる。
一瞬の後、ウェンディがこめかみにキスをしてきた事を認識した。レベッカは顔を真っ赤に染めて、ポカンと口を開く。
そんなレベッカを見て、ウェンディがクスクスと笑う。
「可愛いね、ベッカ」
レベッカはようやく我に返り、慌ててソファから飛び降りた。
「な、何をするんですか!?」
「あら、ダメだった?」
「だ、だめというか……」
「いいじゃない。これくらい」
「これくらいって……」
レベッカが愕然として、こめかみを手で抑えていると、ウェンディは小さく息を吐く。そして、不安そうな表情で問いかけてきた。
「……ごめん、嫌だった?」
「えっ」
問いかけられたレベッカは一瞬言葉に詰まる。そして、モゴモゴと声を出した。
「嫌では……」
嫌ではない。突然のキスに驚いただけだ。不快感も、嫌悪感もない。というか、昔はよくこうやって幼いウェンディから、頬や額にキスをされていた。だから、初めて、というわけではない。
だが、久しぶりにキスをされて、心臓が飛び上がるような感覚になった。動揺しながらも、レベッカは言葉を重ねる。
「嫌では、ないです。驚いただけで……」
レベッカの言葉に、ウェンディは安心したように笑った。
「……ごめんね。夜遅くに呼び出して」
「あっ、いえ。――本当にミルクはよろしいんですか?」
「うん。ありがとう。そろそろ休むわ」
ウェンディが立ち上がる。そのままからかうように声をかけてきた。
「一緒に寝る?」
「いえ、それは――いけません」
「残念ね」
ウェンディは本当に残念そうな顔をした。レベッカは困ったような顔をしながら、ウェンディに軽く頭を下げた。
「それでは、私はこれで失礼します。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
挨拶を交わして、ウェンディの部屋から出ていった。
部屋を出たレベッカはら足早に私室へと戻った。部屋にたどり着くと、すぐさま中に入り、扉を閉める。扉が閉ざされるのと同時に、レベッカはその場に座り込んだ。片手でウェンディにキスされたこめかみを抑える。そして、もう片方の手を自分の胸に当てた。
『ベッカ』
ウェンディの声が、脳内に響く。また顔が熱くなるのを感じた。
『ベッカ』
『可愛いね、ベッカ』
心臓が震えるような感覚に襲われる。息が苦しくて、震えそうだ。
――嫌ではない。
――嫌じゃなくて。
――全然、嫌じゃなくて、むしろ……
レベッカはヨロヨロと立ち上がると、ゆっくりと自分のベッドへと近づく。そして、倒れるようにベッドへと飛びこんだ。
そのまま仰向けになると、ゆっくりと瞳を閉じて、思いを巡らせる。
――むしろ……
――もっと、してほしかった。




