目覚め
誰かに名前を呼ばれた気がした。
同時に、不思議な衝撃を感じる。
「さあ、起きろ。ゆっくりと、だ」
声が聞こえる。誰だろう?
ゆっくりと目蓋を開ける。何も見えない。
いや、違う。うっすらと人影が見える。目の前に、誰かがいる。
「大丈夫、大丈夫だ」
優しい手が背中に触れる。そのまま上半身を起こしてくれた。
自分で起きようとしたのに、身体を動かすことができなかった。指一本、動かすこともできない。重くて重くて仕方ないのだ。どうしてだろう、と考えたその時、ようやく視界が晴れてきた。
目の前にいたのは、一人の女性だった。灰色のローブのような服を着ている。長い髪は雪のように白い。幻想的な雰囲気を持つ美しい女性だ。海のような青色の瞳をこちらに向けている。
--どこかで見たような瞳だ。
「大丈夫か?声は出るか?」
その唇から漏れる声も、透き通ったように美しかった。
話しかけられたため、それに答えようと唇を開く。しかし、
「……っ」
声が出ない。何度も何度も必死に声を出そうとして、唇と喉を動かす。
「ゆっくりと、声を出せ。慌てなくていい」
その言葉に励まされるように、口を動かし続ける。やがて、声が漏れるように出てきた。
「……ぅ……ぁ」
女性は安心したように微笑みながら、頷く。
「そうだ。その調子だ。自分の名前を言ってみろ」
そう言われて、眉をひそめる。
自分の名前?……あれ?私の、名前。名前?
なんだっけ……?
混乱してわけが分からない。クラクラする。
その時、頭の中で誰かの声が響いた。
“ベッカ”
誰の声だろう。とても可愛い声だ。ずっと聞いていたいくらい、甘くて砂糖菓子のような声--
その時、少しだけ頭の中が開けるような感覚がした。
ゆっくりと、唇を開く。
「……ベ、ベッカ……レベッカ……」
掠れたような小さな声が口から出てきた。目の前の女性が安心したように笑って、頷いた。
「うん。おはよう、レベッカ」
その言葉に、レベッカは大きく息を吐き出し、目を閉じる。
あれ?この綺麗な女性は誰だろう?
そう考えるが、あまりにも身体が怠くて思考がまとまらない。疑問の答えが出る前に、再びレベッカの意識は闇の中へと沈んでいった。
次に意識が戻った時、最初に目に入ったのは、やはりあの美しい女性だった。瞳を開いたレベッカに気づいて、彼女は微笑んだ。
「寝過ぎだぞ、レベッカ」
どうやら女性は膝枕をしてくれているらしい。レベッカは眉をひそめながら身体を起こそうとしたが、
「う、うぅ……」
身体はまだ重く、ほとんど動かすことができなかった。全身が痛い。
「無理をするな。病み上がりなのだから」
女性はレベッカを安心させるように額を撫でてくれる。そして、レベッカの上半身をゆっくりと起こすと、どこからか水の入ったコップを取り出した。
「水だ。飲むか?」
コップを差し出されたその瞬間、喉の乾きを自覚した。女性の手を借りながら、必死に水を飲み込む。喉の乾きが治まると、小さく息を吐き出した。
「少しは落ち着いたようだな」
女性が苦笑しながらそう言う。そんな彼女に視線を向けて、レベッカは首を小さく傾げた。この人は誰だろう?
女性はレベッカの視線に答えるように、凛々しい微笑みを浮かべた。
「私が分からないか?小さな人の子よ」
そう言われて、レベッカは眉をひそめる。数秒後、その女性の正体に気づき、大きく目を見開いた。
「……リーシー?」
女性は満足そうに大きく頷いた。
「よかった。記憶も無事のようだな」
リースエラゴの言葉を聞きながら、レベッカは再び首をかしげる。
--あれ?リーシーはなんでこんな姿になってるんだろう?
--そもそも、なんで私はリーシーと一緒にいるんだっけ?
「怪我をした時の事は憶えているか?」
リースエラゴにそう尋ねられて、レベッカは困惑した。
--怪我?怪我って何だっけ?
ゆっくりと糸を手繰るように記憶を探る。
「うーん……?」
思わず呻くと、リースエラゴが朗らかに笑った。
「かなり混乱しているようだな。まあ、無理もないが……」
必死に記憶を掘り起こしながら声を出した。
「えーと、……私、確か……仕事をしていて……夕食に呼ばれて……ごちそう……?……あっ」
次の瞬間、全ての記憶が甦った。
コードウェル家、メイド、拉致、軟禁、兄と姉達、そしてお嬢様---!
「ああっ!!」
自分の力で勢いよく起き上がった瞬間、全身に痛みを感じた。その痛みに顔をしかめながら、レベッカはそばにいたリースエラゴにすがりつく。
「あ、あの時、何が起きたんです!?」
「落ち着け、レベッカ。1つずつ説明するから……ほら、もう少し水を飲め」
そう言われて、再び水の入ったコップを手渡される。
それを飲みながら、レベッカは周囲を見渡した。全体的に茶色の壁しか見えない。とても狭くて小さい、まるで洞窟のような場所だ。ひんやりと湿気のある空気に包まれている。少し離れた場所に、出口らしい穴が見えたがリースエラゴの身体があるため、外の世界はよく見えなかった。
今度は自分の身体を見る。いつの間にか、白いワンピースを身につけていた。いつ着がえたのだろう、と考えたその時、コップを持つ自分の手が目に入った。その時、レベッカは奇妙な違和感を覚えた。
--あれ?私の手って、こんな手だったっけ?なんか、違うような……
その時、自分の髪がサラリと顔を撫でた。その髪が視界に入り、レベッカは驚く。
「あ、あれ?」
髪を一房掴んだ。自分の髪は元々は栗色で、魔法で黒く染めていたはずだ。その髪が真っ白になっていた。目の前のリースエラゴと同じ髪色だ。レベッカが戸惑っていると、リースエラゴが軽く頭を撫でてきた。
「私の魔法の影響だ。安心しろ、あとで染めてやるから」
「ま、魔法って……」
その言葉を遮るように、再びリースエラゴが声をかけてきた。
「レベッカ、どこまで憶えている?」
そう問いかけられて、レベッカは記憶を辿りながらゆっくりと答えた。
「え、えーと、確か、頭を何かで強く殴られて……蹴られて……階段から落ちました。それから、すぐにあなたに助けを求めて……あれ?そういえば、何か燃えていたような気が……?」
リースエラゴは何度か頷き、口を開いた。
「……お前、あいつらから、かなり恨まれているみたいだな。頭の怪我、かなり酷かったぞ。それに、全身にも傷があったし……一体あいつらと何があったんだ?」
その言葉にレベッカは再び顔をしかめる。
「……いろいろ、あったんですよ。いろいろ……それより、教えてください。あの時、一体何が……?」
リースエラゴは肩をすくめ、言葉を続けた。
「--あの日、人の世界から、お前の声が聞こえた。私の名を呼ぶ声だと気づいて、すぐに駆けつけようとした。だが、できなかったんだ。何か、異物のような面倒くさい魔法が、私の魔石の力を妨害していて……お前の声が小さすぎて、居場所が特定できなかった。随分探したんだが……」
「……あっ」
リースエラゴの言葉で、兄と姉から付けられた魔力封じの首輪を思い出した。それを話すと、リースエラゴが納得したように頷いた。
「恐らくは、魔法具の一種だな……私にかけられていた呪いの輪と同じ系統の道具だ。人の世界にはまだそんな魔法具があるのか……」
リースエラゴは軽く舌打ちをする。そのまま腕を組むと、言葉を重ねた。
「人の世界が夜明けを迎える頃、再びお前の声が聞こえた。今度ははっきりとした声だった。それで居場所を特定できて、駆けつけたんだ。到着して、驚いたぞ。お前は死にかけているし、周りにはなんか変なアホっぽい奴らがいるし……」
自分の兄姉達をアホっぽいと言われて、レベッカは微妙な気持ちになる。それに構わず、リースエラゴの言葉は続いた。
「私が姿を見せたら、奴ら、悲鳴をあげて、怯えながら逃げ出そうとして……多分逃がしたら駄目だろうな、と思ったから、適当に倒しといた」
「た、倒した……?あの、それって……」
レベッカが顔を強張らせると、リースエラゴは苦笑しながら首を横に振った。
「安心しろ。ちょっと吹っ飛ばしただけだ。気絶して、怪我はしたかもしれないが、大きな怪我ではない……多分」
多分、という言葉にレベッカは唇を引きつらせる。
「あいつらを吹っ飛ばした拍子に、あの家にあった……燭台?みたいな道具が倒れたんだ。蝋燭が床に落ちて、その後一気に燃えてしまった」
「……うわぁ」
リオンフォール家のあの倉庫は無事なのだろうか、と考えるレベッカを尻目に、リースエラゴは言葉を重ねた。
「お前の怪我がかなり酷かったから、その場で治療しようとしたんだ。だが、すぐに大勢の人間が駆けつけてくる気配がした。恐らくは家が燃えているのに気づいたのだろうな。私の姿を多くの人に見られるとかなり面倒な事になるから、お前をつれて逃げたんだ。逃げる前に大急ぎでその場のお前以外の人間の記憶を弄って、私に関する記憶は消したが……」
「その後は?」
「すぐにお前をここに連れてきて、怪我の手当てと治療をした」
「ここって……」
リースエラゴが出口が見えるように僅かに身体をずらした。
「見えるか?」
レベッカはヨロヨロとしながら、出口へと少し近づく。
「……私の住み処だよ。以前お前を招いただろう?」
出口の先には、どこまでも続く緑の森が広がっていた。上には雲も太陽もない、明るい水色が見える。
「ここなら、誰も入ってこれないからな。誰にも邪魔されず、ゆっくりとお前の身体を治すことができた」
リースエラゴが微笑む。レベッカはそんな彼女の方を見て、口を開いた。
「そういえば、あなたのその姿--」
「ああ」
リースエラゴはその場に立ち上がると、クルリと回った。
「お前と話すのにあの姿は不便だからな。大きすぎるし、怖がらせると思って、身体を人の形に変えたんだ。この姿は綺麗だし、それに話しやすいだろう?」
「……前の姿も綺麗でしたよ」
レベッカがそう言うと、リースエラゴは驚いた顔をした。すぐに嬉しそうに笑う。
「そうか」
「はい」
大きく息を吐き出したレベッカはゆっくりとリースエラゴに向かって頭を下げた。
「……ありがとうございました。リーシー。本当に助かりました」
「気にするな。お前が無事でよかった」
リースエラゴが笑い、レベッカも微笑み返す。
そして再び外の世界へと視線を向けた。ぼんやりと景色を眺める。
なんだか、一気にいろんな事が起きて、思考が混雑しているみたいだ。とにかく疲れた。本当に疲れた。少し休んで、身体が回復したら帰らないと。
きっとお嬢様が心配している--
そう考えたその時、レベッカはあることを思い出し、ハッとした。
「リ、リーシー!」
「うん?」
軽く返事をするリースエラゴの方を向いて、レベッカは震える声で言葉を重ねた。
「そ、そういえば、なんですけど、以前、ここは外の世界と時間の流れが違うって言ってましたよね……?」
「あー、そうだな」
「そ、それじゃあ……」
レベッカは生唾を呑み込み、問いかけた。
「あちらではどれくらいの時間が経ったんです……?」
「……」
「……」
リースエラゴがこてんと首をかしげた。
「さあ?」
「さあ?じゃないですよ!!」
レベッカは大声をあげながら、リースエラゴの服を掴んだ。
「私をここに連れてきて、こちらではどのくらい経ちました!?」
「えーと、怪我の治療に時間がかかったし、お前がなかなか目覚めなかったから……数日?いや、数週間?」
その言葉に、レベッカは呆然としながら頭を抱えた。
「う、うそぉ……」
一体外の世界ではどれほどの時間が経ったのだろう。考えただけでクラクラした。
そんなレベッカを見つめながら、リースエラゴは自分の頬を指でポリポリと掻く。そして、とても言いにくそうに声を出した。
「あー、レベッカ。あと1つ、お前に言わなければならないことがある……」
「……なんですか?」
レベッカがジトッとした目でリースエラゴを見ると、そんな視線から逃げるように顔を逸らした。
「あー、その……」
「まさかこれ以上悪いことじゃないですよね?」
「えーと、あの……」
なぜかリースエラゴは気まずそうに言葉を濁す。
「はっきり言ってください。もう何が起きても驚きませんよ」
レベッカの言葉に、リースエラゴは目をそらしながら、小さな声でポツリポツリと話し始めた。
「……えーと、お前の怪我を治す時、魔法を使ったんだ。その、結構傷が深くて、出血も酷かったから、な……」
「……それが?」
「わ、私が使ったのは、かなり古い魔法だ。人間は決して使えない、いわゆる“時間”の魔法で……お前の身体を最善の状態へと戻そうとした。それで、うまくいったんだ。いや、うまくいき過ぎた……」
「……?うまくいったのなら、いいじゃないですか」
「……」
リースエラゴが無言になる。レベッカはその理由が分からず、ますます困惑した。しばらくして、リースエラゴは服の中から小さな手鏡を取り出した。
「すまない、レベッカ」
「へ?」
リースエラゴが鏡を自分に向ける。そこに自分の姿が映し出された。
「……え」
鏡の中の姿を、頭が理解するのを拒否してレベッカの思考は一瞬止まった。しかし、すぐに認識する。
「な、……な……っ」
鏡に映った自分の髪は真っ白だった。
いや、ちがう。それは問題じゃなくて、いや問題だけど、それよりも大問題なのは---、
「なんっですか、これはあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
鏡に映っていたのは、どう見ても7~8歳ほどの幼い少女の姿だった。




