失った景色
リースエラゴと共に乗り込んだ馬車にて、レベッカは無言で外の変わりゆく景色を見つめていた。
先ほどの女性達の会話が頭から離れない。
――ウェンディが婚約するなんて想像もしていなかった。
馬鹿か、と自分を小突きたくなる。そんなことを想像さえしていなかったなんて。高い身分で年頃の貴族の令嬢なのだから、婚約話が出るのはおかしくない。むしろ当然の事だ。
だけど――
「……はぁ」
レベッカは大きなため息をついて頭を抱えた。
思い悩むレベッカをリースエラゴが時折チラチラと気にするように視線を向けてくる。しかし、気遣ってくれているのか、何も声はかけてこなかった。
そんなリースエラゴに構わず、レベッカは考え続ける。思考がグルグルと回転する。
ウェンディが結婚する。それは、喜ぶべきことだ。祝福しなければならない。
頭では分かっているのに、胸を衝かれたようなショックを受けていた。混乱で頭がおかしくなりそうだ。婚約話を聞いて狼狽する自分自身にも衝撃を受けていた。
小さい頃のウェンディの姿が脳裏に浮かぶ。
『ベッカ、わたくしをだきしめて』
あの小さな女の子が、誰かの物になってしまう。
――いや、ちがう。
もう、あの時の小さな女の子はいない。
レベッカは顔を歪ませ、唇を強く噛んだ。そのまま顔を伏せる。
自分が眠っている間に、どんどん成長して、17歳になったのだ。大人の女性へと……
きっと、ウェンディなら幸せな結婚をするだろう。三大美女と呼ばれるほど美しい女性になったのだから、きっと立派な男性に深く愛されて――
「……っ」
それを想像しただけで、胸を刺されたような感覚がした。心が波立ち、頭が悩乱していく。
どうしてこんなふうに思い悩むのか分からない。大切なお嬢様が、幸せになるのだから、喜ぶべきなのに。
喜べない。イライラする。痛くて、苦しくて、もどかしくて、たまらない。この気持ちは、何なんだろう。
自分の感情が分からなくて、レベッカは泣きそうになった。涙が出そうになるのを必死にこらえて、顔を上げる。外を見ると、いつの間にか雨が降りだしていた。ジトジトとした細い雨だ。暗い空を見ると、自分の心も沈んでいきそうになる。まるで、深い泥沼に入り込んでしまったみたいだ、と思った。
レベッカは馬車の席で膝を抱えるようにして座ると、そのまま膝の中に顔を埋めた。
目を閉じる。そのまま重苦しい時間が流れた。
「……レベッカ」
不意に、それまで無言だったリースエラゴが口を開いた。
「なに?」
レベッカの素っ気ない返答に、リースエラゴはチラリとこちらを見て言葉を続ける。
「――コードウェル領が見えてきたぞ」
リースエラゴの言葉に、顔を上げる。外を見ると、雨の中で暗い影が揺らめいている。恐らくは、あれが目的地だ。
とうとう戻ってきたのだ。コードウェル領に。
レベッカの、大切な人がいる地へと。
馬車を降りると、すぐにリースエラゴがレベッカを抱き上げた。
「リーシー?」
「こうした方が早いから」
そのまま、どこかで購入したらしい傘を開く。
重い荷物とレベッカを抱えたまま、傘をさしたリースエラゴは微笑みながら声をかけてきた。
「ほら、どこへ行くんだ?お前の行きたい場所へ行くぞ」
レベッカは口を開こうとして、
「……」
そのまま閉じてしまった。目を泳がせて、思い悩むように顔を伏せる。
「レベッカ?」
リースエラゴが不思議そうに首をかしげる。そんな彼女に、レベッカはポツリと小さく声を漏らした。
「わ、私……っ」
「ん?」
「私……、ここに戻ってきたのは間違いだったのかも……」
「はあっ!?」
リースエラゴがギョッとしたように目を見開き、大きな声をあげた。
「お、お前がここに行きたいって言ったんだろう!?」
「そう、そうなんですけど……」
レベッカは泣きそうな顔でリースエラゴの服を強く握った。
ここに戻ってきたのは、ウェンディに会いたかったからだ。レベッカにとって世界で一番大切な女の子に、ただ会いたかった。会いたくて会いたくてたまらなかった。
だけど、ウェンディにとっては迷惑かもしれない。4年前に黙って姿を消してしまった。いや、レベッカの意思ではなかったし、失踪したわけではなく誘拐されたのだが、結果的には行方不明になってしまったのだ。連絡も取ることができなくて、4年もの年月が流れた。ずっとそばにいると言ったくせに、長い間1人にしてしまった。
そして、今度は何も考えずに帰ってきた。会いたい、という思いだけでノコノコと。
それは、レベッカの自分勝手な思いなのかもしれない。ウェンディにとってはどうなのだろう。勝手に消えた人間が、今更戻ってくるなんて。
「……っ」
リースエラゴの胸に、泣きそうになった顔を埋める。
ウェンディは成長した。大人になり、婚約の話まで出ている。そんな彼女の前に、自分は戻ってもいいのだろうか。勝手に消えてしまった人間が、今更現れたところで迷惑なだけかもしれない。それも、こんなにも幼い姿になってしまったのだ。今のウェンディの周りをかき乱すだけだ。
そんな事をグルグルと考えるレベッカを、リースエラゴは見つめて、
「はあ」
と、大きなため息をついた。
「……よく分からないが、会いたい人間がいるんだろう?だったら会いに行くべきだ」
「……だけど」
「レベッカ」
その声に、レベッカが顔を上げると、リースエラゴは優しく微笑んだ。
「自分の心に正直になれ」
「……」
「会わないと、絶対に後悔するぞ。このままで終わらせてはダメだ」
リースエラゴの励ますような言葉に、レベッカは何も答えることができず、ただうつむいた。
リースエラゴは苦笑し、再び口を開いた。
「……もう少ししてから行くか?」
「……」
「雨がやむまで、少しゆっくりしよう。今日の宿も探さなければならないし、な」
「……うん」
レベッカがコクリと頷くと、リースエラゴは微笑んだ。
リースエラゴがレベッカを抱いたまま足を踏み出した。寂しい雨が降る中、街をゆっくりと歩く。雨が降っているからか、人通りは少ない。
リースエラゴの腕の中で、レベッカは周囲を眺める。懐かしい風景だった。街は4年前と比べて、知っている家が失くなっていたり、新しい店ができていたり、と所々変化していた。
「この辺に宿はないのか?」
「……分からない。私がいた時と、変わってるし」
「そうか……ん?」
その時、リースエラゴが何かを見つけたのか足を止めた。
「あれは、なんだ?」
「え?」
リースエラゴの視線は街の隅っこに向いていた。そこにあったのは、買い物に疲れた人が過ごせる休憩所だった。屋根の下に、誰も座っていない長椅子がポツンと置いてある。
「休憩所ですよ。誰でも使える……」
レベッカがそう答えると、リースエラゴはそちらへまっすぐに向かった。
「リーシー?」
レベッカがきょとんとしながら声をあげると、リースエラゴは鞄から上着を取り出し、レベッカに着せた。
「レベッカ、ここで待ってろ」
「え?」
「少し寒いから、その辺で温かい飲み物でも買ってくる。ついでにこの辺に宿がないか聞いてくる」
「で、でも……」
「すぐに戻る」
リースエラゴはそう言うと、レベッカを残して走って行ってしまった。
レベッカはその姿を見送り、長椅子に腰を下ろした。ぼんやりと雨の中の風景を見つめる。
リースエラゴにたくさん迷惑をかけてしまった。後ろめたさを感じて、胸が詰まる。
リースエラゴの言うとおりだ。会うべきだ。ウェンディに会いたい。会わなければ、後悔するに決まってる。
だけど―――
「……あ」
景色を眺めていたレベッカは、ふとある事に気づいた。ここは、確か……
フラフラと立ち上がる。そのまま、リースエラゴが着せてくれた上着のフードを被る。そして、雨の中へと飛び出した。
雨に濡れるのも構わず、街の中を駆ける。まっしぐらに目的地を目指して、足を動かす。冷たい雨が肌に容赦なく当たるが、気にしない。
きっと、この近くのはずだ。
『ベッカ』
大好きな、声が聞こえたような気がした。
どくんどくん、と心臓の音が耳に響く。
『約束よ?』
――お嬢様
『忘れないでね』
忘れません、絶対に。
あなたと見た、あの美しい景色を。
何もかも捨てた私にとって、あなたが全てだった。
繰り返し、繰り返し、あなたの笑顔を記憶の中で再生して、そして願ったのです。
あなたに会いたい、と。
ただ、それだけを。
たくさん歩きました。いっぱい進みました。
私は、もう一度、あなたのそばにいることを願ってもよろしいでしょうか?
視界の先に、小さな公園を捉えた。よかった、まだここにあった。レベッカはホッとしながら、公園の中へ飛び込むように入る。
周囲を見回しながら、公園の中を駆け回った。
どこだったかな?そうだ、この先に――
レベッカは呼吸を弾ませながら、公園の奥へと進んだ。この公園に、レベッカの好きな花を咲かせる木があるのだ。一度、ウェンディと共に見た淡い色の美しい花の木。花が咲く季節ではない。だけど――
「……あ」
ようやく目的地にたどり着いたレベッカは声をあげた。
呆然と目の前の景色を見つめる。
そこに、木はなかった。
切り株だけがポツンと寂しそうに存在していた。
一体いつ切られたのだろう。
あんなにも美しい花を咲かせる木だったのに。
雨が降る中、レベッカは涙をこぼした。残酷な現実に心が折れそうだった。世界から拒絶されたような気がして、痛い。
痛くて痛くて、倒れそうだ。
――もう、あの愛しい時間は戻ってこない。
――お嬢様と約束したのに、守れなかった。
激しい動悸がして、胸を擦った。必死に息を吸って、深く吐き出す。
袖で涙を拭った。それでも次々と雫がこぼれ落ちてくる。ゆっくりと口を開く。
「お、嬢様……」
あの時の花を見ることは、二度とできない。
それを実感して、過去と断絶させられたような感覚になる。
――多くのことが、変わってしまった。
街も、人も、そしてもちろんお嬢様も。
全ての時間は進んでいるのだ、と今更実感した。
自分の時間だけ、過去で止まっている。あの時のままだ。現状を受け止めきれなくて、頭がおかしくなりそう。
あまりにも長い時が流れてしまった。
失ってしまった時間は二度と戻ってこないのだ、と痛感した。
「ウェンディ、様……」
小さく囁く。もちろん、誰も答えない。
「ふ、……ぅ……ぅ」
レベッカの口から嗚咽が小さく漏れた。
どれほどの時間が経っただろう。
いつの間にか、雨が止んでいた。レベッカは空を仰いで、ゴシゴシと目を擦る。
衝動的にここへと来てしまった。早く戻らないと、いけない。きっと、リースエラゴが心配しているだろう。
もう一度切り株を見る。
大きく深呼吸をして、その場から立ち去ろうとしたその時だった。
「あら?どうしてこんなところに子どもが……」
その声が耳に入ってきた瞬間、ゾワリとした。
稲妻に打たれたように、何かが体中を走り抜ける。
これは、この声は。
知らないけれど、知っている声だ。
「まあ、ずぶ濡れじゃない……迷子?」
大きく息を呑む。そして、ゆっくりと振り向いた。
そこに立っていたのは、傘を手に持った1人の人物だった。
その姿が視界に飛び込んで来た瞬間、レベッカは言葉を失った。天使のように美しい少女だった。丁寧に編みこまれた宝飾品のような輝きの金髪、透き通ったような白い肌、艶やかに紅がひかれた唇……
そして、エメラルドのような深い緑の瞳。
この世のものとは思えないくらい、光り輝いている少女だった。あまりにも美しくて、正視できない。
「……あ、」
少女と目が合って、レベッカの時間が止まった。呼吸も、瞬きも忘れて、少女を見つめる。
少女はそんなレベッカの様子に、一瞬眉をひそめる。しかし、すぐにハッとして大きく目を見開いた。絶句して、手で口元を抑える。
少女とレベッカは、しばらく無言でお互いを見つめ合った。
やがて、少女が震えながら口元から手を離す。そして、ゆっくりと声を出した。
「……ベッカ?」
レベッカはその呼びかけに肩を揺らす。
一瞬だけ、目を閉じて、フードを脱いだ。そして、瞳を開いて、唇を動かす。
「……はい、お嬢様」
そう答えた瞬間、金髪の少女――ウェンディの手から傘が滑り落ちた。パタンと傘が地面に落下したのと同時に、レベッカへと駆け寄り、勢いよく抱きついてくる。
「ベッカ、ベッカ、……ベッカぁ!!」
息が止まるほど、強く抱き締められた。
熱い体温と鼓動が伝わってきて、レベッカは全身を硬直させた。しかし、
「ベッカ……っ」
すぐにウェンディの身体が震えているのに気づく。見えないが、泣いているのが分かった。
レベッカは大きく目を見開き、すぐにくしゃりと顔を歪める。自分の瞳にも涙があふれてきて、視界が熱くなるのを感じた。
そのままゆっくりとウェンディの背中に腕を回した。




