終わりの始まり
--ウェンディ・ティア・コードウェルは、本を愛していた。
仕事以外のほとんどの時間を、読書をして過ごしていた事を憶えている。誰もいない静かな部屋で、ゆったりと椅子に座り、静かにページをめくるその姿は、絵画のように美しかった。
私は、そんな彼女の姿を物陰に隠れてこっそりと眺めるのが好きだった。
ふと、本から顔を上げた彼女がこちらへと視線を向ける。彼女と目が合った私の心臓は大きく跳ねる。
彼女は、物陰から顔を出す私を見てクスリと笑い、声をかけてくれた。
「おいで、リーケ」
澄みきった甘い声に誘われるように、私はフラフラと彼女の方へと近づく。本をチラリと見ると、その視線に気づいた彼女が口を開いた。
「--本が、好きなの?」
その問いかけにコクリと頷く。正確には、好きだったのは、本を読む彼女なのだが。
私が頷いたのを見て、彼女はフワリと微笑んだ。その笑顔に、私の心臓は再び高鳴る。
彼女は、私の耳元に赤い唇を寄せてきた。
「私もよ」
甘い声で囁かれて、頬が火照る。胸の弾みが止まらない。
「大好きなの」
そう言って、私と真っ直ぐに視線を合わせ、再び優雅に笑った。
私は、きっと忘れないだろう。
その時の、心の中に春が来たような感覚を。
愛すべき我が弟は、“それはまるで初恋じゃないか”とからかう。
私の恋人はというと、その話をすると、いつもへそを曲げて、あからさまに面白くなさそうな顔をする。そんな恋人の機嫌を取るのに、私はいつも苦労しているのだ。
--この世界で、彼女は生きた。
静かに、穏やかに、隠れるように。
彼女は孤独だったのだろう、と多くの人は言う。ひとりぼっちで、寂しかっただろう、と。
だけど、それはちがう。
ウェンディの心の中には、唯一の存在がいた。
誰よりも大切にしている人がいた。
特別だけど、特別なところなんてひとつもない、メイドがいた。
さあ、終わりの始まりを語ろう。
これは、この世界で生きた彼女達の物語だ。
どうか、最後まで見届けて欲しい。
その言葉を。その想いを。
物語は、始まれば必ず終わりを迎えるものだ。
終わらないで、と願っていたとしても。
でも、どうか悲しまないでほしい。
--あなたの心の中で、物語は永遠に生き続けるのだから。
終焉の時が来た。
この物語を、終わらせなければならない。
始まったのだから、終わらせる。
私の手で、鮮やかに、華麗に、何よりも美しく終わらせてみせよう。
きっと、それが、私の使命なのだから。
《フリーデリーケ・メイルズの手記より一部抜粋》
◆◆◆
ふわり、ふわりと風が吹く。
感じるのは、それだけ。
自分は一体どこにいるのだろう。
頭に靄がかかっているみたいに、ぼんやりする。
身体が重い。動きたくない。
もう少し眠っていたい。
このまま、穏やかに、静かに、目を閉じていたい。
--いや、違う。
駄目だ。
目覚めなければいけない。早く、早く。
帰らなくちゃ。
あれ?どうして目覚めなければならないんだっけ?
どうして?どうして?
--帰るって、どこに?
“ベッカ”
声が聞こえる。大好きな、可愛い声。
ああ、そうだ。
そうだった。思い出した。
あなたに、早く、会いたいから、だから、帰らなければ。
あなたのそばにいたいから。
ああ、よかった。思い出せて。
待っててください。
どうか、待ってて。
あなたのそばへ、絶対に帰るから。
--あれ?
あなたは、誰?
私の大好きな、大切なあなたは、一体誰ですか?
“ベッカ、わたくしをだきしめて”
頭の中で、鐘が鳴った。
そう、そうでした。
あなたがそう望むのであれば、私はあなたを抱き締めなければ。
なぜ?そんなの決まってる。
だって、そう約束したから。
義務でも使命でもない。
あなたをこの手で抱き締めると、そう約束しましたね。
ええ、憶えていますよ。忘れはしません。
それが、私の望みでもあるから。
あなたの隣で、あなたの笑顔をずっと見ていたいから。
ずっと、ずっと、笑っててほしいのです。
だから、私は絶対に帰りますね。
あなたのもとへ。
--ごめんなさい。
申し訳ありません。こんなにもお待たせして。
今、そちらに参ります。
もう少しだけ、待っててください、お嬢様。
そう心の中で呼びかけながら、起きようしたのに、どうしても身体は動かない。どうしてだろう。こんなにも、目を覚ましたいと願っているのに。
その時、声が聞こえた。
聞きたかった可愛い声ではなくて、全く知らない人物の声だった。
『よし、これで怪我も治るだろう。ここを、こうして……それから……』
誰だろう?この声は……
知らない声。だけど、どこかで聞いたことのあるような……
『うん。上出来だな。これなら……』
誰かが頭を撫でてきた。優しい手。
もっと撫でてほしい。でも、誰の手だろう?
誰なのか知りたいのに、目を開けることが出来ない。
喉がひどく乾いていた。それを察したかのように、誰かが水を飲ませてくれた。口の中に入り込んでくる水分を、必死に飲み込む。
『あっ』
どんなに水を飲んでも、乾きは消えない。
もっと、もっとほしい。
『ま、まずい……どうすれば……』
水がほしいのに、すぐそばにいる誰かはもう水をくれなかった。
代わりに、身体のあちこちに触れてくる。同時に、手に、足に、指先に、電流のようなビリビリとした感覚。これは、一体なんだろう?疑問だらけで、混乱しそうだ。
『うぅ……仕方ない、取りあえずはなんとかなりそうだし……』
声は少しだけ焦ったようにしながらも、やっぱり何度も何度も身体に触れてきた。
うっすらと瞳を開ける。でも、何も見えない。重い身体を少しずつ、必死に動かす。ゆっくりと、ゆっくりと。
声は高らかに叫んだ。
『さあ、起きろ、レベッカ!』
--そして、意識は現実へと引き戻された。
とうとう始まりました、最終章です。
最終章のプロローグ的なやつです。
第2部は比較的短く終わりましたが、第3部はかなり長くなる予定です。
次回の更新は少し先になります。今後もよろしくお願いいたします。




