噂
空の闇が徐々に消えていき、朝日が昇った。くっきりとした朝の光を全身に浴びながら、レベッカは窓からの景色を眺める。
ベッドの上では、リースエラゴがゴソゴソと起きながら声をかけてきた。
「――もう起きたのか?」
「うん」
レベッカは返事をしながら、リースエラゴの顔に視線を向ける。
「――大丈夫ですか?」
「ん」
レベッカの問いかけにリースエラゴは軽く頷く。長い髪をかき上げると、目を閉じる。すぐに瞳を開いて、もう一度頷いた。
「もう大丈夫だ」
そう言ってレベッカに向かって微笑む。
レベッカもホッとしながら、笑顔を作って、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、準備をして、朝ごはんに行きましょうか」
2人は荷物をまとめて、宿を出た。そのまま近くの小さなレストランに入り、朝食を注文する。
「次は馬車だな」
リースエラゴはそう言いながら、大量の食事を次から次へとかきこむように食べた。その姿はいつも通りで昨夜の不安定な様子は全く感じられない。レベッカはその事にこっそりと安心しながら、自分も食事を口にした。
「ええ。……もう少し、です」
コードウェル領へとどんどん近づいている。あとは馬車に2回ほど乗るだけだ。早ければ、今日の夕方には到着するかもしれない。
テーブルの上の全ての食事を食べ終えたリースエラゴは小さく息をつき、立ち上がった。
「じゃあ、行くか」
2人は乗合馬車の乗り場へと向かった。乗車券を購入し、時間を確認する。どうやら、馬車が出発するまであと1時間ほど時間があるようだ。
「どこかで待つか」
「じゃあ、あそこで待っていましょう」
レベッカは乗り場の近くに設置してある客用の長椅子を指差す。リースエラゴが頷いたので、そのまま2人揃って長椅子へと向かい、腰を下ろした。
馬車を待つ間、何もすることがないので、レベッカは自分の鞄から“フィンリーの冒険”を取り出した。馬車の時間まで本を読んで時間を潰そう、と思いながらページをめくろうとしたその時、リースエラゴが声をかけてきた。
「それ、昨日買った本か?」
「え?ええ、そうですよ」
レベッカは返事をしながら、リースエラゴに表紙を向ける。
「結構面白いです」
「ふーん……」
リースエラゴは表紙を眺めながら、少し首をかしげた。
「……変わった名前だな」
「え?」
リースエラゴの視線は、表紙に記されている作者名、“レナトア・セル・ウォード”に向けられていた。
「この言葉は、人の名前としては少し不自然に感じる」
「……?どういうことですか?」
レベッカが眉をひそめると、リースエラゴは何かを思い出すような顔をしながら言葉を返した。
「“レナトア”っていうのは、とても古い言葉で、確か“永遠の”とか“決して終わらない”とか、そういう意味だったような気がする。この言葉を名前として使うのは、ちょっと変わってるな……」
「へえ……」
レベッカはそう呟きながら表紙へと視線を向ける。リースエラゴは少し苦笑してから、再び口を開いた。
「何か飲み物でも買ってくる。お前もいるか?」
「あ、じゃあ、お願いします」
レベッカがそう返すと、リースエラゴは頷いて立ち上がる。そして、金の入った鞄を手に、近くの店へと向かった。
レベッカはその姿を静かに見送ると、小さく息を吐き出した。そして、近くの時計へと視線を向ける。馬車の出発までもう少し。もしかしたら、今日中にウェンディに会えるかもしれない。それを考えるだけで、心が浮き立つような感覚がした。逸る心を抑えながら、改めて本を開こうとしたその時だった。
「……ん?」
少し離れた道路の向こうに視線が止まる。そこには、2人の人間が立っていた。年若い男女が、腕を組んで楽しそうに会話をしている。レベッカは目を凝らして、2人の姿をじっと見つめた。男性は身長が高く、優しそうな垂れ目の青年だった。女性は小柄でフワフワとした長い赤毛が目立っていた。輝くような茶色の瞳が可愛らしい。
男性は知らないが、女性はレベッカがよく知っている人物だった。
「……セイディー?」
小さく呟く。4年前より髪が伸びて大人っぽくなっていていたが、その女性は間違いなく、コードウェル家の後輩メイド、セイディー・ヴィンスだった。
レベッカは思わず立ち上がり、声をかけようと口を開いた。
「セ――」
しかし、それを阻むようにセイディーと男性の前に馬車が停まってしまった。
すぐに馬車の扉が開かれ、セイディーが馬車に乗り込むために足を踏み出す。
「……あ」
馬車に乗り込む瞬間、不意にセイディーがこちらへと視線を向けてきた。レベッカと目が合う。レベッカがどうすればいいか迷っていると、セイディーは不思議そうに首をかしげ、そのまま目をそらすと馬車の中へと入っていった。
「……」
レベッカの全身が石のように固まり、そのまま立ちすくんだ。そんなレベッカに構わず、セイディーと男性を乗せた馬車はそのままガタガタと音を立てて走り去ってしまった。レベッカは無言でその馬車を見送った。
馬車の姿が視界から消え去り、レベッカはヨロヨロと長椅子に腰を下ろす。久しぶりに昔の後輩を見た事で大きく動揺していた。
いや、それよりも。
確かにセイディーと目が合った。けれど、セイディーはレベッカに全く気づかなかった。あの目は、完全に知らない人間を見る目だった。
「レベッカ、どうした?」
いつの間にか、たくさんの荷物を抱えたリースエラゴが帰ってきていた。呆然としているレベッカを不思議そうに見つめながら、隣に腰を下ろす。
レベッカはポツリポツリと今の出来事を話した。
「昔の知り合いに会った?」
「はい……会った、というか遠くから顔を見ただけ、ですけど」
リースエラゴが買ってきてくれたお茶を飲んで、レベッカは顔を伏せた。
「あっちは、私に気づいていないようでした……」
「そりゃそうだろう」
リースエラゴは当然のようにそう言ったため、レベッカは顔を上げた、
「はい?」
「昔のお前と今のお前じゃ、全然姿が違うからな。まさか子どもになってしまったとは思わないだろうし、気づくのは不可能だろう」
「……」
レベッカは無言になって、自分の小さくなった手を見つめた。
リースエラゴの言う通りだ。こんな幼い姿になってしまった自分に、セイディーが気づかなかったのも無理はない。
頭では理解している。だが、思ったよりも大きくショックを受けたレベッカは大きくため息をついて、そのまま頭を抱えた。リースエラゴは気まずそうな表情で購入したらしいお菓子を差し出してきた。
「ほら、これをやる。だから元気出せ」
「……」
レベッカは無言でそれを受け取った。
ようやく馬車が出発する時間を迎えた。レベッカとリースエラゴは予約した乗合馬車へと乗り込む。自分達の他にも数人の客が乗っているが、それほど込み合ってはいなかった。レベッカはリースエラゴの隣の席にモゾモゾと座り込んだ。
すぐに馬車は出発した。ゴトゴトと音をたてながら、景色が流れて行く。レベッカはリースエラゴからもらったお菓子をモソモソと口にしながら、ほとんど話すことなく、馬車に揺られていた。
次の目的地・リルダントという街へは、2時間ほどで到着した。ここで馬車を乗り換えなければならない。いよいよ、この街を越えたらコードウェル領だ。
次の馬車の出発まで十分な余裕がある。お昼には少し早かったが、昼食を取るために馬車乗り場の近くのカフェに入った。まだ早い時間のため、客はレベッカ達の他には、2人組の中年女性しかいなかった。女性達は飲み物を飲みつつ、何やらにぎやかに会話を交わしていた。
レベッカとリースエラゴは店員の案内でテーブルにつくと、簡単な食事と飲み物を注文した。店員が立ち去った後、リースエラゴが口を開く。
「あと、数時間で到着だな」
「はい。長かったですね……本当に……」
「コードウェルって所に着いたらどこに行くんだ?」
「とりあえずは、お世話になったお屋敷に行くつもりです。そういえば、あなたは――」
これからどうするんですか?と尋ねようとした所で、近くのテーブルにいた2人組の中年女性の1人が話しかけてきた。
「あら、あなた方、コードウェル領に行くの?」
どうやら、レベッカとリースエラゴの会話が耳に入ってきたらしい。レベッカは突然話しかけられた事に戸惑いながらも小さく頷いた。
「は、はい」
2人組の中年女性は微笑ましそうにしながら言葉を続けた。
「いいわねえ、ご旅行?」
無言のリースエラゴの代わりに、レベッカは曖昧に笑って頷く。
「ええと、はい、まあ……」
「少し天気が荒れそうだから、気を付けた方がいいわよ」
女性は外へと視線を向けながら、そう言った。レベッカもつられるように外を見る。今のところ雨は降っていないが、女性の言う通り、少し曇っていた。
「雨が降りそうだな……」
リースエラゴも外を見て顔をしかめて呟いた。その時、店員が食事を運んできた。リースエラゴはすぐにそちらへと視線を移し、豪快に食べ始める。レベッカも苦笑しながら食事を始めた。
一方、レベッカとリースエラゴに興味を失ったらしい中年女性達はおしゃべりを再開した。
「コードウェルと言えば……聞いた?あの噂」
「ああ、そうそう。聞いたわよ」
「びっくりしたわよねぇ」
女性達はやや大きめの声で会話を続ける。
レベッカは再び外をチラリと見た。雨が降るなら傘を準備した方がいいかな、と考えながら飲み物を口にする。
その時、中年女性の言葉が耳に飛びこんできた。
「コードウェル家の令嬢が婚約するんですってね」
その言葉を聞いたレベッカは、勢いよく飲み物を吹き出した。正面に座っていたリースエラゴがそれをまともに浴びる。
ゴホゴホとむせこむレベッカをよそに、女性達は会話を続けた。
「相手はあのランバート侯爵家のご子息なんでしょ?」
「そうそう!まだ正式に発表されてはいないけど、もうほとんど決まりだって――」
リースエラゴが憮然とした表情で、ハンカチを取り出し、ジュースで濡れた自分の顔を拭く。
そんな彼女に謝るのも忘れて、レベッカは愕然とした表情で氷のように固まっていた。




