変化
--あの人の事を、語ろうと思う。
私の愛するあの人の事を。
何から語ろうか。
最初に知って欲しいのは、あの人が私にとって、人生でただ一人、特別な女性であるという事だ。
あの人が私の前から消えた今でも、目を閉じればその美しい姿はすぐに甦る。
追憶の中、彼女は一人、丘の上に佇み、空を見つめている。
雪のように白い肌、風になびく金髪、真っ直ぐな緑の瞳。
あの人の全てが、この脳裏に焼き付いている。
私は、決して忘れない。あの人の事を。
私の中で、誰よりも特別であり、そして、誰よりも真っ直ぐで気高くて美しい人。
ウェンディ・ティア・コードウェルという女性は、そんな人だった。
《フリーデリーケ・メイルズの手記より一部抜粋》
◆◆◆
「レベッカさーん!!」
コードウェル邸の廊下にて。
大きな声で名前を呼ばれて、庭に面した窓を拭いていたレベッカは後ろを振り向いた。
レベッカを呼んだのは、最近入ってきたばかりの後輩のメイド、セイディーだった。慌てたようにレベッカの方へと駆け寄ってくる。
「セイディー」
レベッカは咎めるような声を出した。
「廊下を走ってはダメだって何度も言ったでしょう。危ないんだから……」
注意するレベッカに構わず、セイディーは早口で言葉を続けた。
「メイド長が、お嬢様を探しているみたいなんです!どこにもいなくて……、レベッカさんに聞いてこいって!」
「……ああ」
レベッカはセイディーの言葉に思わずため息をつきそうになった。
「……分かった。探してくるって伝えて」
「はい!」
セイディーはハキハキと返事をすると、再び小走りでメイド長の所へと行ってしまった。
レベッカは少し深呼吸をすると、掃除用具を仕舞った。早足で廊下を進み、外へと出る。広大な庭には美しい花が咲いているが、そちらにも目もくれずに、隅っこにある大きな木の方へと進む。
木の下では、小さな少女が膝を抱えて座りこんでいる。レベッカは迷うことなく声をかけた。
「お嬢様」
レベッカの声に反応して、小さな身体がピクリと動く。
「迎えに来ましたよ……戻りましょう」
レベッカの言葉に、12歳になったウェンディ・ティア・コードウェルは顔をしかめながらゆっくりと顔を上げた。
ウェンディの呪いが消えた夜から2年ほど経ち、レベッカの周囲は、様々な事が変化した。
ウェンディはレベッカの予想通り、薄い金髪とエメラルドのように美しい瞳が印象的な、可憐な容貌の少女へと成長した。舌足らずだった言葉遣いも、スラスラと発音できるようになってきた。小柄ではあるが、少しずつ身長も伸びてきて、大人へと近づいている。
「……迎えにこなくても、よかったのに」
唇を尖らせながら、ウェンディはブツブツと声を出した。
「別に、ベッカを待ってたわけじゃないもん……」
「よくそんなこと言えますね」
レベッカは苦笑した。ウェンディは、レベッカがこの時間帯に、庭に面した廊下の掃除をすることを知っている。レベッカが見つけやすいように、ウェンディが庭に隠れたことは明らかだった。
「……どうしてそんなに拗ねているんです?」
レベッカがウェンディの隣に腰を下ろしてそう尋ねると、ウェンディはプイッと顔を背けながら答えた。
「……歴史の勉強とダンスの練習が面倒くさかっただけ」
ウェンディの言葉にレベッカは困ったように首をかしげた。
現在、ウェンディはクリストファーによって多くの家庭教師をつけられ、いろいろなことを学んでいた。元々呪いのせいで引きこもっていたウェンディは貴族の令嬢としてはかなり教育が遅れている状態だった。一般的な知識から始まり、ダンスや音楽や刺繍、伯爵令嬢としてのマナーや嗜みなど、勉強しなければならないことがあまりにも多く、ウェンディは毎日忙しそうにしていた。
「お嬢様、ダンスはともかく、歴史の勉強はお好きじゃないですか」
レベッカの言葉に、ウェンディは再び顔をしかめた。
「お嬢様、何がそんなに不満なんです?私に話してください」
「……」
ウェンディはしばらく無言だったが、やがて諦めたように顔を伏せながら、小さく声を出した。
「……お兄様が」
「クリストファー様が?」
「……今日の夜、お話ししたいって頼んだのに……今日もお仕事があって、ダメだって」
ああ、とレベッカは納得して頷く。
正式にコードウェル家の当主となり、学園を卒業したクリストファーもまた、当主としての仕事が大変らしく、毎日多忙を極めていた。特にここ最近は忙しいらしく、ウェンディと話すどころかほとんど会えない状況が続いている。クリストファー本人もなんとかウェンディと過ごす時間を作ろうとしているようだが、難しいらしく、兄妹の生活は完全にすれ違っていた。
「……仕方ないって、分かってるけど……でも、やっぱり、ちょっとくらいお話ししたい」
小さく呟くウェンディの頭を、レベッカは慰めるように軽く撫で、口を開いた。
「……今夜」
「うん?」
「今夜、一緒にクリストファー様にお手紙を書きましょうか」
「……お手紙?」
「はい」
レベッカはニッコリ微笑んだ。
「直接は難しいかもしれませんが……お手紙で気持ちを伝えてみませんか?前に、クリストファー様が学園生活をしていた時みたいに……お嬢様がお手紙を書いたら、私が渡します。クリストファー様は、必ず読んでくれますよ」
その言葉に、ウェンディの顔が少し明るくなった。
「そう、かな?」
「はい。絶対に」
ウェンディはレベッカの言葉に、少し考えた後、大きく頷いた。
「うん。お手紙、書く!」
「はい」
レベッカも微笑みながら頷くと、ようやくウェンディも笑って立ち上がった。
「ベッカ、今夜、一緒に便箋選んでね」
「はい、もちろん!」
「ホットミルクもね」
「はい!」
「蜂蜜もね」
「はい!」
「それでね、そのままベッカは私のお部屋にお泊まりね」
「はい!――って、いや、ダメですよ、それは……」
思わず勢いで頷いてしまったレベッカは慌てて首を横に振った。
この2年で、ただ一つ変わらないこと、それはレベッカに対するウェンディの態度だ。相変わらず、隙あらばレベッカに身体をくっつけてきて、ベッタリと甘えたがる。そんなウェンディに困りつつ、押しに弱いレベッカはそれを上手く断ることが出来ないでいた。
ウェンディは、レベッカの言葉に今にも舌打ちしそうな表情で腕を組んだ。
「――いいじゃない。どうせ何度も私の部屋で寝てるんだから」
「それは、お嬢様を寝かしつけていたら、ついそのまま私も眠ってしまったからで……本当は絶対にダメなんですよ!メイド長にバレたら何て言われるか……」
「バレないわよ。絶対」
「何を根拠にそんな――」
レベッカが言葉を続けようとしたその時だった。
「レベッカさん」
誰かが駆け寄るように近づいてきた。セイディーと同じくレベッカの後輩のメイド、ジャンヌだ。
「あ、ジャンヌ……」
「メイド長が怒ってましたよ。お嬢様とレベッカさんはどこだって」
それを聞いたレベッカは、慌ててウェンディの手を握り、引っ張った。
「お嬢様、早く戻りましょう!」
「えー……」
「さあ、早く!」
不満そうな声を出すウェンディを宥めながら、レベッカは屋敷へと入っていった。
レベッカがなんとかウェンディを部屋へと戻し、仕事に戻るため、廊下を歩いていたその時だった。
「あっ、レベッカ!」
大きな声が聞こえて、レベッカは振り向く。そして、パッと顔を輝かせ、声を出した。
「キャリーさん!それに……パムちゃん!」
レベッカに向かって近づいてきたのは、キャリーと、キャリーが一年ほど前に生んだ娘、パムだった。
「こんにちは!久しぶりね」
「はい!お元気でしたか?」
レベッカは軽く頭を下げながら感激したように声を出した。キャリーは娘を生んで、仕事を休んでいたため、こうして顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。
「元気よ。私もこの子も」
キャリーがニッコリ笑って、頷いた。
レベッカはキャリーの腕の中できょとんとしている小さな女の子に視線を向けた。キャリーの娘、パメラは一歳になる。周囲の人々からパムという愛称で呼ばれている小さな女の子は、大きな瞳をレベッカに向けてきた。レベッカはその可愛らしさに思わず微笑む。どちらかというと父親であるリードに顔が似ているな、と思いながら、キャリーに言葉をかけた。
「今日はどうしたんですか?」
「仕事の復帰の相談に来たの」
「仕事!復帰するんですね!」
「もちろん。もう少し落ち着いてからになるけどね」
キャリーの言葉にレベッカは頬を緩ませた。
「また一緒に働けるのを楽しみにしています!」
「ええ、私も!」
キャリーも嬉しそうに微笑む。
「それじゃあ、正式に決まったらまた知らせるから、よろしくねー」
そう言いながら、キャリーは手を振りつつ立ち去った。
「お嬢様って、レベッカさんの前だと全然違いますよね」
「うん?」
夜、仕事が一段落し、レベッカがお茶を飲みながら休憩していると、突然セイディーが話しかけてきた。
「違うって?」
「えーと、お嬢様って、ボクやジャンヌが話しかけるとほとんど口を開かなくて……ホント、必要最低限の事しか話してくれないんですよ。でも、レベッカさんの前だと違うなーと思って。ねえ?」
セイディーが隣のジャンヌに同意を求めるように視線を向けた。ジャンヌも同意するように軽く頷きながら、答える。
「……口数が少なくて、顔もほとんど無表情ですしね」
「あっ、そういえば、ボク、お嬢様の笑った顔、見たことないよ!」
セイディーが思い出したように声を上げて、ジャンヌも頷いた。
「ううーん……」
レベッカはカップの中のお茶を見つめながら、少し笑って言葉を続けた。
「……いろいろ、あったから……難しい方なの……でも、笑うとね、すごく、すごく可愛らしいのよ。まるで天使みたいに――ううん、天使よりずっと、ずーっと可愛いの」
レベッカの言葉に、セイディーとジャンヌは顔を見合わせた。
「いろいろって、何が――」
セイディーがレベッカに声をかけてきたが、レベッカは時計を確認して、慌ててお茶を飲み干して立ち上がった。
「ごめん、私、そろそろ行かなくちゃ。じゃあ、また明日ね!」
まずい。気づいたら、ウェンディとの約束の時間を少し過ぎていた。きっとウェンディは苛々しているはずだ。レベッカは焦りながら、バタバタと部屋を出ていく。残されたセイディーとジャンヌは、首をかしげながらその後ろ姿を見送った。
「遅かったじゃない」
ウェンディの部屋に入ると、ウェンディは鋭い視線を向けてきた。
「すみません、お嬢様……」
レベッカは慌てて頭を深く下げる。ウェンディはその姿を見ながら立ち上がると、レベッカの方へと素早く近づいてきた。
「本当に反省しているのかしら?」
「もちろん――」
「じゃあ、体で示して」
その言葉に、レベッカは顔を上げる。ウェンディはレベッカの顔を眺めながら、楽しそうに口を開いた。
「ベッカ、私を抱き締めなさい」
その言葉に、レベッカは困ったように眉を寄せた。
最近ウェンディが自分を抱き締めるよう要求することが増えてきた気がする。
「……あの」
「聞こえなかった?私を、抱きなさい」
「……」
「早く」
レベッカは諦めたようにため息をついた。その場に跪き、ウェンディをそっと抱き寄せる。
「もう、仕方ありませんねぇ」
別に抱き締めるだけなら構わない。しかし、ウェンディも、もう12歳になったのだから、少しレベッカに甘えすぎているような気がするのだ。結局甘えられるままに、いつも抱き締めてしまう自分も悪いのだが。
レベッカが抱き締めると、ウェンディは胸に顔を埋め、大きく息を吸った。そのまま頬擦りをしてくる。そして、幸せそうな声を出した。
「やっぱり、こうしてると落ち着く……」
「……それは、ありがとうございます……?」
なんで私はお礼を言ってるんだろう、とレベッカは思わず頭を抱えそうになった。
「ベッカ、もうちょっと、ギュッてして」
「え、はい……」
ウェンディの言葉に、腕に軽く力を込めた。そのまま安心させるように背中を撫でる。ようやくウェンディは満足したように身体を離した。
「ありがとう、ベッカ」
「……はい」
「んふふ」
ウェンディは声に出して笑うと、そのままレベッカの頬に軽く唇を押し当ててきた。レベッカは驚き、すぐに何とも言えない表情で、頬に触れる。ウェンディは頻繁にレベッカの頬や額にキスをしてくる。親愛のキスだとは分かっているが、何度もされると不思議な気分になるのだ。レベッカが頬に触れながら、困ったように眉を寄せていると、ウェンディは悪戯っぽく自分の唇に人差し指を当てた。
「唇の方がよかった?」
ドキリと心臓が揺れるのを感じた。それを隠すように、レベッカは冷静に言葉を返した。
「……ご冗談を」
その答えにウェンディはつまらないとでも言いたげに、唇を尖らせた。
「それより、お嬢様、お手紙を書くんですよね?そろそろ始めましょう」
「……はーい」
ウェンディが机へと向かい、便箋やペンやインクを取り出す。その姿を見て、レベッカは声をかけた。
「あれ?お嬢様、タイプライターは使わないんですか?」
テーブルの近くには、クリストファーがかつてプレゼントしたタイプライターがある。しかし、それを手に取る様子がないため、レベッカは首をかしげた。ウェンディはやや言いにくそうに口を開いた。
「……いや、あれは……まあ、別にあれを使ってもいいけど……手紙って、やっぱり手書きの方がいいかなって思ったの」
「ああ、なるほど」
レベッカはウェンディの言葉に微笑んだ。
「それじゃあ、文章を考えましょうか」
「あ、その前にミルクお願い」
「承知しました」
レベッカは軽く頭を下げ、ホットミルクの準備を始める。そんなレベッカの姿を、ウェンディは幸せそうな顔で見つめていた。
少し時間が飛びました。第2部もよろしくお願いいたします。




