新しい生活
屋敷から、そして生まれ育った地から逃げ出し、ひっそりと旅をするのはなかなか大変だったが、それよりも自由になれた解放感の方が大きかった。実家から持ち出した装飾品を売って、寝るところと食べ物をなんとか確保しながら、目立たないように旅を続ける。そして、乗合馬車の乗り場へと向かい、馬車に乗った。行き先は王都方面にすると決めていた。王都かその周りの大きな街なら、きっとすぐに仕事も見つかるだろうと予想していたからだ。
そして予想通り、王都に着いて、すぐに仕事は見つかった。
「……これはメイド、になるのかな」
王都の職業斡旋所に貼られた一枚の張り紙。そこには皿洗いや洗濯をする職員を募集するという内容が記されている。募集しているのはコードウェル伯爵家らしい。
「……ふむ」
一人で頷く。自分はまだ社交界にデビューしていないから、顔は知られていない。伯爵家ではあるが、正体がバレることはないだろうし、何よりも給金がよく、さらに住み込みも可というのが素晴らしい。ある程度の魔法なら使えるし、皿洗いや洗濯なら自分でもできるだろう。
「……ここにしよう」
職業斡旋所の職員にコードウェル家の場所を聞いて、すぐに向かった。
コードウェル家は簡単な面接だけですぐに採用された。採用されたのは嬉しかったが、あまりにも簡単すぎて逆に戸惑う。伯爵家であればもっと細かく面接されて、素性を調査されるかもしれないと少し心配していたのだ。面接の際に、近くの村出身の十五歳で仕事を探しに王都へ来た、と適当に伝えると、面接をした執事は特に深く追究してこなかった。そして、できるのなら今すぐにでも仕事に入ってほしいと言われたので、早速制服を受け取り、案内された台所へと向かった。
「……レベッカ・リオンです。よろしくお願いいたします」
キャロル改め、レベッカ・リオン。自分の新しい名前だ。本名は名乗れないので、愛すべきメイド、レベッカの名前をもらった。
働き始めて、簡単な面接だけですぐに採用された理由が分かった。
とにかく、人手が足りない。
「レベッカ、それ洗って!終わったらこっち手伝って!」
「はーい!」
毎日せわしなく動き回り、手を休める暇もないほど忙しい。毎日するべき仕事が山のようにあるのだ。レベッカの仕事は皿洗いと洗濯のはずだったのに、簡単な魔法が使えるという事が知られると、いつの間にかメイド長に指示されて掃除はもちろん、時には庭仕事もするようになった。
時折コードウェル伯爵やその夫人の顔を見かける事はあったが、下級メイドである自分が直接関わる事はなかった。第一、伯爵夫妻は何やら多忙らしく、ほとんど屋敷に帰ってくることはない。
朝早く起き、夜まで休む間もなく働き、夜遅くに与えられた使用人の部屋へと帰り、泥のように眠る毎日だった。
――なんでここってこんなに働いてる人が少ないんだろう。
その疑問は働き始めて、2ヶ月ほどで分かった。
「――ねえ、今日って……」
「え、ジェーンが休み?嘘でしょ!」
「じゃあ、誰が掃除に行くのよ……」
ある日、朝から他のメイド達がザワザワとしていた。誰もが不安そうな顔で、落ち着きなくソワソワしているのだ。その様子に首をかしげたが、すぐに台所の皿洗いに呼ばれたため、メイド達の様子の事は忘れてしまった。
しかし、昼前になって、突然メイド長が話しかけてきた。
「レベッカ、悪いんだけど、今日はちょっと特殊な仕事を頼みたいの」
「はい、何でしょうか?」
メイド長が話しかけた瞬間、その場の使用人全員の視線を感じた。その視線を不思議に思っていると、メイド長が顔をしかめながら大きなため息をつき、口を開いた。
「お嬢様の、部屋の掃除をしてもらいたいの」
「……え?お嬢様?」
驚いて聞き返すと、メイド長は早口で言葉を続けた。
「いつもはメイドのジェーンがしてくれてるんだけど、……今日は気分が悪くて休んでるのよ。悪いけどお願いね」
「あの、でも……、私でいいんですか?」
伯爵令嬢の部屋なら、下働きの自分ではなくもっと上の立場の使用人がするべきではないだろうか、と考えたが、
「もうあなたしかいないの。じゃあ、頼んだわよ」
メイド長はそう言い放つと、さっさと出ていってしまった。
「あーあ、レベッカ、お気の毒に」
「ごめんね、私達も怖くて……」
他のメイドや使用人達がレベッカから気まずそうに目をそらしながら口々に言う。レベッカは言葉の意味が分からず、周囲の人間に問いかけた。
「あのー、お嬢様の部屋の掃除って、何かあるんですか?」
メイド達が一斉に驚いたような顔をした。
「えー!レベッカ、お嬢様のこと、知らなかったの?」
「あんなに有名な噂なのに?」
その言葉にレベッカが戸惑っていると、近くにいた一人のメイドが、ああ、と声をあげた。
「そっか、レベッカはここに来てまだ日が浅いし、知らないのも仕方ないわね。普段は下働きだし……」
メイドは、レベッカの耳に口を近づけきて、小さな声で囁いた。
「あのね、この家のお嬢様は呪われているの」
「はい?」
意味が分からず眉をひそめたが、メイドは小さな声で言葉を続けた。
「生まれた時から、呪いにかけられたお嬢様なの。手足にね、痣があるの。赤くて、すごく不気味な痣が」
「……痣?」
「今までお嬢様の姿、見たことないでしょ?呪いのせいで、ずーっと自分の部屋に閉じ籠って生活しているからよ。その呪いの痣に触れた人間はね、……呪い殺されるんだって」
殺される、という物騒な言葉に目を見開くと、他のメイドが慌てたような顔をした。
「ちょっと!痣があるのは本当だけど、触ったら殺されるって言うのはただの噂でしょ!」
「えーっ、でも、前に働いていたメイドが、間違って少し触れちゃって、その後寝込んだって言ってたわ」
「ちがうわよ、殺されるんじゃなくて、痣が自分に移るんでしょ?」
よく分からない様々な話にレベッカはどう反応したらいいのか分からず、首をかしげた。
「とにかく、レベッカ。悪いけど、掃除をしてきてちょうだい」
「ジェーンがいつもしてるみたいに、お嬢様に近づかないようにしながら、できるだけ早く掃除を済ませればいいわ」
「お嬢様は掃除をしている間、何にも話しかけてこないらしいから大丈夫よ」
メイド達からそう言われて、押し付けられるように箒やらバケツを持たされる。そして、
「それじゃあ、お願いね!幸運を祈ってるわ!」
背中を押されて、部屋から追い出された。
皆が嫌がる仕事を体よく押し付けられたな、と思いながら、ため息をつく。仕方なく、伯爵令嬢の部屋へ向かうため、階段を昇り始めた。
足を進めながら考える。呪いとは何の事だろう。本当にそんな痣があるのだろうか。もしかして、この家の使用人が異様に少ないのって、その呪いの噂があるせいなのではないか、と思い当たり、頭が痛くなった。
やがて大きな扉の前に到着する。何度か深呼吸をして、扉をノックした。
「――あの、掃除に参りました」
そう声をかけて、返事を待ったが、何も返ってこない。もう一度、扉を叩く。
「掃除に参りました」
さっきよりも大きな声でそう言ったが、やはり返事はなかった。
どうしよう、と考える。返事もないのに勝手に入るのは失礼すぎるだろう。もしかしたらお嬢様は、見知らぬ人間に入ってほしくないのかもしれない。一度戻ってメイド長にどうするべきか確認するべきか―――、
その時、扉の向こうから微かに声がしたような気がした。
「お嬢様?」
何を言っているのか聞き取れない。レベッカは迷いつつも、扉の取っ手に手をかける。躊躇いながら少しだけ押すと、扉は難なく開いた。
「あの、お嬢様?」
声をかけながら、扉の隙間から中を覗き込む。そして、広大な部屋の床に少女が倒れているのが目に入り、目を見開いた。慌てて扉を大きく開けて、中に飛び込む。
「え、あの、大丈夫ですか!?」
少女を抱き起こす。恐らくこの少女が伯爵令嬢だろう、ということはすぐに分かった。飾り気はないが、見るからに高級で上品なワンピースドレスを着ている。薄い金髪が異常に長く、信じられないくらい痩せ細っている、小さな女の子だった。顔色が悪く、身体が熱い。苦しそうに呼吸をしており、時折喉を絞められたような唸り声を上げていた。
「あ、あの、お嬢様!お嬢様!」
何度も呼ぶが、反応はなかった。慌てながら、とにかく目の前の苦しんでいる少女を楽にさせてあげたくて、額に触れる。治癒の魔法はほとんど使ったことはないが、実家で家庭教師に習ったことがあるため、できる自信はあった。目を閉じて、自分の手に魔力を貯めて、集中する。ゆっくりと、身体の熱を下げていった。
うん、上手くいった。ホッとしながら、目を開ける。思った通り、目の前の少女は少し楽になったようで、呼吸状態も穏やかになっていた。まだ顔色は悪いから、医者に見せたほうがいいだろう。
そう思いながら、額を軽く撫でると、少女がぼんやりと目を開いた。信じられないくらい透き通ったエメラルドのような瞳だった。その瞳が、ゆっくりとレベッカの方へ向けられる。
「――だれ?」
掠れたような声に、レベッカはほんの少し微笑んで答えた。
「お嬢様、大丈夫ですか?すぐにお医者様を呼びますからね」
「――あなた、だれ?」
また同じ質問をされて、苦笑しながら答えた。
「メイドのレベッカ・リオンと申します」
「――ベッカ?」
「いえ、レベッカです。とにかく、ベッドに寝ましょう。お運び致しますね」
少女を抱きあげると思った以上に軽くて、また驚く。抱き上げた拍子に、手足が見えて、そこには噂通り赤い痣があって驚いた。本当に不思議な模様の奇妙な痣だ。でも、今はそんなことに構っている暇はない。とにかくベッドに寝かせないと、身体がきついはずだ。ゆっくりと少女を抱いたままと、立ち上がり、そのまま、部屋にある大きなベッドへと寝かせた。
「お嬢様、もう大丈夫ですよ。ゆっくり休んでくださいね」
そう言って安心させるように笑うと、少女は呆けたようにポカンと口を開けた。レベッカは、身体を覆うように毛布をかけ、また口を開いた。
「身体を冷やしたらダメですよ。それじゃあ、ちょっと待っててくださいね」
そのままクルリと背を向けて、足早に部屋から出る。
「――あ、」
後ろで少女が何かを言っていたが、レベッカはそれに気づかず、メイド長の元へと向かった。




