山の精霊
次の日、朝早くにレベッカとリースエラゴは宿から出ると、乗合馬車の停留所へと向かった。
リースエラゴが馬車をチラリと見て口を開く。
「この馬車で山の麓の村まで行こう」
「その後、馬車を乗り換えて、山を越えるんですね」
レベッカの言葉に、リースエラゴがニヤリと笑った。
「いや、少し考えがあるんだ」
「昨日も言ってたけど……何ですか、考えって?」
リースエラゴはレベッカの頭を軽く撫でて言葉を続けた。
「後で話すよ。うまく行けば、思ったよりも早く山を越えられるかもしれないぞ」
その言葉にレベッカは眉をひそめてリースエラゴを見上げたが、彼女はそれ以上何も教えてくれなかった。
乗合馬車の乗車券を購入し、時間を確認する。出発まであと1時間ほどだった。
「中途半端に時間があるな。まあ、その辺で待つか」
「そうですね……」
その時、停留所の近くにある店に視線が止まり、レベッカは声をあげた。
「あっ」
「ん?どうした?」
「リーシー、あそこ、行ってみてもいいですか?」
レベッカが指差したのは、小さな本屋だった。
「あれは……書物を売る店か?」
「はい!ちょっと覗いていいですか?」
「ああ、構わないぞ。何か気に入った本があれば買うといい」
「いいんですか!?」
リースエラゴの言葉に、レベッカは顔を綻ばせながら本屋へと向かった。
本屋に来るのは久しぶりだ。以前、ウェンディと2人で来た時以来になる。その時の事を思い返しながら、店へと足を踏み入れた。
たくさんの本が収められた棚を見回した。リースエラゴも興味深そうに店の中を眺めている。
何か面白そうな本はないかな、と考えながら店内を歩いていたその時だった。一番目立つ場所に置いてある本棚が目に留まる。棚の一番上には、
〈大人気の“エランの剣”シリーズ〉
と書いてあり、シリーズ物と思われるたくさんの本が並んでいた。
「これ、昨日の……」
レベッカは本棚へと近づき、その中の一冊を手に取り、パラパラとめくった。
どうやら、昨夜観た演劇の原作小説らしい。
「本当に人気なんだ……あれ?」
本を棚に戻した時、あることに気づいて思わず声をあげる。
どうやら10巻まで出ているシリーズのようで同じ巻が何冊もあったが、1巻だけが1冊もなかった。
「売り切れかな……?」
レベッカが呟いたその時、後ろから声をかけられた。
「お客さん、“エランの剣”シリーズを探しに来たんですか?」
その言葉に振り向くと、エプロンを身に付けた店員らしき青年が立っていた。
「申し訳ありません。そのシリーズは、人気過ぎて1巻が売り切れなんですよ……近くで舞台をやってて……」
申し訳なさそうに店員が頭を下げる。
「あ、その舞台なら昨日見ました。面白かったです」
レベッカがそう言うと、店員は嬉しそうに頷いた。
「そうそう。前から子どもに大人気だったんですけどね。舞台化がきっかけで大人にも人気が出て、かなり売れているんです。今一番人気の本ですね」
店員は、“エランの剣”シリーズの1冊を手に取ると、嬉しそうに笑った。
「まあ、ウォードの作品は面白いから、大抵売れるんですけどね」
レベッカが本の表紙に視線を向けると、タイトルの下に、
〈レナトア・セル・ウォード〉
と作者の名前らしき文字が記されてあった。聞いたことのない不思議な名前だ。
「……その人の本が、今人気なんですか?」
レベッカが問いかけると、店員は大きく頷いた。
「ええ!彼は純文学やミステリー、恋愛小説まで何でも書いて、その全てが面白いんですが、児童書は特に人気なんです」
どうやら話好きらしい店員は楽しそうに近くの本を手に取った。
「僕のオススメはこれ!」
レベッカが覗きこむように見ると、大きな本の表紙に、可愛らしい女の子のイラストと、
“フィンリーの冒険”
というタイトルが書かれてあった。
「ウォードのデビュー作なんですよ!男性とは思えないくらい文章が可愛らしくて、登場人物も個性豊かで面白いんです」
「へー……」
レベッカは本を手に取ると、パラパラとめくりながら口を開いた。
「変わったお名前ですけど、作者さんは男性なんですね」
その問いかけに、店員は大きく頷いた。
「ええ。といっても、この作者は秘密主義らしくて、ほとんど表舞台に姿を現さないんですけどね。……でも」
店員は手を口元に当ててヒソヒソと言葉を続けた。
「実は僕、彼に会ったことあるんですよ」
「……えっ、それは……すごいですね」
レベッカがちょっと驚きながら言葉を返すと、店員は大きく頷いた。
「会ったというか、姿を見ただけなんですけどね。用事があって出版社に行った時、見たんです。ウォードさん、って声をかけられていて……すごくびっくりして……」
小さな声で店員は言葉を重ねた。
「意外なことに僕よりも年上っぽい男性でした。少し気難しそうでしたけど、背が高くてキリッとしていて怖い雰囲気の……」
その時、大きな声が響いた。
「こら!あんたはまたお客さんの邪魔をして!!」
レベッカと店員が振り向くと、そこに立っていたのは年配の女性だった。店員は慌てて立ち上がる。
「すみません、店長!」
「早く仕事に戻りなさい!!」
店長らしき女性の言葉に、店員は飛び上がるようにしてどこかへと行ってしまった。
「すみません、お客さん。あいつはいつもおしゃべりで……」
店長が頭を下げてきたので、レベッカは慌てて首を横に振った。
「いえ、お話、楽しかったです」
その時、後ろの棚からリースエラゴが姿を現し、声をかけた。
「そろそろ行くぞ。何か買うのか?」
その言葉に、レベッカは一瞬迷ったがすぐに“フィンリーの冒険”を手に取り、
「……これ、おいくらですか?」
と店長に尋ねた。
乗合馬車が出発する時間が来た。レベッカは購入した本と荷物を持ちながら、馬車へと乗り込む。2日前に乗った馬車と違い、今回客は数人しかいなかった。山の麓の村までは1時間ほどかかるらしい。レベッカは隣の席に座ったリースエラゴに声をかけた。
「リーシー、村に着いたらどうするんですか?」
「んー?ああ、すぐに分かるさ」
なぜか曖昧な言葉しか返ってこなかった。
そのまま馬車に揺られ続けて、予定通りの時間に村の入り口へと到着した。
次は馬車を乗り換えて、山を越えなければならない。最低でも1日はかかるらしいし、もしかしたら今日は野宿になるかな、と考えながら、馬車から降りる。
地面に足を着けたその時、突然リースエラゴがレベッカを抱き上げた。
「わっ、リーシー!何するんですか?」
「こっちへ行くぞ」
リースエラゴはレベッカと荷物を抱えると、一気に走り出す。
「リ、リーシー、次の馬車は!?」
レベッカが声をかけると、リースエラゴは、
「馬車に乗るよりも、ずっといい方法がある」
その言葉にレベッカは首をかしげた。
リースエラゴは村には入らず迂回すると、そのまま山へと足を踏み入れた。
「リーシー……?」
レベッカが不思議そうに声をかけるが、リースエラゴはそれを無視してどんどん山の中を進んでいった。
もしや徒歩で進むつもりなのだろうか、と考え、レベッカは顔を青くした。山の中は、恐ろしい獣や盗賊なども出ると聞いたことがある。リースエラゴの魔力も回復していないみたいだし、護衛なしで2人きりで山越えなんて危険だ。レベッカが、焦りながらもう一度リースエラゴに声をかけようとしたその時だった。
「この辺でいいか」
と言いながら、リースエラゴは立ち止まりレベッカを地面に降ろした。レベッカは周囲を見回した。人の気配は感じられない、静かな場所だった。木々が生い茂り、緑の空間がどこまでも広がっている。風が吹いて、葉っぱがザワザワと音をたてた。
「リーシー、あの……」
レベッカが話しかけようとしたその時、リースエラゴは遠くを見るように目を細め、ニヤリと笑った。
「ほら、来たぞ」
「へ?」
その瞬間、切り裂くような強い一陣の風が吹いた。レベッカは思わず目を閉じて、リースエラゴの服の裾を掴んだ。
「な、何が来たんですか?」
大きな声で問いかけながら、目を開く。リースエラゴは全く動じることなく、レベッカの方へと手を伸ばしてきた。
「こうすればお前にも見えるだろう」
そう言いながら、レベッカの目の周囲を手で覆う。
「え?」
声をあげるのと同時にリースエラゴが手を離す。視界が開くと、レベッカは驚いてポカンと口を開けた。いつの間にか目の前に巨大な獣が立っていた。レベッカよりも何倍も大きい、まるで狼のような獣だった。毛並みは美しい銀色に輝き、透明感のある薄い緑色の瞳がこちらを見つめている。
「え?ええ?なんですか、これ……?」
レベッカが思わず後退りしながら尋ねると、リースエラゴが答えた。
「風の精霊の1人だ」
「せ、精霊?これが!?」
レベッカが愕然としながら聞き返すと、リースエラゴはアッサリと
「ああ」
と頷き、獣を軽く撫でた。
「精霊という生き物は私と同じく、古の時代から生きる者達だ。通常、こいつらは人間の目には見えなし、声も聞こえない。感じることさえできない存在なんだ。昔は稀に姿が見える人間もいたけどな……」
リースエラゴは少し顔を曇らせ、言葉を続けた。
「精霊達は人間と関わるのを避けて、こういう山の中や深い森で暮らしているやつが多いんだ。私が山の中に入った気配に気づいて、ここまで来てくれたんだな。今、目に魔法をかけたから、お前にも姿がハッキリ見えているだろう?」
レベッカがおずおずと頷いたのと同時に、獣が唸るようにグルルと鳴いた。それを聞いたリースエラゴが満足げに頷き、レベッカへと顔を向ける。
「私達を乗せてくれるってさ。よかったな、レベッカ。これで馬車よりも早く山を越えられるぞ」
「ええぇぇ……?」
急展開すぎてついていけず、レベッカはその場で固まる。そんなレベッカに、獣が顔を近づけてくる。レベッカが怯えて逃げようとする前に、顔をベロリと舐められた。
「うわっ」
思わず悲鳴をあげた。獣はキューンと可愛らしい声で鳴き、レベッカに擦り寄ってきた。
どうやら見た目は恐ろしいが、人懐っこい精霊らしい。
「ほら乗れ」
「えっ、ちょっ」
リースエラゴはレベッカの戸惑いを無視して抱き上げると、そのまま獣の背中に乗せた。すぐに自分も乗りこみ、レベッカの後ろに座る。
毛並みは固くて、暖かい。しかし、思っていたよりも高くて、怖い。リースエラゴがレベッカの身体を安定させるように後ろから支えてくれてはいるが、どこを掴めばいいのか分からない。
「リ、リーシー、本当にこれで行くんですかぁ!?」
「ああ、お前、早く進みたいんだろう?」
「そうですけど--」
「じゃあ、行くぞー」
リースエラゴの声と同時に獣が勢いよく地面を蹴った。疾風のような速さで駆け出す。
「うわあぁぁぁぁっ!これ怖い!!無理、無理、無理ーっ!」
レベッカの叫び声が山にこだました。
「我慢しろ!」
リースエラゴが怒鳴る。怯えて泣き叫ぶレベッカに構わず、獣は凄まじい速さで飛ぶように走る。周りの景色もよく見えず、風で身体が溶けていきそうな感覚がした。
「本当に無理!!お願いだから止まってえぇぇぇっ!!」
レベッカが再び叫んだその時、突然獣の動きが止まった。
レベッカは驚いて口を開く。
「え?本当に止まってくれたの?」
その言葉に、リースエラゴが答えた。
「……いや、ちがう」
顔をしかめて、大きなため息をついた。
「……他のやつも来たから止まったんだ」
「え?」
他のやつって?と尋ねようとした時、リースエラゴが獣から降りた。レベッカの身体も抱き上げて地面に降ろす。
リースエラゴに再び声をかけようとしたその時だった。目の前をチカチカとした光が横切った。
「ん?」
レベッカはそれを目で追う。そして、
「ひゃぁっ!?」
驚きで悲鳴をあげた。
いつの間にか、目の前にたくさんの人々が立っていた。いや、ちがう。彼らは人ではない“何か”だ。
人の形をしてはいるが、羽があったり、角が生えていたり、大きかったり小さかったりと明らかに人間ではない。それに、見たこともない不思議な生物もいる。
彼らは一斉にリースエラゴに近づいてきた。
『姫だ!竜の姫が来たぞ!』
『うわあ、久しぶりだ!』
『リースエラゴだ!』
嬉しそうな様子でリースエラゴを見て声をあげている。
「リ、リーシー!これって……」
レベッカが動揺しながら声をかけると、リースエラゴが苦笑しながら口を開いた。
「この山に住んでいる妖精や精霊達だな。私が来たのに気づいて集まってきたたんだ。一応顔見知りだから……」
リースエラゴがそう言うと、今度は精霊達はレベッカの方へと視線を向けてきた。
『リースエラゴが人間の子をつれてる』
『可愛い女の子だ』
『見て、なんだかあの子、人間なのにすごく私達に似てるわ!』
精霊たちはワイワイと騒ぎながら、今度はレベッカに近づいてくる。
レベッカが狼狽えながら、その場に固まったその時だった。
『落ち着きなさい』
新しい声がした。歌うような優しい声だ。
全員が声の方へ視線を向ける。そこに立っていたのはヒラヒラとしたレースのような不思議な服を着て、薄紅色の髪を持つ美しい女の精霊だった。丸く愛らしい瞳はやはり薄紅色で、穏やかな笑顔を浮かべてこちらを見ている。不思議なことに、女性の周りにはたくさんの蝶が舞うように飛んでいた。
『その子が困っているでしょう』
優しい声でそう言いながらこちらへと近づいてくる。周りの精霊達が一斉に道を開けた。
「誰ですか?」
レベッカがリースエラゴに尋ねると、小さな声が返ってきた。
「昔馴染みの花の精霊で、ここにいる精霊達の長だ」
花の精霊は、ゆったりと歩いてレベッカとリースエラゴの方へとやって来た。不思議な香りがする。まるで花のような甘い香りだった。
花の精霊は微笑みながら頭を軽く下げ、口を開く。
『ごきげんよう、竜の姫』
「久しぶりだな、ニナ」
ニナ、と呼ばれた精霊は柔らかく微笑んだ。
『ここへくるのは何百年ぶりかしら?』
「さあな」
リースエラゴが肩をすくめる。
『みんなあなたのことを心配していたのよ。本当に』
「あー、はいはい。すまん」
リースエラゴが面倒くさそうに返事をする。
そんなリースエラゴに気を悪くする様子もなく、ニナは次にレベッカの方へと視線を向けた。レベッカは思わずリースエラゴの背中に隠れる。その様子を見て顔を綻ばせながら、ニナは口を開いた。
『子どもができたのなら、もっと早く教えてくれればよかったのに……』
「違う!よく見ろ!!こいつは普通の人間だ!!」
リースエラゴが大声をあげながら、レベッカの身体を押し出す。
「ちょ、ちょっと、リーシー……」
レベッカは慌てるが、それに構わずニナはその場にしゃがんだ。レベッカと視線を合わせ、口元に手を当てて軽く首をかしげる。
『人間にしては、魔力が強いわ。それに、身体からあなたの魔力も感じるし……』
「いろいろあったんだよ」
リースエラゴが気まずそうな顔で目をそらす。
ニナは微笑みながら、レベッカの頭を撫でてきた。
『人間を見るのは久しぶりだわ。お嬢さん、お名前は?』
レベッカはチラリとリースエラゴを見て、戸惑いながら口を開いた。
「レ、レベッカ……」
震える声でそう答えると、ニナはウットリとしながらレベッカの手を握った。
『そう、レベッカというの……可愛いわね』
その言葉に同意するように周囲の精霊達が騒ぐ。
『本当に愛らしい人の子だ』
『魔力もすごい!こんな人間、珍しいわ』
『ここに何をしに来たの?一緒に遊ぼうよ!』
『お腹すいてない?何か食べる?』
どう反応すればいいか分からずひたすら戸惑っていると、ニナがレベッカの頬を撫でながら口を開いた。
『みんな、あなたが気に入ったみたい。ねえ、人間やめてここに住まない?』
その言葉にレベッカは顔を大きく引きつらせた。助けを求めるように再びリースエラゴの方へと視線を向ける。
その視線を受けて、リースエラゴは大きなため息をついた。
「そろそろからかうのはやめろ」
『あらぁ、からかってなんかいないわ。本気よ。ここで暮らせばいいわ。もちろん、あなたも』
「こいつは行くところがあるんだ。それに、私もここには住まない。山の中とはいえ、人里が近いのだから」
レベッカを抱き上げながら、リースエラゴが鋭い視線を向ける。ニナは、少し拗ねたように言葉を続けた。
『相変わらず、人間が嫌いなのね……アイリーディア』
レベッカは驚いてリースエラゴへ顔を向けた。リースエラゴはうんざりしたようにニナへと言葉を返す。
「その名前で呼ぶな」
ニナは悲しそうに目を伏せた。
「……とにかく、私達は行くぞ。もう邪魔はしないでくれ」
リースエラゴはそう言って風の獣の方へと近づいた。そのまま再びレベッカと共に乗りこみ、獣を撫でる。そして、
「じゃあな」
リースエラゴの言葉を合図に、風の獣は再び駆け出した。
その姿を、精霊達はどこか寂しそうに見送った。
裏設定
※ニナ
花の精霊。山の精霊達を取りまとめる長。見た目は10代のゆるふわ美少女だが、数千年も生きている。自分でも何歳なのかよく分かっていない。上品でおっとりした性格。
リースエラゴの古い友人。




