約束
朝の光を感じて、レベッカは覚醒した。
「うぅーん……」
ぼんやりと呻く。窓の外で鳥が鳴いている気配がした。
--ああ、早く仕事に行かなくちゃ。でも眠い。すごく、眠い。
「……?」
何だろう。何か違和感がある気がする。
日だまりのような温もりを感じる。まるで、誰かに後ろから抱きしめられているような--
「あれ?」
ハッと目を大きく見開く。寝惚けていた意識も、急速に現実へと切り替わった。
まさか、と思いながら後ろへと視線を向ける。そして、自分の腰に誰かがしがみつくように眠っているウェンディを発見した。
「お嬢様!」
大きな声で呼びかけると、ウェンディがゆっくりと目を開いた。
「……おはよ、ベッカ」
レベッカを上目遣いで見つめながら挨拶をしてくる。
「もう!またこっそり入ってきたんですか?」
レベッカが身体を起こしながらそう言うと、ウェンディもまた目を擦りながら身体を起こしコクンと頷いた。
「ダメですよ。自分のお部屋で寝ないと……」
「……ふん」
レベッカの言葉にウェンディは拗ねたようにそっぽを向いた。
「とにかく、早く戻ってください。朝食を準備しますから……」
レベッカがそう言うと、ウェンディは顔をしかめながらモゾモゾと動き、ベッドから降りた。
「……明日」
ウェンディが小さく声を出し、レベッカは首をかしげた。
「はい?」
「明日、……覚えているわよね?」
「ああ」
レベッカは苦笑しながら頷いた。
「お出かけですよね?はい、もちろん」
ウェンディと約束した日だ。明日はウェンディの希望で、2人で本屋へと行く予定になっていた。
「楽しみですね」
その言葉にウェンディはチラリとレベッカに視線を向ける。そして、
「……ん。私も」
そう呟くと、ゆっくりと立ち上がり、部屋から出ていった。
「……まだ気にしているのかなぁ」
一人になったレベッカは小さく声を出した。例の見合い話はレベッカからポールに断りの返事を入れたため、立ち消えたが、あれからウェンディはなんとなく元気がない。夜中にレベッカの部屋にこっそりと忍び込む回数も増えた。
あの時のウェンディの切羽詰まったような泣き顔を思い出す。レベッカの想像以上に、ウェンディは精神的につらい思いをしたのかもしれない。浅はかな事をしてしまった、と後悔しながらレベッカはメイド服へと着がえた。そのまま、自分の髪を後ろでまとめるために櫛を手に取るが、
「……あっ」
と短く声を出し、その手を止める。鏡の前に立ち、自分の姿を見つめ、眉を寄せた。首筋にはまだ微かに赤い印が残っている。小さくため息をついて、首筋を隠すように髪を整えた。
仕事をする時は少し煩わしく感じるが、仕方ない。
「明日のお出かけが気分転換になるといいけど……」
そう呟きながら、仕事のために部屋から出て足を踏み出した。
「えーっ、断っちゃったんですか!?」
仕事の合間に、ワクワクした様子でレベッカに見合いの話を切り出してきたセイディーに、断ったことを話すと、セイディーは大声をあげた。
「レベッカさん、すごく乗り気だったのに!?」
「いや、別に乗り気だったわけじゃ……」
レベッカは苦笑した。一体メイド達の間にどんな噂が広まっているんだろう。
「なんで断ったんです?何かあったんですか!?もしかして、他に好きな人が……」
「セイディー、落ち着きなさい」
身を乗り出してきたセイディーの頭をパコンと軽く叩いたのはジャンヌだった。
「レベッカさんが困ってるでしょう。あんまり詮索しないの」
「う~、はーい……」
セイディーが唇を尖らせながら座り直す。レベッカが唇の動きだけで“ありがとう”と伝えると、ジャンヌは無言で小さく頷いた。
「あ、そうそう、私、明日はお休みで屋敷にはいないの。悪いけど、仕事は任せるわね」
話題をそらすようにレベッカがそう言うと、ジャンヌが口を開いた。
「どこかに行かれるんですか?」
「うん。お嬢様と街へ行くの」
レベッカの言葉にセイディーとジャンヌは揃って
「えっ」
と、驚いたように声を出した。
「お嬢様、外出するんですか?珍しい……」
「どこに行くんですか?」
セイディーの問いかけに、レベッカは微笑みながら答えた。
「街の本屋さんに行くだけよ。すぐ近くにあるところ。私はその付き添いね」
その言葉にジャンヌが納得したように頷いた。
「……そういえば、お嬢様って相当な本好きでしたね」
「ええ。何か欲しい本があるんだと思うわ」
レベッカが微笑みながらそう言うと、セイディーが何か思い出したような顔をして口を開いた。
「あ、そういえば、クリストファー様も明日お出かけするみたいですよ」
「えっ、そうなの?」
レベッカが聞き返すと、セイディーは頷いた。
「メイド長がチラッと話していました。明日はクリストファー様も不在だからとか言ってて……」
「へえ……お仕事かしら……?」
レベッカがそう呟いたその時、
「レベッカ、セイディー、ジャンヌ!ちょっとこっちの仕事を手伝ってくれない?」
メイド仲間の声が聞こえた。3人は、
「はーい!」
と返事をしながら慌てて立ち上がると、仕事に戻っていった。
次の日、レベッカは外出用の服に着がえ、荷物を手に取ると、ウェンディの部屋へと向かった。
「……失礼します、お嬢様」
ノックをしてから、部屋に入ると、ウェンディも既に上品な青色の外出着を身に付けていた。鏡の前に座っている。
「ベッカ、準備できた?」
「はい」
「じゃあ、適当に髪を整えてくれる?」
ウェンディの言葉にレベッカは、
「承知しました」
と言って、ウェンディに近づいた。そのまま後ろへ立ち、金色に輝く髪を手に取る。
櫛を手に取り、髪を優しくとかす。
「相変わらず綺麗な髪ですね」
レベッカが話しかけるが、ウェンディは軽く頷くだけで何も答えない。鏡に映るウェンディの表情はやや張り詰めている気がした。
「今日の髪型はどうされます?」
「……結んで」
ウェンディがそう言いながら、リボンを差し出してきた。それを見たレベッカは顔を綻ばせた。レベッカが数年前に初めてプレゼントしたレースのリボンだ。
「それじゃあ、飛びっきり可愛く結びましょうね」
レベッカが弾んだ声を出す。ウェンディは、
「……そんなに気合い入れなくても……すぐそこの本屋に行くだけなんだから」
そう言いながら、ようやく少しだけ笑った。
髪を後ろでまとめ、最後にリボンを結ぶ。
「はい、できました」
レベッカが声をかけると、ウェンディは鏡で自分の姿を確認してから、ゆっくり立ち上がった。
「それでは、行きましょうか」
「うん……」
街の本屋は、屋敷から比較的近い場所にある。馬車を使うことも考えたが、ウェンディが首を横に振った。
「すぐ近くでしょ……歩いて行くから」
メイド長は渋い顔をしていたが、ウェンディはそれを振り払うようにレベッカの腕を掴むと、強く引っ張る。そのまま屋敷の外へと出た。
「外に出るのは久しぶりですね」
「うん……」
レベッカが声をかけると、ウェンディは軽く頷いた。ウェンディは普段から屋敷に引きこもりがちだ。呪いの痣はもう身体に刻まれていないが、それでも外に出ることはほとんどない。恐らく人と関わるのが苦手ということもあるが、根本的にあまり外の世界に興味がないのだろうな、とレベッカは推測していた。ウェンディが屋敷から出るのは、どうしても外に出なければならない用事が出来た時だけだ。それもほとんどないが。
隣を歩くウェンディの顔をチラリと見る。その表情は緊張しているように、固い。顔色も少し悪い気がする。
レベッカはウェンディの方へと手を伸ばした。そのまま安心させるように、手を優しく握る。ウェンディはハッとしたようにレベッカを見上げてきた。
「お嬢様、私、今日を本当に楽しみにしていたんですよ」
レベッカが話しかけると、ウェンディは小さな声を出した。
「……そう、なの?」
「はい。お嬢様におすすめの本を教えてもらいたくて」
レベッカの言葉に、ウェンディは噴き出した。
「ベッカ、いつも本のことばっかりね」
「お嬢様に言われたくないですよー。今日は何の本を買いたいんですか?」
「今日発売する小説……早く読みたかったの」
「どんなお話なんですか?」
「えーと……」
2人で手を繋ぎながら歩き続けていると、ウェンディの緊張は徐々に解けていく。目的地に到着した頃には、表情も少し明るくなっていた。
小さな本屋に入ると、ウェンディはソワソワしながら、本棚に眠るたくさんの本を見渡した。
「お嬢様のお目当てはどれですか?」
レベッカが声をかけると、
「これ!」
ウェンディが一冊の本を手に取った。
「新聞に連載していたの。面白いのよ!」
楽しそうなウェンディの姿に、レベッカも微笑みながら口を開いた。
「それでは、それを買いましょうか」
そう言うと、ウェンディは小さく首を横に振った。
「あ、待って。もうちょっといろいろ見せて」
その言葉にレベッカが、
「はい」
と頷くと、ウェンディは再び本棚の前をウロウロ動き回る。その様子を、
--かわいいなぁ
レベッカはそう思いながら、見つめていた。いつも可愛らしいが、本棚の前で楽しそうに好みの本を探すウェンディの姿はいつもより可愛らしく感じた。
やがて、満足した様子のウェンディがレベッカに声をかけてきた。
「待たせてごめんね、ベッカ」
「もうよろしいのですか?」
「うん!」
ウェンディが笑顔で頷く。レベッカも笑い返しながら、2人で会計へと向かった。
会計を済ませ、本屋から外に出ると、ウェンディから話しかけてきた。
「ベッカ、今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ。もう帰りますか?」
「うん。本も買えたし」
「では--」
レベッカが言葉を続けようとしたその時、ウェンディがハッと息を呑んだ。次の瞬間、ウェンディがレベッカの手を強く掴んだ。そのままレベッカを無理矢理引っ張る。
「お、お嬢様?」
「静かに!」
そのまま物陰へと押し込められた。
「あの、どうされ--?」
ウェンディが人差し指を唇に当てる。そのまま、そっと物陰から顔を出した。
「--見て」
「はい?」
レベッカも少しだけ顔を出す。そこには、
「あれ?クリストファー様?」
珍しく、クリストファーが1人で歩いていた。なぜか顔を隠すように、マントのような地味な服を着ている。
「なぜ、ここに--」
「--きっと、この近くでこっそり会うつもりなのね」
何かを知っているようなウェンディの言葉にレベッカは首をかしげた。
「お嬢様?それは一体……?」
「--ついてきて」
ウェンディがクリストファーを素早く追いかける。レベッカも慌てて動いた。
「お、お嬢様!待ってください!」
コソコソと歩く兄を、やはりコソコソと追いかける妹の後をレベッカは困惑しながらもついていった。
「お嬢様、これはマズいのでは……」
「シーッ、ベッカ、うるさい」
レベッカの言葉に構わず、ウェンディはひたすらクリストファーを追いかける。やがて、クリストファーが目的地に到着したのか足を止めた。ウェンディとレベッカも同じく足を止めると、サッと再び素早く物陰に隠れる。
「あの、お嬢様」
「ベッカ、見て」
ウェンディの言葉に、レベッカはクリストファーへと視線を向ける。そして、
「--あっ」
思わず声をあげた。クリストファーに誰かが駆け寄っていくのが見えて、唖然とする。
それは、上品な服を身につけた美しい女性だった。恐らくはレベッカと同じ年くらい。亜麻色の髪がキラキラと輝いている。
2人はお互いに微笑み合いながら少し会話をすると、やがて腕を組みながらどこかへと行ってしまった。
「--帰りましょうか」
その様子を見届けて、ウェンディが口を開いた。
「えっ、あ、あの、追いかけなくていいんですか!?」
レベッカが思わずそう言うと、ウェンディは首を横に振った。
「多分、この後は馬車に乗ってどこかへ行くと思う。そうなると追いかけるのは無理でしょ」
ウェンディは肩をすくめると、そのまま歩き出した。レベッカも慌ててそれに続きながら、ウェンディに話しかけた。
「あ、あのー、今の方は……」
「リゼッテ・ブランフィールド嬢。ブランフィールド子爵の娘」
サラリと答えたウェンディに、レベッカはギョッとした。
「お、お嬢様のお知り合いの方だったんですか!?」
困惑しながらそう尋ねると、ウェンディは呆れたようにレベッカをチラリと見た。
「いいえ。私のお知り合いなわけないでしょ」
「えっ、じゃあなんで--」
「……お兄様が学園にいた時に送られてきた手紙に、何度か出てきたから……見るのは初めてだけど、多分、間違いないと思う……あの人、お兄様の後輩で……お兄様の仲良しの人なの」
ウェンディが顔を伏せながらそう言って、レベッカは唇を引きつらせた。
「そ、そうなんですか……」
しばらく無言になる。レベッカがどう声をかけようか迷っていたその時、ウェンディが口を開いた。
「--あの人、多分、お兄様と結婚すると思う」
「えっ」
「お兄様、あの人の事、好きみたいだし……どこまで話が進んでいるか知らない、けど」
ウェンディがあまりにも心細そうな声を出したため、レベッカは思わず顔を覗き込んだ。ウェンディの表情はとても複雑そうで、寂しげな瞳をしていた。
「……お嬢様」
レベッカはどう言葉をかけたらいいか分からず、しばらくソワソワしていたが、やがてウェンディの手を取った。
「お嬢様!」
ウェンディが眉をひそめながら、レベッカを見上げてきた。
「……なに?」
「ちょっとだけ、私に付き合ってもらえませんか?」
「え?」
「こちらに来てください!!」
「え、ベッカ?どこに行くの?」
困惑したようなウェンディに構わず、レベッカは街中を進んでいった。
「お嬢様にぜひお見せしたい物があるんです」
「なによ、見せたい物って……」
「こっちです」
レベッカがウェンディを連れてきたのは、街中の小さな公園だった。来ている人間は少なく、閑散としている。
「ここって……」
「よく買い物する時に、来るんですよ。いつかお嬢様に見せたいと思ってて……」
レベッカはニッコリと笑いながら、歩みを進めた。やがて、目当ての物が見えて、レベッカは前方を指差した。
「ほら、見てください!!」
ウェンディがそちらへと視線を向ける。そして、
「わあ……」
感嘆したように、声をあげた。レベッカの指差した先には、とても大きな木があった。淡い色の美しい花が咲き誇り、木を彩っている。小さな花びらが、雪のように舞い散っていた。
夢のようなその光景に、ウェンディは目を奪われたように、しばらく無言で見とれた。
「綺麗でしょう?お嬢様に、ぜひお見せしたかったんです」
レベッカはニッコリと笑った。
「この季節の、とても短い期間しか咲かない、珍しいお花なんですよ」
「本当、綺麗……」
ウェンディの言葉にレベッカは大きく頷いた。
「私の、一番好きなお花なんです」
散りゆく花びらを見つめながら、ウェンディも微笑んだ。
「--私も、好きだわ。このお花」
ウェンディの言葉にレベッカはホッとした。どうやら、少しは気分も晴れたようだ。ウェンディはそのままレベッカへ顔を向けると、ゆっくりと言葉を重ねた。
「ありがとう、ベッカ」
その言葉に、レベッカも微笑み返し、頷いた。
「どういたしまして、お嬢様」
フワリと、穏やかで温かい風が吹く。ウェンディは淡く揺れる花へと再び視線を向けながら、
「--外に出るのも、いいものね」
と、ポツリと呟いた。
「このお花、また見にきたいわ」
その言葉にレベッカは困ったように首をかしげた。
「うーん、もうすぐ全部散ってしまいますからね……また来年ですね」
それを聞いたウェンディは、レベッカへと手を伸ばす。そして、ギュッと手を握ってきた。
「それじゃあ、……ベッカ、来年、また私とこのお花を見に来ましょう」
レベッカは大きく頷いた。
「はい、ぜひ!」
「約束よ?忘れないでね」
「はい、もちろん。楽しみにしておきますね」
ウェンディが幸せそうに笑う。レベッカも微笑みながら、ウェンディの小さな手を握り返す。そして、花を満開に咲かせる美しい木を見上げた。
この日のウェンディとの約束を果たすことが出来なくなるなんて、レベッカは思いもしなかった。




