ローレンの剣
「まずは、何をすれば?」
クリストファーがタチアナにそう尋ねると、タチアナは少し考えるように顔を伏せたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……まずは身体に植え付けられた呪いを何とかして外に出さねば……それから……呪いを切り離す……やはり難しいか?いや、でも……解呪するにはそれしか……」
タチアナはブツブツと呟き、やがて顔を上げると杖を振り上げた。まるで空中に文字を書くように杖を動かし、最後に大きく振り上げる。次の瞬間、目に見えない何かが、勢いよく飛んでいく気配がした。
「……?今のは?」
キョトンと首をかしげるレベッカに、タチアナが杖を仕舞いながら答えた。
「――気にするな。助っ人を呼んだだけじゃ」
「助っ人?」
「ああ。……私と同じ、“失われた民”の子孫じゃよ」
「えっ」
タチアナの言葉に、トゥルーが大きな声をあげた。
「お姉様以外の、子孫の方ですか?」
「……ああ。……あまり関わりたくはないが……奴が持つ、ある道具が必要なんじゃ」
タチアナは難しい顔をしながらそう答えると、大きく深呼吸をした。
「……恐らくは数時間のうちに“転送”で、奴はここに来るじゃろう。その前に準備を始めるぞ」
タチアナは、家の中にある本の山から、古い一冊を取り出した。それを読みながら何かを羊皮紙に書き記す。
「お前達は、これを調達してこい。なるべく早く、な」
そう言って羊皮紙をクリストファーに突きつける。そこに書かれた文字を読んだクリストファーとエヴァンが眉をひそめた。
「……どうしてこれが必要なんです?」
「あとできちんと説明する。お前達なら調達するのは難しくないはずじゃ。いいからさっさと行ってこい」
クリストファーとエヴァンは戸惑ったような顔をしながらも、立ち上がった。タチアナは今度はレベッカに顔を向けた。
「お前はここに残って、私を手伝っておくれ」
そう命じられるように言われたレベッカは無言でコクンと頷いた。ウェンディのそばにいたかったので心の中ではホッとしていた。
そして、タチアナは最後にトゥルーに視線を向けた。
「お前は、この2人の手伝いをしてこい」
クリストファーとエヴァンの方を手で示す。タチアナの言葉に、
「ええっ、私ですか?」
と、トゥルーは唇を尖らせた。
「私はお姉様のそばにいたいです~」
「うるさい。はよ行け」
淡々と言葉を返すタチアナの様子に拗ねたような顔をしつつ、トゥルーは立ち上がった。
「それじゃあ、行ってくるね。なるべく早く帰るから」
エヴァンは安心させるようにレベッカに向かって微笑んだ。一方クリストファーは真剣な顔をしながら口を開く。
「――レベッカ。妹を頼む」
そう言われたレベッカは深々と頭を下げた。
「承知しました」
クリストファーは軽く頷くと上着を手に取った。
レベッカも見送るために立ち上がったその時だった。
突然強い力でトゥルーに腕を掴まれた。驚いて視線をそちらに向けると、
「……私がいない間、ぜーったいに、お姉様に必要以上に近づかないでくださいね」
トゥルーがレベッカの耳元に唇を近づけてきて、小さく囁く。その瞳はギラギラとした眼光を放っていて、レベッカは思わずギョッとした。
「約束ですよ。ね?」
トゥルーが一方的な約束を述べながら、怖い微笑みを浮かべる。その約束を破ったらどうなるのか聞いてみたかったが、トゥルーの声と視線が恐ろしくて、結局何も聞かずに、レベッカは無言でガクガクと何度も頷いた。
「こちらへ来ておくれ」
タチアナがそう言ってレベッカを部屋の奥に招く。
「まずは、これを洗って欲しい」
タチアナの言葉に、レベッカは戸惑って思わず声をあげた。
「は、はい?」
そこには、小さな浴槽があった。信じられないほど汚れている。
「こ、これですか?」
「……いや、これほど汚れているのは、今までほとんど使ってないからで……別に掃除を怠っていたわけでは……」
言い訳をするようにボソボソと言うタチアナに構わず、レベッカは首をかしげた。
「呪いを解くのに、これが必要なんですか?」
その問いかけにタチアナは難しい顔をしながら、答えた。
「……正確には、呪いを解くというより、身体に植え付けられた呪いを刈り取る、と言った方が正しいが。とにかく、汚れを残さぬよう、これを綺麗にして欲しいんじゃ」
その言葉に、レベッカは不思議に思いながらも頭を下げた。
「承知しました」
タチアナの言っている事はよく分からないが、とにかくウェンディが助かるなら、必要であれば何でもしよう。そう思いながら、レベッカはタチアナに渡された掃除用具を手に取った。
「私はあちらで他の準備をしているからの。終わったら声をかけておくれ」
「はい」
タチアナの言葉に、短く返事をして、レベッカは動き始めた。
タチアナが言っていた通り、浴槽は随分と長い間使用していないらしい。道具を使いながら、全ての汚れを取り除いていく。
しばらく磨き続けることで、ようやく浴槽は本来の輝きを取り戻した。
「タチアナさん、終わりました」
そう言いながら、レベッカが部屋に戻ると、タチアナはウェンディの寝ているベッドの横に座っていた。古い本を熱心に読み込み、何かブツブツ呟いている。
「タチアナさん?」
レベッカが近づきながら声をかけると、今気づいたようにタチアナが顔を上げた。
「タチアナさん、掃除終わりました」
「あ、ああ。すまないな。助かった」
タチアナが慌てたようにそう答える。レベッカはそのままウェンディへと視線を移した。
「お嬢様は……」
「大丈夫じゃよ。まだ呪いは完成していない」
タチアナの言った通り、ウェンディは深く眠っているが表情は穏やかだった。しかし、やはり痣は少しずつ広がってきている。レベッカはその小さな手をゆっくりと握った。
「ウェンディ様……」
名前を呼んでも、その小さな瞳は固く閉じられたまみ、開くことはなかった。
「……解呪は、成功しますか?」
レベッカがタチアナにそう問いかけると、タチアナは顔をしかめて腕を組んだ。
「……正直、厳しいな。あまりにも複雑な呪いじゃ。呪いを、身体から切り離す事ができれば……」
その言葉に、レベッカは顔を伏せた。そんなレベッカを慰めるように、タチアナは言葉を続けた。
「……全力で取り組む。約束する」
その力強い言葉に、レベッカは小さく頷いた。そんなレベッカから顔をそらして、タチアナは立ち上がった。
「――少し休んで、お茶でも飲もう」
「……はい」
タチアナがキッチンへと向かい、カップを取り出す。レベッカもそれに続き、タチアナの隣に立った。
「手伝います」
タチアナはレベッカをチラリと見たが、何も言わなかった。しばらく二人は無言で作業を続ける。
次に口を開いたのはレベッカの方だった。
「――ずっと、ここで、一人で暮らしているんですか?」
そう尋ねると、タチアナはゆっくりと答えた。
「生まれた時からここで暮らしている……元々は祖母と二人暮らしじゃったが、随分と前に祖母は亡くなった。祖母が亡くなった後は、……知人と同居していた……じゃが、その知人も出ていった。それからは、ずっと一人じゃな」
タチアナが少し笑ってそう答える。なんとなく、知人、という言葉に含みがあるような気がした。もしかして、恋人だろうか、と考えていると、今度はタチアナの方がレベッカに問いかけてきた。
「お前はあの娘の使用人、か?」
「はい。……専属のメイドです」
「そうか」
タチアナは短く答えながら、カップにお茶を注いだ。
「――他にも、“失われた人々”の子孫の方はいらっしゃるんですか?」
レベッカの質問にタチアナは困ったような顔をした。
「――ああ。少ないが、子孫は他にもいる。祖母の話によれば……故郷から逃げ出した人々はバラバラに散らばり、様々な所で隠れるように新しい生活を始めた……お互いに連絡を取る事はほとんどないが……」
レベッカはお茶を一口飲むと、さらに質問を続けた。
「今から来る方はどのような方なのですか?」
「奴は少し変わった人間で……かなり遠方に住んでいるが、知らせを受けとればすぐにでも“転送”で飛んでくるはずじゃ」
その時、ガタンと音がして玄関の扉が開いた。
「お待たせしました~」
クリストファー、エヴァン、トゥルーの3人がバタバタと家の中に入ってきた。タチアナが少し驚いたように瞬きをする。
「早かったな。朝になると思っていたが……」
エヴァンが何かが入っているらしい袋を持ち上げて笑った。
「いやあ、それでも、これを集めるには結構苦労したよ。僕じゃなければ無理だったかも」
ヘラヘラと笑うエヴァンに対して、隣のクリストファーが上着を脱ぎながら、
「……こいつが王子で本当によかった。権力のある人間というのは……まったく……でも助かったし……」
などとブツブツ呟いていた。どうやらエヴァンの立場が大いに役に立ったらしい。
「何を集めたんですか?」
レベッカが袋の中を覗き込むと、見たことのない植物や何かの道具が入っていた。
「本当に、普段はなかなか手に入らない物ばかりで苦労しました。エヴァン様の力とか、私やクリストファー様の持つコネとか最大限に利用してなんとか集めたんですよ。“転送”の魔法を使ってあちこち回って、本当に疲れました~」
疲れたようにトゥルーがそう言って、レベッカは首をかしげた。
「これは一体……」
レベッカが問いかけようとしたその時、タチアナがハッと顔を上げて窓の方を向いた。
「お姉様?どうしたのですか?」
トゥルーがタチアナに声をかけた瞬間、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。
タチアナが軽く杖を振るうと、音をたてて扉が開く。
「――よお、姉さん。来たぜ」
そこに立っていたのは、ボロボロのマントを羽織った人物だった。声で男性だとは分かったが、深くフードを被っていて、顔がよく見えない。大きな箱を大切そうに抱えている。
「……ん?」
その箱を目にした瞬間、何か不思議な感覚がした。モヤモヤとした、微かな違和感だ。レベッカは思わず小さく声をあげたが、幸運なことに、誰もそれに気づかなかった。
「久しぶりじゃな。ローレン」
タチアナが声をかけると、ローレンと呼ばれた男性はゆっくりと家の中に足を踏み入れた。
「ああ。懐かしいな。ここに来るのは何年ぶりだろう」
そう言いながら、身に付けていたフードを外す。その姿を見たレベッカは小さく息を呑んだ。クリストファー、エヴァン、トゥルーも驚いたような顔をする。
鋭い藍色の瞳を持つ青年だった。左目に大きな傷があり、薄い唇はほんの僅かに笑みを浮かべている。何よりも目立つのはその短い髪だ。タチアナと同じ、輝くような白銀の髪だった。
「これは、ローレン・ホープ。私と同じ“失われた民”の子孫の一人じゃよ」
タチアナが面倒くさそうな顔で紹介してくれた。ローレンはなぜか少し楽しそうに一同を見回す。
「君がトゥルー?」
そう声をかけられたトゥルーがキョトンとしながら頷いた。
「え、はい、そうですが……なぜ私をご存知なのです?」
その言葉にローレンは顔を綻ばせ、トゥルーの手を握る。そして、ブンブンと勢いよく握手しながら答えた。
「いやあ、ずっと会いたいと思っていたんだ。タチアナは手紙で君の事をしょっちゅう……」
「ローレン!!」
なぜかタチアナが鋭い声をあげてローレンの言葉を遮った。
「そんな事はどうでもよい!例のアレは持ってきたのか!?」
「あ、ああ。言われた通り持ってきたが……何に使うんだ?」
トゥルーから手を離したローレンが不思議そうに問いかける。タチアナは無言でウェンディの寝ているベッドの方へ視線を向けた。ローレンもそちらへと顔を向け、すぐに絶句したように口を開いた。
「――これは……」
「お前も知っているじゃろう。“呪い”じゃよ」
ローレンは困惑したように頭に手を当て、ゆっくりと首を横に振った。
「なん、……これ、え?……本当に?」
うまく言葉にならない様子でウェンディの赤黒い痣を見つめる。
「なんでこの呪いが……どうやって……」
「説明は後じゃ。とにかくこの娘の呪いを刈り取るぞ」
「か、刈り取るって言ったって……姉さん、待ってくれ。そんな方法は……」
戸惑ったようなローレンに構わず、タチアナは再び杖を振るった。ポン、と不思議な音がして、レベッカはそちらに視線を向ける。部屋の真ん中にレベッカが綺麗にした浴槽が出現していた。その中にはたっぷりの水が入っていて、レベッカは驚いて目を見開いた。
「お、お姉様?何をするつもりなんです?」
トゥルーが声をかけると、タチアナは浴槽に近づき、水を撫でるように手を動かした。
「――“呪い”の核を身体から出さねばならん。その核は、元は人の魂の一部じゃ。浄化を行う事で、魂を取り除く」
「……浄化って……そんなこと、出来るんですか?」
クリストファーが尋ねると、タチアナは難しい顔をしながら言葉を続けた。
「恐らくは。お前達に集めさせたのは、浄化の水を作るために必要な物じゃ……元は私の先祖が編み出した魔術じゃからな。方法はきちんと把握しておる」
そう言いながら、タチアナはチラリとクリストファー達が持ってきた袋を見た。一方、ローレンは頭を抱えながら、口を開いた。
「いや、待ってくれ。もしかして、俺に持ってこさせた“アレ”は――」
「……お前の考えている通りじゃよ」
タチアナの言葉に、ローレンは顔をしかめる。その様子を見たレベッカはおずおずと口を開いた。
「あの、……“アレ”とは?」
その問いかけに、ローレンは大きなため息を吐きながら、持ってきた大きな箱を手で示した。
「これの事だ……」
そう言いながら、箱へと手を伸ばし、その蓋を開く。そこに入っていたのは細長い剣だった。
「……うわ」
「ひゃっ」
レベッカとトゥルーが同時に声をあげた。
なぜかその剣が目の前に姿を現した瞬間、形容できない「何か」を感じた。
「こ、これは?」
動揺するトゥルーの姿を、タチアナが興味深そうに見つめながら答えた。
「これは、ローレンの家に伝わる魔法具の一つじゃな。……少々特殊な魔法具じゃ」
「これはね、『魔法そのもの』を断ち切る剣だ」
その場の全員が首をかしげた。
「俺の先祖は独特の魔術で道具を作るのが好きだったらしくてね。俺の家には、先祖が残した道具がまだ残っているんだ。いろいろと特殊すぎる物が……これもその一つだよ。人や物は絶対に切らない。魔法や魔術を断ち切り、破壊することができる」
ローレンが説明してくれたが、話を聞いてもきちんと理解できないレベッカはただ首をかしげた。一方トゥルーは目をキラキラさせてその剣を見つめた。
「そんな道具があるなんて……すごい、ぜひ研究してみたいです」
今にも剣に手を伸ばしそうなトゥルーを止めるようにローレンが言葉を続けた。
「ああ、それと、この剣は使い手を選ぶんだ」
「はい?」
トゥルーが眉をひそめる。ローレンは不意に剣へと手を伸ばした。剣に手が触れた瞬間、バチっと音がしてローレンの指が弾かれた。それを見た全員が驚きで息を呑む。
「すごいだろ。俺ですら触れないんだ……魔力の高い人間だけがこの剣を扱える。魔力の高い人間に、この剣は“語りかけてくる”らしいぜ」
「……?語りかけてくる?何ですか、それ?」
エヴァンが不思議そうに聞き返し、ローレンは困ったように首をかしげた。
「俺もそれはよく分からないんだ。先祖の残した記録には、ただ“語りかけてくる”ってしか記されていなかったからな」
「……魔力の高いお前なら、何か感じたのではないか?」
タチアナがトゥルーに尋ね、トゥルーも戸惑ったように頷いた。
「――ええっと、……語りかけてくる?というのはよく分かりませんが、不思議な感じは、しますね。今も、ずっと続いています。なんというか、こう、とにかく、変な感覚です……」
レベッカはトゥルーのその言葉に、心の中でこっそり納得した。先程から感じている違和感はそれだ。よく分からないが、剣はレベッカとトゥルーに“語りかけて”いる。
「おっ、じゃあ、君ならこれを扱えるだろうな。持ってみるか?」
そう言ってローレンが箱ごと剣をトゥルーに差し出した。トゥルーは躊躇いなくそれに手を伸ばす。難なくその剣に触れると、箱から取り出した。それを見たローレンが感嘆したように声を出した。
「すごいな……箱からこの剣が出たのは初めて見た」
「結構軽いですね。私でも十分に使えそうです」
トゥルーは興味深そうに剣を観察している。それを見たクリストファーがタチアナに声をかけた。
「その剣を使うんですか?」
クリストファーの言葉にタチアナが頷いた。
「ああ。解呪するには、呪いの核を刈り取らねばならん。魂を浄化しようとしたら、必ず呪いは身体から出てくるはずじゃ。それをこの剣で切り離すぞ」
「そんなうまくいくか?」
不安そうなローレンにタチアナが鋭い視線を向けた。
「やるしかないんじゃ」
そして、大きく声をあげた。
「準備をするぞ」
トゥルーとタチアナは古い本を片手に準備を始めた。レベッカにはよく分からない不思議な薬草や花、石、粉などを浴槽に入れている。
「大丈夫でしょうか?」
ウェンディのそばでそれを見守るレベッカが不安そうな声を出す。答えたのはローレンだった。
「信じるんだ。タチアナの姉さんは魔力はそんなに高くはないが……技術に関してはすごいからな」
ローレンの言葉に、待つことしかできないレベッカは頷く。そんなレベッカにローレンは言葉をかけてきた。
「ときに、嬢ちゃん、あんたの名前は?」
「え、あ、レベッカ・リオンです」
「そうか。なあ、レベッカ、ちょっと聞きたいんだが、……さっき俺が剣を出した時、なんか変な顔していたような気がしたんだが……」
ギクリとレベッカは思わず肩を揺らした。ローレンは真剣な顔で言葉を重ねる。
「――もしかして、あの剣が“語りかけて”きたんじゃないか?」
「――まさか」
レベッカは素知らぬ顔で首を横に振った。
「見たこともない不思議な剣だったから、ちょっと驚いただけですよ」
「ふーん、そうか」
ローレンが納得しように頷いたため、レベッカはホッと息をつく。チラリと視線を横に向けると、クリストファーとエヴァンは少し離れた所で何か熱心に話し込んでいた。今の会話を聞かれなかったことに、また安心して小さく息を吐いた。
「よし、できた!」
「完璧ですね!」
その時、ようやくタチアナとトゥルーの言葉が聞こえ、レベッカは素早くそちらへと向かった。
「完成ですか?」
「ああ。あの娘をこちらへ」
タチアナにそう言われ、クリストファーがベッドへと向かう。すぐにウェンディを抱いて戻ってきた。
「お前は剣を」
「はい!」
トゥルーは大きく頷き、剣を手に取った。
「私が浄化の魔法をかける。すぐに呪いの核は外に出てくるはずじゃ。私の言った通り、その剣で斬るんじゃ」
「はい!」
トゥルーの返事にタチアナも頷くと、クリストファーに顔を向けた。
「その娘を、水の中へ」
「……大丈夫、なんですよね?」
クリストファーが顔を強張らせてタチアナに声をかける。タチアナは、真剣な瞳でゆっくりと頷いた。
その瞳を見返し、やがてゆっくりとクリストファーはウェンディを浴槽に入れた。顔以外の全身が水に浸される。それを見届けたタチアナは、
「……全員、下がっていろ」
と囁くように言う。トゥルー以外の全員がその場から少し下がる。そして、タチアナはゆっくりと杖を大きく動かした。
「……あっ」
レベッカは思わず声をあげた。
タチアナが杖を振るった瞬間、“何か”がウェンディの身体から出てきた。
「……なに、これ」
エヴァンの困惑したような声が聞こえる。
“それ”は黒い靄のような、得体の知れない物だった。フワリと視界に広がる“それ”を見て、レベッカは呆然とした。まるで影のように真っ黒で、不気味に蠢いている。
「これが、呪い……こんなのが、ずっとウェンディの身体に……」
クリストファーもまた絶句していた。
「呪い……魂の一部……これが?随分と濁っているな」
ローレンも驚いたように呟いた。
「――これを、斬ればいいんですよね」
トゥルーは黒い靄の出現に少し戸惑っていたようだったが、すぐに自分の役割を思い出したらしく、剣を握り直した。
「それでは、いきますっ!」
そして、トゥルーが動こうとしたその時だった。
突然、黒い靄が大きく動いた。まるでトゥルーを狙うように、靄がトゥルーに向かってくる。
「あっ」
黒い靄は明らかに攻撃するかのように動いた。勢いよくトゥルーが弾き飛ばされる。小柄な身体が家の壁に勢いよくぶつけられた。手から剣が離れて、床に落ちる。
「トゥルー!!」
動揺したようにタチアナが悲鳴をあげた。
「まずい……まずいぞ、これ」
ローレンの顔が青くなり、声は震えていた。
「どういうことですか!?」
レベッカが声をあげた瞬間、靄は再び動き始めた。ウェンディの身体を包むこみ、どんどん大きくなっていく。うっすらとウェンディの姿は見えているが、徐々に色濃くなってきた。ローレンが焦ったような声を出す。
「……俺達が考えていたより、ずっと呪いの力は強かった……暴走しているぞ!」
「そんな……っ、ウェンディ!!」
クリストファーが大きく叫ぶ。
「待ってください!もう一度、やりますから……っ」
弾き飛ばされたトゥルーが叫んだ。身体を強く打ったため、ヨロヨロと立ち上がろうとするが、思うように身体が動かないらしい。駆け寄ったタチアナがトゥルーの身体を支えた。
「お姉様、もう一度」
タチアナもまた真っ青な顔で震えながら口を開いた。
「トゥルー、でも……」
「剣を、早く……」
その時、黒い靄がまた大きく動いた。同時に、黒い靄の中のウェンディが瞳を開く。その目は、焦点を失ったように虚ろだった。
「ウェンディ!」
クリストファーの大声が響く。次の瞬間、ウェンディは靄の中で口を開いた。
「――あ、あああああああああぁぁぁぁぁっっっ」
悲鳴のような声がウェンディの口から出た。その顔を、凄まじい勢いで赤黒い痣が侵食する。黒い靄はそのまま色を濃くしていき、瞬く間にウェンディの姿は見えなくなった。
「ウェンディ!」
ウェンディに駆け寄ろうとしたクリストファーの腕を、エヴァンが掴んだ。
「駄目だ、クリス!!」
「離せ!妹が――!」
クリストファーがエヴァンに鋭い視線を向けたその時、レベッカが動いた。
「お、おい!」
慌ててローレンが止めようとするが間に合わなかった。
「お嬢様!」
躊躇することなく浴槽へと飛び込み、靄の中へと入っていく。
「ば、馬鹿!駄目じゃ!!」
タチアナもまた声をあげたが、レベッカは聞いてはいなかった。
黒い靄に入った瞬間、視界が真っ黒に染まる。何も見えない。なぜか、頭を殴られたように、ガンガン痛むような気がした。
「お嬢様、ウェンディ様……っ」
名前を呼んだはずなのに、自分の声が聞こえなかった。暗闇の中で、必死に手で探る。
「ウェンディ様――」
思い切り手を伸ばしたその時、何かに触れた。
「あ――」
一瞬で分かった。間違いない。ウェンディの手だ。
手に触れたそれを強く握りしめる。次の瞬間、レベッカの意識は闇へと落ちていった。
意識が失くなる直前、耳元で確かに声が聞こえた。
「―――ベッカ!」




