近づく距離
雷の夜から、なんとなくウェンディの態度が変わったような気がした。
「掃除に参りました」
「うん」
レベッカが部屋に掃除に来た時は、やはり隅っこで丸まっているが、もう背中は向けていない。レベッカが掃除をしている姿を静かに見つめてくる。しかし、
「何かお困りのことはございますか?」
そう尋ねても、首を横に振るだけでやはり口数は少なく、ほとんど声を出すことはなかった。
ある日、いつも通り掃除が終わったため、ウェンディに声をかけようと振り返ったところ、
「――あら」
ウェンディは壁にもたれて眠っていた。穏やかな顔をしていて、可愛らしい小さな寝息が聞こえる。
ゆっくりとウェンディに近づき、その無防備であどけない寝顔を見つめた。とても可愛らしくて、自然と顔が綻ぶ。
こうしてみると、本当に美しい少女だ。
「綺麗な髪だなぁ……」
腰に届くほど長い輝くような金髪、雪のように真っ白な肌、長い睫毛と形のいい薔薇色の唇。いつも地味なワンピースドレスを着ているけれど、着飾ればもっと輝くだろう。大人になったら、絶世の美女になるのは間違いなかった。
しかし、その四肢には不気味な赤い痣が刻まれている。これが有る限り、この小さな少女は、周囲から忌み嫌われ、恐れられ、遠巻きにされ続けるのだろう。
「……」
急に、目の前のウェンディがとても可哀想になって、胸が詰まった。ゆっくりと腕を伸ばして、その頭を撫でる。
「う、……うぅん」
ウェンディが少し顔を緩めて、ゆっくりと目を開いた。ぼんやりとこちらを見上げてくる。
「あ、起きましたか?」
レベッカが声をかけると、その声で完全に目を覚ましたらしいウェンディが飛び上がった。
「な、なっ……っ」
慌てたように、座ったまま後ろに下がる。
「あなた、わたくしにさわったの!?」
「あ、気を悪くされたのなら、申し訳ありません」
その様子に驚いて、慌てて謝り頭を下げた。いいわけをするように口を開く。
「なんだか、寝ている姿が可愛かったので、つい――」
「か、かわ……っ」
ウェンディが顔を真っ赤にして震える。そして、
「つ、つぎにきょかなくさわったら、ゆるさないから!」
そう言って、浴室へと走り、乱暴に扉を閉めてしまった。
「……失敗したな」
自分の行動を反省して、浴室の扉に向かって声をかける。
「お嬢様、申し訳ありませんでした。――掃除も終わりましたので、失礼します」
ウェンディからの返事はなかった。どうやら、相当怒っているらしい。レベッカは小さく息を吐いて、肩を落として部屋から出ていった。
もしかしたらクビになるかな、と思ったが、実際はそうならなかった。翌日、ウェンディはレベッカが部屋に入ってくると、少し睨むような瞳で見つめてきたが、何も言わなかった。
「あの、昨日は本当に申し訳ありませんでした」
再びそう謝り、頭を下げる。
「もう二度としませんので」
そう言うと、ウェンディは何かを言いたげな顔をしたが、すぐにプイッと顔を背けた。
「……もう、いいわ」
小さな声が聞こえて、ホッとする。いつものように掃除を開始した。
掃除が終了して部屋を出ていこうとしたその時、珍しくウェンディの方から声をかけられた。
「……ねえ」
「はい?」
声をかけられたことに驚きながらもそちらへ顔を向けると、ウェンディが何かを差し出してきた。小さな桃色の封筒だ。躊躇いながらもそれを受け取る。ウェンディは小さく声を出した。
「これ、だしてきて」
「お手紙、ですか?」
「うん」
ウェンディは軽く頷き、そのまま風呂に入るのか浴室へと入ってしまった。
封筒をまじまじと見つめる。そこには宛先は何も記されていない。どうすればいいのか分からなかったため、取りあえずウェンディの部屋から出て、メイド長の部屋へと向かった。
メイド長に手紙を預かった事を伝えると、すぐに
「ああ、大丈夫よ。私が出しておくから」
と言ったため、ひとまず安心する。しかし、誰宛の手紙なのか気になり、問いかけた。
「あの、どなたへ書かれた手紙なのでしょうか?」
教えてはくれないだろうな、と思ったが、予想に反してメイド長はすぐに答えてくれた。
「クリストファー様よ。伯爵のご子息で、ウェンディ様のご令兄様ね」
「えっ」
伯爵夫妻に息子がいたことを初めて知り、レベッカは思わず声をあげた。
「ご子息がいらっしゃったんですか?」
「あなた知らなかったの?」
メイド長が呆れたような顔をして教えてくれた。
伯爵夫妻の一人息子かつ後継者のクリストファーは、16歳。魔法学園の寄宿舎で生活しているらしい。真面目で勤勉な、心優しい少年だそうだ。
「まあ、学園での生活が忙しいらしくて、ここにはあまり帰ってこれないのだけどね」
たった一人の妹、ウェンディとは仲が良く、手紙を送り合っているそうだ。歳が8つも離れているためか、クリストファーはウェンディの事をとても可愛がっているらしい。
「え?お嬢様って8歳なんですか?」
小柄で痩せているため、てっきり5~6歳かと思っていた。
初めて知った事実に驚いていると、メイド長がますます呆れたような顔をした。
「レベッカ、あなた本当にこの家のこと、何も知らないのね」
「あはは……」
誤魔化すように笑うと、メイド長は大きなため息をついた。そのあと、何かに気づいたような顔をして口を開く。
「そういえば、レベッカ、あなた、最近働き詰めだったわね。明日は休んでいいわ」
「えっ、いいんですか?」
「最近全然休んでないでしょう?新しい人がやっと何人か入ってきたから、1日くらいなら大丈夫」
「でもお嬢様のお世話は……」
「明日1日くらいは私がやるから」
メイド長の言葉に安心して、レベッカは深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
翌日、久しぶりに私服に着がえて街へと足を伸ばした。メイドの仕事を始めてから、かなり金も貯まってきた。経済的にはかなり余裕が出てきたため、久しぶりにのんびりと買い物を楽しんだ。服や装飾品の店をひやかし、本屋に立ち寄り気になっていた本を購入する。そして、満足しながら屋敷へと戻った。
その翌日、制服に袖を通してキッチンへ食事を取りに行く。そして、いつも通り、ウェンディの部屋へと向かい、扉横のテーブルに食事を置いて、ノックした。
「お食事をお持ちしました」
そう声をかけた瞬間、ガタン、と大きな音がした。その音に驚いて目を見開いたその時、ガチャリと音がして、扉が開く。あちらから扉が開いたのは初めてだ。目を丸くしていると、扉の向こうからネグリジェを身につけたボサボサ頭のウェンディが姿を現した。なぜか目が真っ赤になっており、呆然とこちらを見つめている。その姿に戸惑っていると、ウェンディが突然目を潤ませた。ギョッとして、声をかける。
「ど、どうされました?お体の調子が悪いんですか?」
その問いかけに何も答えず、ウェンディは泣きじゃくり始めた。どうすればよいのか分からずレベッカがオロオロしていると、ウェンディがようやく口を開いた。
「――や、やめたのでは、なかったの?」
「はい?」
その言葉に、レベッカはキョトンとした。首をかしげながら、言葉を返す。
「やめた、と言うと……?」
「……き、きのう、ずっと、ここにこなかったじゃない。わ、わたくし、ベッカはもういなくなったのだと、おもって……っ」
その震える声に、レベッカは、ああ、と声を出した。
「昨日1日お休みを頂いたので、……普通に休んでいただけなんです……」
お嬢様には事前に言っておくべきだったな、と考えた時、ウェンディが今度は怒ったような声を出した。
「やすむなら、やすむといってちょうだい……っ」
「申し訳ありません」
反省しながら、深く頭を下げた。
「私の不徳の致すところです。誠に申し訳ありませんでした」
そう言うと、ウェンディがため息をついた。
「ほんとうに、なってないメイドね」
「ごもっともです。本当に、申し訳ありませんでした」
ウェンディはしばらくレベッカを見つめていたが、やがて小さく声を出した。
「――ミルク」
「はい?」
「ばつとして、きょうのよる、よびりんをならすから、ミルクをもってきて」
初めての命令に、驚いて顔を上げた。
「ミルク、ですか?」
「はちみついりの、よ」
その言葉に思わず笑う。どうやら先日の蜂蜜入りホットミルクがお気に召したようだ。
「はい、かしこまりました」
笑顔でそう答えると、ウェンディは怒ったような顔のまま、食事の載ったトレイを手に、再び部屋の奥へと行ってしまった。レベッカは笑いながらその扉を静かに閉じた。
その夜、チリン、と鈴のような音がして、レベッカは立ち上がった。少し冷えるため、ショールを身につける。そして、準備していたミルクと蜂蜜の載ったトレイを手に、私室から出た。
扉をノックして声をかける。
「失礼します。ミルクをお持ちしました」
「うん」
小さな声が聞こえたので、ゆっくりと扉を開ける。思った通り、ウェンディはシーツで身体を覆い隠して、ベッドに座っていた。
レベッカは微笑みながら、ベッドへと向かう。
「お嬢様、ミルクです。ご要望通り、蜂蜜入りですよ」
「ん」
ミルクの入ったカップを差し出すと、ウェンディは小さく頷いてそれを受け取った。温かいミルクを一口飲むと、その強張った表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「それを飲んだら、お休みになってくださいね。もう遅い時間ですよ」
レベッカがそう言うと、ウェンディは少し拗ねたような顔をしたが、何も言わずに頷いた。
ふと、顔を横に向けると、ベッドの横にある小さなテーブルが目に入る。そのテーブルには本が乗っていた。
「――あ」
思わず声を出す。それは、今話題の冒険小説の2巻だった。
「これ、面白いんですか?」
レベッカがそう声をかけると、ウェンディの肩がビクリと震えた。そして、戸惑ったような様子で口を開く。
「――ま、まあ、おもしろい、わ」
「そうなんですか」
そう答え、レベッカは少し笑いながら言葉を続けた。
「私、昨日の休みに本屋に行って、この小説の1巻を購入したんです。まだ初めの部分しか読んでないんですけどね、面白かったら、続きも買おうかなって思ってて……」
レベッカの言葉に、ウェンディがミルクを一口飲み、ゆっくりと声を出した。
「お、おにいさまが」
「はい?」
「おにいさまが、おくってくれたの……とてもおもしろいから、ウェンディならきっと、きにいるよって……」
その言葉に、思わず微笑んだ。
「お優しい方なのですね」
「……うん、やさしい……おにいさまも、それから、」
ウェンディは何か言葉を続けようとして、口ごもってしまった。そして今度は目を泳がせながら、モジモジし始める。どうしたのだろう、とレベッカがその様子を見つめていると、ようやく口を開いた。
「と、とても、おもしろい、から……だから……」
「……?はい?」
「つづきなら、これをよめば、いいわ。わたくしは、もうよみおわったし、……ここに、あるのだから、……か、かうひつようは、ないでしょ」
その言葉に驚いて、思わず大きな声を出す。
「えっ、それは、貸してくれるって事ですか!?」
ウェンディが、レベッカの大きな声に怯えたような顔をした。そして、震えながらまた口を開く。
「……わ、わたくしのほんに、さわりたくないのなら、べ、べつに……」
「いえ」
はっきりとそう言って顔を横に振る。そして、笑いながら、口を開いた。
「もしよろしければ、ぜひ、貸してください」
ウェンディがほんの少し口を綻ばせた。そして、レベッカから目をそらすようにして声を出す。
「――し、しかたないわね。ベッカにだけ、とくべつよ」
そして、全て飲み終えたカップを、レベッカに押し付けた。それを受け取ると、ウェンディは再びシーツにくるまった。
「そ、そのかわり、あしたから、よびりんをならしたら、ミルクをもってきなさい」
その言葉に苦笑しながら返事をする。
「かしこまりました」
「ぜ、ぜったいよ」
「はい。それでは、おやすみなさい」
言葉を返して、深く礼をして、ベッドから離れる。なるべく音をたてないように静かに扉を開いて、部屋から出た。そして、扉を閉じる寸前、
「――あ、りがと」
微かに声が聞こえたような気がした。




