雷の夜に
「レベッカ!」
名前を呼ばれて振り返ると、ルームメイトのキャリーがこちらへと走ってきた。
「聞いたわ!新しくお嬢様のお世話係になったって……」
「ええ、まあ……」
「大丈夫なの!?」
顔を青くさせて問いかけてくるキャリーを安心させるように、小さく微笑んだ。
「まあ、なんとかなりますよ」
「なんとかって……、の、呪いが移ったら……」
「呪いが移るとか、殺される、というのはただの噂のようです。ですから、大丈夫ですよ」
キャリーは呆然と口を開けていたが、やがて少し怒ったように眉を吊り上げた。
「レベッカ、ちょっと呑気すぎるわ!お嬢様のお世話係をして寝込んだ使用人だっているのよ!!」
「うーん。それは聞きましたけど……でもメイド長からも大丈夫だと言われましたし……それに、その……断れなくて……」
「あなたが断れないのが分かっていたのよ!新入りだからって押し付けたんだわ!」
キャリーは、はっきりと大声で言った後、頭を抱えて大きなため息をついた。
「はあ……なんてこと……とにかく、危険を感じたらすぐに逃げるのよ。分かった?」
「そんなお嬢様が猛獣みたいな……」
「猛獣の方がまだマシよ」
キャリーの言葉に苦笑しつつ、言葉を続けた。
「キャリーさん、そういうわけで、私、今日から一人部屋に移ることになったんです」
「……ああ、聞いたわ。寂しくなるわね。でも本当にお願いだから、危ない時はすぐに逃げてね」
「はい」
レベッカが再び安心させるように笑うが、キャリーはまだ心配そうな顔をしていた。
レベッカに新しく与えられた一人部屋は伯爵令嬢・ウェンディの部屋に近い、広く立派な一室だった。どう考えてもメイドには不相応な部屋だ。
「……」
ウェンディは、何か用事がある時は呼び鈴を鳴らすそうなので、それが聞こえたら部屋へと向かわなければならないらしい。だからこそ、この無駄に広いが、ウェンディの部屋から近い部屋を与えられたのだろう。
「お嬢様は呼び鈴を鳴らすことはほとんどないから。だから大丈夫よ」
メイド長が誤魔化すようにそう説明した。一人部屋をもらえたのは嬉しいが、なんだか騙されたような気がする。
「疲れた……」
仕事が全て終わり、新しい部屋のベッドで寝転がる。今まで使っていたベッドより、ずっと高級なベッドだ。フカフカして心地いいが、なんだか落ち着かない。しばらく天井を眺め、目を閉じて大きなため息をつく。
「まあ、なるようになるか……」
キャリーが言った通り、自分は呑気すぎるのだろう。でももう後戻りはできない。悩んでいても仕方ないのだから、前に進むしかないじゃないか。
そう考えながら、いつの間にか意識が遠くなっていった。
ウェンディのお世話係は、予想はしていたが、やはりそんなに難しい仕事ではなかった。食事や必要な物の運搬、部屋の掃除や風呂の用意、後片付けをする毎日だ。他の使用人は遠くから気の毒そうにレベッカを見てくるが、そんな視線にも慣れた。ウェンディはレベッカが部屋に入ってくると、大抵シーツで全身を覆い、部屋の隅で背中を向けてじっとしていた。
「掃除に参りました」
「うん」
ほとんど声は出さず、目を合わせようともしない。レベッカの呼び掛けに小さく返事を返すだけで、自分から話しかけてくることはなかった。
ただ、レベッカに何か言いたいことがあるのか、時々チラチラとこちらを見てくるのが気になっていた。
そんなぎこちない関係が変わったのは、ウェンディのお世話係になって1ヶ月ほど経った時だった。
「掃除に参りました」
いつも通り、扉をノックしながら声をかける。
「うん」
小さな返事が聞こえたので、扉を開けて入る。
ウェンディはいつも通り、シーツにくるまれて部屋の隅に座っていた。しかし、
「あっ」
思わず声が出る。どうやら本を読んでいたらしく、ウェンディのそばには大きな本が置いてあった。その表紙に見覚えがあったため、つい話しかけてしまった。
「その本、面白いですよね」
その瞬間、ウェンディの背中が震えた。ゆっくりとレベッカの方を振り返る。
「し、しってるの?」
「はい。昔、読んだことありますよ」
その本はいろんな国の童話がまとめられた児童書だった。有名な本ではないが、滑稽で珍しい物語がたくさん収録されており、読みやすくまとめられていて面白い本だった。
「私は雪のお姫様の話が好きなんです」
幼い時から、本を読むことが大好きだった。実家では一人の時間が多かったため、大抵本を読んで過ごしていた。幸運なことに、祖父に当たる人間がやはり本が好きだったらしく、多くの本が実家の屋敷にはあった。
「わ、わたくしもすき!」
レベッカの言葉にウェンディが目を輝かせた。
「ゆきのおひめさまが、いのちをかけて、だいすきなひとをたすけるのよね」
「悲しくて、すごく胸が締めつけられる話ですよね」
「そう!すごくせつないの!」
「あと、旅人がスプーン一つで巨人を倒すお話もいいですよね」
「そのおはなしもだいすき!でもね、こどもたちがそらにさらわれるおはなしはとってもこわくて――」
夢中で話を続けるウェンディがハッと我に返ったように口をつぐんだ。そしてプイッと再び背中を向け、
「……はやくしごとをおわらせて」
とぶっきらぼうに言い放った。
「……はい」
レベッカは短く返事をして、いつも通り掃除を始めた。
掃除をしながら、こっそりと部屋の隅の小さな背中を見つめる。先ほどの、輝くような顔が忘れられない。いつも無表情なので、本当にびっくりした。あんな子どもらしい顔もできるんだ、と思いながら掃除を終わらせた。
「終了しました。失礼しました」
そう言って、部屋から出ていく。ウェンディは何も言わなかった。
「どうなの?お嬢様は」
洗濯室へ立ち寄ると、たまたまキャリーと出会い、そう尋ねられる。レベッカは困ったように首をかしげ、口を開いた。
「……難しい方、ですね」
「まあ、生まれた時からずーっと、ほとんど人と関わらずに生活してきた方だしね」
キャリーは心配そうにレベッカを見つめてきた。
「本当に大丈夫?問題ない?」
「はい。思ったよりも、仕事は難しくないですし」
そう言って笑うと、キャリーは少し安心したように微笑み返した。
それから1週間ほど経ったある夜のこと。
「……天気、悪いなぁ」
その日の仕事を終えて、部屋に戻り、窓から空を見上げる。いつもの星空は見えず、厚い雲が空を覆っていた。
「今日は早く寝よう……」
そう呟き、寝衣に着替えようとしたその時、
「……ん?」
空から、ゴロゴロと唸るような恐ろしい音が聞こえた。雷鳴の音だ。
「……」
静かに外の風景を見つめる。
ふと、昔のことを思い出した。小さい頃の、思い出だ。幼い時の自分は雷が恐ろしかった。あまりの恐ろしさに、真夜中にメイドのレベッカの部屋へと駆け込んだ事がある。
『レベッカ!怖い、雷、怖い!』
『まあまあ、お嬢様、大丈夫ですよ。ほら、大きな音がして光るだけです』
『でも、でもね、雷が鳴る夜は――』
雷に怯えながら、泣きじゃくり、レベッカに抱きついた。レベッカは優しく頭を撫でて、その夜はずっと付き添ってくれた。懐かしい思い出だ。
今は、もう雷なんて怖くない。あの頃のように、恐ろしさのあまり、誰かに泣きつくことはない。
だが――
「……」
少し考えて、静かに私室から出る。そのまままっすぐにキッチンへと向かった。幸運なことに、キッチンには顔見知りの料理人が残って仕事をしていた。
「すみません」
そう声をかけると、料理人は少し驚いたような顔をした。
「お、どうした?」
「ミルクと蜂蜜を少しいただけませんか?」
レベッカの言葉に料理人が首をかしげた。
「え?なんで?」
「……少し、必要でして。お願いします」
「まあ、いいよ。ちょっと待って」
そう言って、料理人はキッチンの奥から、ミルクと蜂蜜の入った小さな瓶持ってきてくれた。
「これでいいか?」
「助かります。ありがとうございました」
軽く頭を下げて、ミルクと蜂蜜を抱えてキッチンから出ていった。
そのまままっすぐに目的の部屋へと向かう。その途中で、凄まじい音が轟いて、一瞬立ち止まる。空を裂くように雷が鳴り響いた。
「……」
再び歩き出す。少し足を早めて、階段を昇った。そして、ようやくウェンディの部屋へとたどり着いた。
扉を軽くノックして声をかける。
「……お嬢様、少しよろしいですか」
しばらく返事はなかった。戻ろうか、と一瞬迷ったその時、
「……はいって」
小さな声が聞こえて、扉を開けた。
「失礼します」
そう言いながら扉を開ける。ウェンディはいつもの部屋の隅っこではなく、大きなベッドの上でシーツを被って丸まっていた。
「……なにか、ようじ?」
いつも通り、素っ気ない言葉だ。レベッカが答えようとしたその時、
『ドォーン!!』
目の前が光って、部屋を揺さぶるような轟音が鳴り響いた。その瞬間、ウェンディがビクッと身体を震わせたのを見逃さなかった。轟音が静まった後も、プルプルと震え続けている。
レベッカは苦笑する。思った通りだ。
「お嬢様」
「……な、なに?」
「私、雷が苦手なんです」
その言葉に、ウェンディがシーツの中から顔を出した。戸惑ったようにこちらを見ている。
「――え?」
「雷が、苦手なんです」
再びはっきりと言う。そして、困ったように首をかしげて、言葉を重ねた。
「一人は心細いので、ここにいていいですか?」
レベッカの言葉に、ウェンディは呆然と口を開けた。そして目を泳がせながら、小さく口を開いた。
「……そ、それなら、しかたないわね。ここに、いれば、いいわ」
ウェンディはそう言いながらも、安心したような顔をしていた。レベッカは自分の想像が当たった事を確信し、こっそり苦笑しながら頭を下げた。
「感謝いたします。お嬢様」
きっと、ウェンディは雷が怖いはずだ。そう思ったのは、先日の児童書と、ウェンディとの会話がきっかけだった。
『こどもたちがそらにさらわれるおはなしはとってもこわくて――』
ウェンディの言葉で思い出した。児童書の中に収録されている一編。それは、少し珍しいホラー作品だった。夜、魔物が雷とともに天から地上に降りてくる。そして、子どもたちをさらっていく、という怖い物語だった。児童書にしては恐ろしい描写が印象的で、レベッカも小さい頃初めて読んだ時はトラウマになった。雷が苦手だったのもその物語の影響だ。
あの頃のレベッカのように、きっとウェンディは一人ぼっちで夜の雷に怯えている。それを想像すると、放っておけなかった。余計なことはするべきではない、と分かってはいたが、心配でたまらなかったから、仕事ではないのに、ここに来てしまった。
レベッカはできるだけ優しくウェンディに話しかけた。
「お嬢様、ミルクを飲みませんか?」
「……みるく?」
「はい。蜂蜜入りの、ミルクです。甘くて美味しいですよ」
そう言いながら、ウェンディの返事を待たずに、魔法でミルクを温め、カップに注ぐ。そこに蜂蜜を少し垂らした。周囲に甘い香りが満ちていく。
「どうぞ」
微笑みながら、カップを差し出すと、ウェンディは躊躇ったようにしながらも、手をこちらへと伸ばして、それを受け取った。ウェンディがカップを手に取った拍子に、腕の赤い痣が見えてドキッとした。
ウェンディはカップを手にしばらくそれを見つめていたが、やがてゆっくりとそれを一口飲む。そして、
「――おいしい」
そう言って、少しだけ笑った。その顔がとても可愛らしくて、思わずレベッカも顔が綻んだ。
その時、再び雷鳴が鳴り響いた。同時にウェンディの肩が震え、
「ひっ」
と小さく悲鳴をあげる。そして慌てたように、口を開いた。
「ち、ちがうの。いまのは、すこし、びっくりして――」
「はい。驚きましたね」
レベッカは肩をすくめながら、言葉を続けた。
「でも、大丈夫です。すぐに雷はどこかに行きますよ」
「……ほんとう?」
「はい。寝て、目が覚めたら、もう雷は消えています」
その言葉に、ウェンディが再び安心したような顔をして、またミルクを飲む。そして、ゆっくりと口を開いた。
「じゃ、じゃあ、かみなりがいなくなるまで、ベッカはここにいる?」
「ベッカではなくレベッカです。ええ、はい。一人では心細いので、雷が鳴る間はずっとここにいます」
その言葉に、ウェンディがほんの少し笑ってミルクを飲み干した。
「お嬢様、そろそろお休みの時間ですよ」
レベッカはそう言って、カップを片付け、ウェンディに毛布をかけた。
「さあ、寝てください」
「……ねむれないかも」
ウェンディの不安そうな言葉に少し笑う。きっと雷の音が怖いのだろう。レベッカは少し考え、口を開いた。
「では、子守唄を歌います」
「こもりうた?」
「はい」
小さな声で、子守唄を歌う。有名な子守唄だ。きっと雷の音が気にならなくなり、すぐに眠れると思ったのに、レベッカの歌声を聴いたウェンディが変な顔をした。
「どうされました?」
「……ベッカって、おんちなのね」
「ええっ!そんなまさか!」
思ってもいなかった言葉にショックを受けて、そう言うと、ウェンディが呆れたような顔をした。
「だれにも、なにもいわれなかったの?」
「……誰かの前で、歌ったことはなかったので」
「こんごは、ひとまえでうたうのはひかえたほうがいいわ」
ウェンディが心から哀れむような目で見てきて、レベッカはガックリと肩を落とした。
また、目の前が光り、大きな音が鳴る。ウェンディがまた身体を震わせて、毛布を頭まで被った。
その怯える姿が、幼い頃の自分と重なり、胸が詰まる。そして、自然と手を伸ばして、毛布越しに安心させるように軽く頭を撫でた。ウェンディが毛布の中で身じろいだのが分かった。
「大丈夫ですよ、お嬢様。大丈夫、大丈夫……」
「……べつに、こわくなんてないわ」
「はい。存じております。でも大丈夫ですよ。一人ではありませんからね……大丈夫、大丈夫……」
そのままウェンディを撫で続け、大丈夫という言葉を繰り返す。
いつの間にか、雷の音は聞こえなくなっていた。ウェンディの身体の震えも消えている。無事に眠ったようだ。
レベッカは安心して、ウェンディを起こさないようにしながら、部屋から出ていった。




