救われたもの
ウェンディを包む大きな影が揺らめき、また大きくなってきた。その場の空気が一気に凍っていくような感覚に包まれ、タチアナは息を呑む。全身に痛みを感じながら、その恐ろしい呪いの力に戦き、一瞬目を閉じそうになったが必死に耐えた。
「お姉様ぁっ……!」
トゥルーが大きな声をあげながらタチアナに駆け寄ってくる。差し出されたその手を握り、ヨロヨロと立ち上がる。タチアナは苦悩に顔を歪めながら、トゥルーへと口を開いた。
「トゥルー、私の事はいいから、剣を持って準備するんじゃ」
「だけど――」
「早く!!私がなんとかして浄化をする!」
「でも、でも、こんなに暴走しているんですよ!これを鎮めるなんて――」
トゥルーが大きな影に視線を送りながら、狼狽したように叫ぶ。ローレンもまた、真っ青な顔で口を開いた。
「呪いの核が抵抗しているみたいだ……姉さん、とにかく一度考えて……」
「そんな暇はないじゃろう!もう呪いが完成しかけているんじゃ!!」
タチアナの言葉に、クリストファーが一瞬呆然とした後、
「ウェンディ!!」
大声をあげながら、焦ったように黒い影の方へ駆け寄ろうとした。それを、クリストファーのそばにいたエヴァンが再び慌てたように止める。
「クリス!やめるんだ!!」
「エヴァン、離せ!」
クリストファーは必死な顔でエヴァンの手を振り払おうと動く。
「妹が、妹が危険なんだ!僕が助けないと!!」
「やめるんじゃ!!あれに触れたらどうなるか――」
クリストファーに向かってタチアナも叫ぶ。
その時だった。
「えっ」
トゥルーが驚いたような声をあげる。タチアナはその声に思わずそちらへと視線を送り、
「――あ?」
彼女もまた、ポカンと口を開けた。
その場の全員が、その声に反応するようにそちらへと顔を向け、そして呆然とした。
床に落ちていたはずのローレンの剣が、空中に浮かんでいた。暗い部屋の中、青白い光を放ちながら、フワフワと浮いている。
「――姉さん、あんた、あの剣に何をしたんだ?」
ローレンが唇を引きつらせながら、タチアナに問いかける。タチアナは困惑しながらもそれに答えた。
「何もしては、いないぞ、私は……」
次の瞬間、剣は大きく動いた。
「ちょっ、なんだこれ――」
思わずといったように、ローレンが剣を掴んで止めようとするが、剣はローレンの手を簡単に弾いた。
「いってぇ!!」
ローレンの悲鳴を無視するように、剣は空中をさ迷うように揺れる。そして、まるで吸い込まれるように、黒い影の中へと勢いよく飛び込んでいった。
「え、えええぇぇぇっ?何ですか、あれ?」
トゥルーが叫ぶが、その声に答えられる者はいなかった。
◆◆◆
「お嬢様!」
レベッカは必死にウェンディの方へ駆け寄ろうとしていた。しかし、何か透明な壁のようなものに妨害されていて、どうしても近づくことができない。その時、ハイディがこちらへと顔を向けた。
『ここは、私だけの領域』
片手をレベッカの方へと向ける。
『邪魔するのは許さない』
その瞬間、レベッカの身体は、何か見えない力によって強く後ろへと突き飛ばされた。
「キャアッ!」
思わず悲鳴をあげたが、なぜか痛みは感じなかった。
「お、お嬢様!!」
大声をあげながら、再び立ち上がる。必死に考えを巡らせる。
どうすればいいのだろう。ハイディを止めるどころか、近づくことすらできない。ああ、でも、早くしなければ、お嬢様の命が危ない――!
必死になりながら、再び駆け寄ろうとしたその時だった。
“何か”の気配を感じた。
「え?」
思わず、そちらへと視線を向ける。何も見えない。ずっとずっと、暗闇が広がっているだけだ。だけど、確かに感じた。“何か”が近づいてくる。
「――何?」
レベッカが戸惑いながら、声を漏らした時だった。
「あっ」
“それ”がレベッカに向かって飛んでくるようにやって来た。
“それ”はローレンが持ってきた細長い剣だった。剣はレベッカの方へと近づくと、レベッカの目の前で空中にとどまる。まるでレベッカが手に取るのを待つように、その場で浮かんでいた。
レベッカは息を呑むと、迷うことなくそれを手に取った。
剣はレベッカの手を弾くことなく、ピッタリと手に収まる。まるで強力な仲間を得られたような気がして、レベッカは大きく息を吐いた。そして、剣を手に、再び足を踏み出す。
「ウェンディ様!」
剣の使い方なんて、よく知らない。それでも、無我夢中で動かした。目の前にある見えない壁を破るように、剣を振るう。
何も見えないし、何も聞こえなかった。しかし、“ガシャン”と、確かに何かが破壊されるような感覚がした。
『なっ――』
ハイディがそれに反応して、驚いたように目を見開く。レベッカはそのまま走ってハイディへと近付くと、ウェンディの首に手をかけている白い腕を掴んだ。
「手を、離してください……っ!!」
その瞬間、思いもよらない事が起きた。
レベッカが触れたハイディの腕から、不思議な熱が、勢いよく伝わってくるような感覚がした。
「え?」
何かが、レベッカの身体に、流れるように吸い込まれていく。
「これ、これって……」
この温かい不思議な感覚。これが何か、レベッカは知っている。
「これは、」
魔力?そう口に出そうとしたその瞬間、ハイディが悲鳴をあげた。
『あ、ああっ、あああぁあぁぁぁぁっ!!』
ハイディは素早くレベッカの手を振り払った。そのまま、自分の顔を抑える。そして、ウェンディから身体を離すと、後ろへと倒れこんだ。
『ああああああっ――』
「ちょっと!」
思わず、レベッカはハイディの腕に再び触れる。触れた瞬間、再び熱を感じる。それと同時に、不思議な感覚がレベッカを襲った。
ポーレ
あなたのことが、大好き
ごめんね、こんな姉さんで
もっと、いい姉でありたかった
あなたのそばにずっといるべきだった
もっと寄り添うべきだった
そうすることができたのは私だけだったのに
私は、できなかった
心は繋がっている、とそう言ったのは私だったのに
ポーレ
あなたのこと、守ってあげたかった
大好き、大好き、大好き
あなたに、もう一度、会いたいの
ポーレ
まだ私のこと、待っててくれてる――?
◆◆◆
「何が、起きたんだ?」
クリストファーが困惑したように呟く。
剣が影の中に吸い込まれるように消えた。
その場の全員がどうすればいいか分からず戸惑っていたその時、大きな影は、大きくうねり、揺らめき、そして僅かに小さくなった。
「なっ、どうなってるんだ?」
動揺したように声を出すローレンに構わず、タチアナは再び杖を構えた。
「今じゃ!もう一度、浄化をするぞ!!」
そのまま、不思議な動きをしながら杖を振るう。影は一瞬抵抗するような動きはしたが、もう攻撃はしてこない。その動きは、確実に鈍くなっていた。
「よく分からんが、弱っているようじゃ。望みはあるぞ!!」
タチアナが杖を振るいながら、大きく叫ぶ。トゥルーは眉をひそめながら、影を見つめ呟いた。
「一体、あの中で何が起きているのでしょうか――?」
◆◆◆
ハイディの気持ちが、レベッカの脳内に直接伝わってくるような感覚がした。あまりにも切実な想いに胸が痛くなる。
レベッカは震えながら、ハイディから手を離した。
『う、ううぅぅぅぅ』
呻くような声が聞こえる。
ハイディは、その場に踞るようにして泣きじゃくっていた。その姿はあまりにも弱々しくて、小さな子どものようだった。
『もう少し、だったのに――』
泣きじゃくりながら、ハイディが呟く。
『もう少しで、完成だったのに……ポーレ……』
その言葉を聞いたレベッカは、ハイディのそばに座り込み、声をかけた。
「……あなたの、本当の望みは、呪いをかけることなんかじゃない。妹さんに、ポーレさんにもう一度会うこと、ですよね」
ハイディがピクリと肩を揺らす。レベッカはその姿を見つめながら、言葉を重ねた。
「……つらかったですね。苦しかったですね。どんなに無念だったか……」
『あなたに、何が分かるの!!』
ハイディが勢いよく顔を上げ、レベッカに鋭い視線を向けた。
『誰にも理解できはしない!!私の、私達の思いは、誰にも!!』
「――はい。そうかもしれません。だけど……」
レベッカは少しだけ顔を伏せ、言葉を続けた。
「大切な人と、ずっと一緒にいたいという想いは、きっと同じ、だと思うんです……どうか、怨みと怒りに心を支配されないでください……お嬢様を苦しめるのは、もう止めてください……あの方は、何も関係ない。まだ小さな、女の子なんです」
レベッカはその場で大きく頭を下げた。
「……代わりに私の命を差し上げます。ですから、どうか……終わりにしてください。私は……もうあなたにも、苦しんでほしくないんです」
その言葉を聞いたハイディがまた涙を流す。その時だった。
「……ベッカぁ?」
小さな声が聞こえた。レベッカが驚いてそちらに顔を向けると、いつの間にかウェンディがそこに立っていた。
「お、お嬢様……?」
全身に赤黒い痣を刻まれたウェンディは、レベッカとハイディの方へとトコトコと近づいてくる。そして、レベッカの隣に立つと、首をかしげるようにしてハイディを見つめた。
「――あなたね」
突然のウェンディの言葉に、レベッカはきょとんとする。ハイディもまた、眉をひそめた。
「お嬢様?」
「わたくしの中で、ずっと泣いていたのは、あなたね」
まるで確信するようにそう言って、レベッカは驚く。そんなレベッカに構わず、ウェンディは突然ハイディの方へと手を伸ばす。そして包み込むように、ギュッと抱き締めた。
ハイディが困惑したように身体を硬直させる。そんなハイディを安心させるように、ウェンディはゆっくりと口を開いた。
「……わたくしが、かなしかったり、さびしい時はね、ベッカがこうしてギュッとしてくれるの。だから、わたくしも、あなたにそうする。ずっと、こうしたかったの」
レベッカは戸惑いながらも、ウェンディの行動をただ見つめた。ハイディが大きく目を見開くのが見えた。
「わたくしが、できることなら、なんでもするわ。だから、どうか、もう、なかないで。だいじょうぶ、だから……」
ハイディの瞳から、ゆっくりと大粒の雫が流れ落ちた。
それをそばで見守るレベッカは、囁くように声を出した。
「――あなたには、できませんよ」
ハイディがこちらへと視線を向けた。
「……だって、あなたは、本当は、優しい人だから……さっき、あなたに、触れた時に、よく分かりませんけど、……伝わってきたんです。ポーレさんと同じくらい、あなたは、とても、とても、優しい人だから……だから、呪いを、完成させることはできませんよ。……だって、知っているでしょう」
ハイディがウェンディから身体を離す。片手でウェンディを引き寄せながら、レベッカはハイディへと言葉を続けた。
「理不尽な事で、苦しみを受ける気持ちを、あなたは知っているはずです。……だから、もう終わりにしましょう」
ハイディが、涙を流しながら、顔を伏せ、小さく声を漏らした。
『……そうしたら、私は、もう一度、ポーレに会える?』
「――はい、きっと……」
レベッカがそう答えた時、辺りが光に包まれた。
ハイディが微かに安心したような表情をして瞳を閉じる。一方、レベッカはとっさに片手でウェンディを抱き締めた。
「ベッカ!」
「そのまま、動かないでください!!」
悲鳴を上げるウェンディに答えながら、レベッカは強い力で剣を握り直した。
◆◆◆
フラフラになりながらも大きく杖を振るうタチアナの身体を、トゥルーは必死に支えた。
「お姉様っ、大丈夫ですか!?」
「なんとか――ほら、もう少しで浄化が終わるぞ!」
黒い影が徐々に小さくなっていく。それを見つめながら、ローレンがタチアナに声をかけた。
「けど、姉さん、浄化が終わっても、呪いの核を刈り取らなけりゃ、解呪は終わらねえだろ?剣はないし、どうするんだ?」
その言葉を聞いたタチアナが小さく舌打ちをした。
「……っ、この中に剣はあるはずじゃ。浄化が終わったら、なんとかして剣を戻せば――」
その瞬間、パン、と何かが弾けるような声が聞こえた。その衝撃に全員が反射的に目を閉じる。
すぐに目を開いたクリストファーは、大きく叫んだ。
「ウェンディ!!」
部屋の中心にある浴槽の中で、ずぶ濡れになったレベッカが座り込んでいた。片手で剣を手に取り、もう片方の手でウェンディの身体を支えている。ウェンディは意識はないようだが、その胸の辺りから、不思議な小さな光が浮かんでいた。
「ウェンディ!」
「レベッカちゃん!」
クリストファーとエヴァンが近づこうとしたその時、座り込んだまま、レベッカが手を動かす。まるでウェンディの身体から光を切り離すように、剣を振るった。
「あっ……」
タチアナとトゥルーが同時に声をあげた。
「――終わりましたよ」
レベッカが小さく呟いた。
「終わりました……」
光はまるでレベッカに何かを伝えるように小さく輝く。
「……あなたの魂が、どうか今度こそ救われますように」
レベッカがそう囁くと、光はフワリと揺れ、そして消えた。
「ウェンディ!!」
クリストファーが素早く駆け寄ってきた。脇目もふらずに浴槽に飛び込んでくる。
「クリストファー様……」
レベッカがクリストファーにウェンディの身体を差し出す。ウェンディの姿を見て、目を見開いた。
「――これは」
ウェンディの身体から、痣がすっかり消えていた。何も刻まれていない真っ白な肌だ。
「ウェンディ……?」
クリストファーが小さく呼びかけると、ウェンディはその声に反応したようにゆっくりと瞳を開いた。
「……お兄様?」
ぼんやりとしながら声を出す。その声が耳に届いた瞬間、クリストファーは安堵のあまり、その場で涙を流した。
「ウ、ウェンディ……よかった……よかった……本当に……」
そう言いながら泣き崩れるクリストファーを見つめながら、レベッカもまた涙を流す。
そして、その場でゆっくりと崩れるように倒れこんだ。それを見たエヴァンやローレンが慌ててこちらへと駆け寄ってくる。
レベッカはゆっくりと目を閉じた。
どこからか、声が聞こえた。
――姉さん
うん、ポーレ
――姉さん、ずっと一緒にいてくれる?
ええ、もちろんよ。私の、半身。
ここに、いるわ。ずっと、ここにいる。
あなたの、隣にいる。
――姉さんがそばにいてくれないと、寂しくて泣いちゃう……
泣かないで。泣く必要なんて、ない。
絶対に、もう離れないから。
私の、たった1人の妹。
優しいあなたを、もう二度と苦しませることはしない。
ねえ、ポーレ。
世界は、何も優しくないね。
ずっと暗闇のまま。もう何も見えないの。
光は、どこにもない。
だけど、そんな世界でも絶対に不変で、確かなことがあるんだよ。
――姉さん、大好き
ポーレ、ポーレ。
私も、あなたのことが大好きだってこと。
この気持ちは、私だけのもの。絶対に奪われはしない。
だって、私達、生まれる前から一緒だったんだもの。
どんなにつらくても
どんなに痛くても
あなたと一緒にいられるなら、きっと受け止めみせるよ。
ね、ポーレ
――姉さん、ハイディ姉さん
ポーレ、ポーレ
もう、帰ろう。
真っ暗だけど、大丈夫。
今度は、手を繋ぐから、大丈夫。
ポーレ
今度こそ、一緒に帰ろうね。




