別れ
――しまった。自分の身体の事を忘れてた。
深夜のキッチンにて、レベッカは戸棚の中にあるカップを睨むように見つめる。
ミルクと蜂蜜は用意できた。だが、カップは戸棚の高い位置にあるため、レベッカは取り出すことが出来ない。大人の身体なら普通に届く位置ではあるが、今の身長では届かないのだ。
改めて自分の身体の変化を苦々しく思いながら、レベッカは周囲を見渡し、大きめの椅子を発見した。そちらへ駆け寄ると、その椅子を手に持つ。
「うぅ……っ」
重さに呻きながら、必死に椅子を戸棚の前まで運んだ。椅子の上によじ登り、戸棚に手を伸ばす。そうやってようやくカップを1つ取り出すことができた。
ミルクと蜂蜜、そしてカップなどの道具を手にキッチンを出ると、廊下の隅っこでウェンディが待っていた。
「お嬢様、お部屋で待っててもよかったんですよ」
「……ベッカと一緒にいたいから」
ウェンディがそう言いながら、レベッカの手を取る。
「私の部屋に行きましょう」
「あ、はい」
そして2人は手を繋いだまま、暗い廊下を歩き始めた。
ウェンディの部屋にて、レベッカはミルクを暖める。カップにミルクを注ぐと、スプーンで蜂蜜をすくい、ミルクに垂らした。黄金色の蜂蜜がとろりと純白のミルクに溶けていく。
レベッカがホットミルクを作る姿を、ウェンディはすぐ近くのソファの上でじっと見つめていた。あまりにも熱心に見つめられて、レベッカは居心地の悪さにモジモジとしながら完成したミルクを手渡した。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
ウェンディがカップを受け取り、すぐにミルクに口をつける。次の瞬間、ウェンディの顔が輝いた。パッと顔を上げて、レベッカの方へと向けてくる。
「……これだわ」
その言葉に、レベッカはキョトンと首をかしげた。
「……?はい?」
ウェンディは目を細めて、再びミルクに口をつける。コクリと飲み込み、再びレベッカに声をかけた。
「これ、これだったわ。……ホットミルクってこんな味だったわ!ベッカのミルク!」
「……え?」
「よかった……、味を忘れかけていたの。もう一度飲むことができて、本当に嬉しい……」
ウェンディは心から幸せそうにそう言って、ミルクを飲み続ける。その様子に、胸がチクリと痛むのを感じながら、レベッカは口を開いた。
「……これからは、いつでもお作りします」
ウェンディがレベッカと視線を合わせ、小さく頷いた。そのままミルクを見つめ、小さく呟く。
「……不思議」
「はい?」
「……ベッカがいない間、他の使用人にホットミルクを作ってもらったのだけど……全然味がしなかったの。自分でも作ってみたんだけど……やっぱり味がしなくて」
ウェンディはミルクを少しずつ飲み、レベッカに向かって再びニッコリと微笑んだ。
「やっぱりあなたが作ってくれたミルクが一番好き」
「……ありがとう、ございます」
レベッカは囁くようにお礼を言った。
ウェンディがホットミルクを少しずつ飲む姿を見ながら、レベッカはふとある事を思い出して口を開いた。
「そういえば、お嬢様……」
「うん?」
「学校の方は……?入学したんですよね?」
考えてみれば、ウェンディは魔法学園に入学したはずだ。この屋敷から魔法学園へと通うには距離が離れすぎている。だから、学生時代のクリストファーのように、寮に入らなければならないはずだ。なのに、どうしてこの屋敷にいるのだろう、とレベッカは今更ながら疑問に思って尋ねると、ウェンディが顔をしかめた。
「今は長期休暇中。あと一週間で寮に戻らなくちゃならないわ」
「あ……そうですか……」
ウェンディがこの屋敷にいる時に戻って来ることが出来て運とタイミングがよかったんだな、とレベッカが思っているうちに、ウェンディはミルクを飲み干した。
「ありがとう。ベッカ」
「はい」
空っぽになったカップを受け取りながら、レベッカは言葉を続けた。
「あの、お嬢様。ずっとお聞きしたかったんですけど……」
「何?」
「……クリストファー様と何かあったんですか?」
そう尋ねた瞬間、ウェンディが奇妙な表情をした。悲しそうな、怒っているような、複雑な感情を宿した顔だ。
「……?お嬢様……?」
レベッカが呼び掛けた時、ウェンディはスッと視線を逸らした。
「別に。何もないわ」
ポツリと答える。そして、そのまま口を閉じた。
「……」
絶対に話さない、とでも言うように唇を固く結んでいる。
レベッカは戸惑いながらも、ウェンディの頑なな様子からそれ以上問いかけるのを諦めた。
「……もう遅い時間なので、そろそろ寝ましょうか」
「うん」
ウェンディが素直にうなずく。そのすぐ後、固い表情を崩し、楽しそうに笑いながらレベッカの顔を覗き込んできた。
「ベッカ、一緒に寝ましょう」
その提案に、懐かしさを感じながらレベッカは苦笑した。
「……お断りします」
「えー」
ウェンディが不満そうな声を出し、レベッカはそれを宥めるように言葉を続けた。
「私は自分の部屋で休みますので」
「ちょっとくらい、いいじゃない」
「お嬢様、もうお嬢様も大きくなったんですから……」
「ベッカは小さくなったわ」
「……とにかく、早くおやすみになってください。本当に、もう遅いんですから。私はカップを片付けてきます」
ウェンディが拗ねたように唇を尖らせる。そんなウェンディの手をレベッカはギュッと握った。
「また明日、たくさんお話をしましょう」
「……うん」
ウェンディは渋々頷き、そのままベッドに入った。
「それじゃあ、おやすみなさい、お嬢様」
「……ベッカ」
「はい?」
ベッドから顔を出したウェンディが不安そうな表情で話しかけてきた。
「もう絶対に、いなくならないでね」
「……ええ、もちろん」
「ずっと、ずっと、……わたくしのそばにいなくてはダメよ」
そう言ったウェンディは、まるで幼い少女に戻ったようだった。レベッカは微笑みながら、囁いた。
「……ええ、お嬢様。今度こそ、お側にいます。ここが、私の居場所ですから……ずっと、ずーっと一緒ですよ」
その言葉に安心したようにウェンディは微笑み返した。
「……本当に、ね?絶対よ?」
「はい」
「……今度、わたくしから離れようとしたら、その時は……」
「その時は?」
突然ウェンディの目付きが変わった。鋭い眼光で、レベッカの耳元に唇を寄せて囁く。
「――その時は、あなたを食べちゃおうかしら」
その言葉に、ビクッとレベッカは肩を震わせる。そんなレベッカを見て、ウェンディは身体を離した。クスクスと笑いながら、
「冗談よ」
と呟く。その視線は、元の穏やかで優しい眼差しに戻っていた。
「……そ、そう、ですか」
「おやすみなさい、ベッカ」
レベッカは慌てて頭をペコリと下げた。
「おやすみなさい、お嬢様」
そして、足早にウェンディの部屋から出ていった。
「……びっくりした」
カップやミルクの瓶を手に持ち、暗い廊下を歩くレベッカはボソッと呟いた。先程のウェンディの様子を思い出しながら、小さく息を吐き出す。
レベッカに話しかけるウェンディは、まるで幼い少女のようで微笑ましさを感じていた。なのに、最後の最後、一気に鋭い視線へと変化して、その大人っぽい表情に圧倒させられた。
――そういえば、小さい時もあんな獣みたいな顔をすること、あったなぁ。
成長したとはいえそこはあまり変わってないんだな、と心の中で呟く。そのまま後片付けのために再びキッチンへと足を踏み入れた。
「――遅かったな」
「ひっ」
突然、暗闇の中で声をかけられて小さな悲鳴をあげる。後ろを振り向くと、そこにはリースエラゴが立っていた。
「リ、リーシー!?驚かさないでくださいよ……」
「すまん」
リースエラゴが肩をすくめる。そんな彼女をチラリと見てから、レベッカはカップやミルクをテーブルに置いた。
「どうしたんですか?こんな夜遅くに……」
「お前の部屋に行ったらいなかったから、探していた」
「何か用事がありましたか?」
手早く後片付けを進めるレベッカを見つめながら、リースエラゴは少し迷ったような表情をした後、口を開いた。
「――明日、ここを出ていく」
「……っ」
レベッカはリースエラゴの言葉に一瞬だけ手を止める。そして、静かにリースエラゴに向き直った。
「……どこに、行くんですか?」
リースエラゴが薄く微笑んだ。
「さあな……元の場所に戻ってもいいし、ニナの山に行ってもいいし……このままのんびりと旅を続けるのもいいかもしれないな……」
「……そうですか」
レベッカは小さく声を漏らしながらうつむく。そんなレベッカの頭にリースエラゴは手を伸ばし、優しく撫でた。
「そんな暗い顔をするな。別に一生会えない、というわけじゃないんだから」
「……」
それでも顔を上げることなく、落ち込んだ様子のレベッカに、リースエラゴは苦笑しながら言葉を続けた。
「そんなに私と別れるのが寂しいのか?」
「……当たり前でしょう」
レベッカは顔を上げる。真っ直ぐにリースエラゴの海のような瞳を見据えた。
「あなたは私を助けてくれて……ずっと支えてくれた。私の理解者で……大事な友達なんですから。だから……寂しいです。とても」
その言葉に、リースエラゴは面食らったような顔をした。すぐに呆けたような顔をした後、照れ臭そうにポリポリと自分の頬を掻く。
「あー……そう、か……」
レベッカはリースエラゴの服をギュッと握った。
「……本当に、行くんですか?」
「ああ」
リースエラゴがはっきりとそう言って頷いたため、レベッカは泣きそうな顔をしながら再びうつむき、ようやく手を離した。
そんなレベッカを見つめながら、リースエラゴはその場にしゃがみこむ。
「レベッカ」
「……はい?」
「顔を上げて」
そう言われて、レベッカはゆっくりと顔を上げた。リースエラゴは不思議な表情でレベッカを見返す。
そのままお互いに無言で、レベッカとリースエラゴは真っ直ぐに見つめあった。
「……リーシー?」
レベッカが呼び掛けると、リースエラゴはハッとして、その後に小さく笑った。そして、再び口を開く。
「お前に渡したい物がある」
「……?渡したい物?」
リースエラゴはゴソゴソとポケットを探り、何かを取り出した。
「ほら、これをやろう」
「……?」
リースエラゴが取り出したのは、小さくて丸い藍色の物体だった。
「……なにこれ?鏡?」
それは、二つ折りにできる携帯用の鏡だった。表面には不思議な模様が描かれている。
「ようやく魔力が戻りつつあるんだ。この鏡に、私の魔力を込めた。これに呼び掛けたら、私と直接連絡を取り合える。いつでも、どんな時でも」
「えっ……本当に?」
レベッカの言葉に、リースエラゴはニヤリと笑って頷いた。そして、今度はどこからか小さな手鏡を取り出した。それは、数日前に異次元の空間で初めてレベッカの姿を映し出した鏡だった。
「この鏡と繋げたんだ。だから、何か用事がある時はいつでも呼び掛ければいい」
「用事が、ある時……」
レベッカが小さく呟くと、リースエラゴは再びレベッカの頭を優しく撫でた。
「別に用事がなくてもいいんだ。私と話したい時、会いたい時に呼び掛けてくれ」
「……いいの?」
「ああ。いつも、どんな時でも」
リースエラゴが大きく頷き、レベッカの顔が少しだけ明るくなる。そのまま藍色の手鏡を抱き締めるようにして、リースエラゴに向かって微笑んだ。
「ありがとう、リーシー」
「ああ」
リースエラゴも微笑み返した。
翌日、リースエラゴは朝食を食べた後、すぐに屋敷から出発することをクリストファーに申し出た。
「もう少し、ゆっくりしていっても……」
クリストファーがそう言ったが、それを遮るようにリースエラゴは首を横に振った。
「いや、ここにはレベッカを送るために来ただけだ。そろそろ、お暇させていただく」
そう言って挨拶もそこそこに立ち上がった。
「それじゃあ、失礼する」
「そうですか……」
クリストファーはそれ以上引き留めなかった。レベッカは淡々とした様子で言葉を交わす2人を、近くから無言で見つめていた。
数分後、コードウェルの屋敷の門の前にて。
「リーシー、お世話になりました」
「ああ」
レベッカとリースエラゴは最後の言葉を交わしていた。少し離れた場所では、クリストファーとリゼッテ、そしてウェンディが2人を見守るように立っていた。
「……本当に、ありがとう。リーシー」
「ああ」
「あっ……旅の途中で使ったお金は、お給料が貯まったら、必ずお返ししますから」
「気にするなと言っただろう、そんなこと……」
リースエラゴが苦笑する。そんな彼女を見つめて、レベッカは服の裾を引っ張った。
「ねぇ、しゃがんで」
「ん?」
リースエラゴが不思議そうな顔をしながら、その場に腰を下ろす。そんな彼女に、レベッカは抱きついた。
「……むっ」
離れた場所で黙って立っていたウェンディが小さく声を出す。それに気づかないまま、レベッカはリースエラゴの耳元で声を出した。
「忘れないでね。あなたのこと、心から大好き。あなたは私の大切な友達だからね、リースエラゴ」
「……ああ。私も同じだ、レベッカ」
リースエラゴもまたレベッカの小さな身体を抱き締める。そのままレベッカ以外誰にも聞こえないように小さな声を出した。
「――私が以前、話したことを、覚えているな?……忘れるな、レベッカ。自分の身体のことを」
その言葉にレベッカは唇を強く結ぶ。
ゆっくりとリースエラゴから身体を離し、静かに頷いた。
リースエラゴはしばらく無言でレベッカを見つめる。
そして、
「さようなら、小さな友人よ」
そう言って、ゆっくりと立ち上がると、足を踏み出す。
そのまま、風のように去っていった。
※ちょっと解説
リースエラゴとレベッカは、お互いにとって鏡のような存在です。2人には共通点がたくさんあります。家族に恵まれなかったこと、生まれつき魔力が強いこと、名前を変えたこと、などなど……。容姿も性格も全然違いますが、その内面はとても似ています。リースエラゴはそれに気づいていますし、レベッカも本能的にそれを悟っています。だからこそ、なんとなく心を許し合い、気が合う友人となりました。
リースエラゴと別れ、いよいよレベッカとウェンディの最後の物語がスタートとなります。ちなみに、リースエラゴはこれで出番が終わりというわけではなく、再登場する予定です。
更新は不定期ですが、今後もよろしくお願いいたします。




