おやすみなさい
「――ハイディがかけた、“呪い”とは何なのか。今でも詳細は分からない」
クリストファーは淡々と感情のこもらない声で話を続けた。
「当時事件を目撃した使用人はウェンディを怖がって、ほとんどが辞めてしまった。……今では、事件の事を知る者は、この屋敷の中でもごく僅かだ」
そして、苦悩するように顔を歪めて、ゆっくりと息を吐いた。
「ウェンディが生まれたその日から、多くの魔術師や医師に見せた。しかし、誰もあんな不気味な痣は見たことがないと言った。僕も、あらゆる文献や資料を探し、目を通したが、身体に痣が出てくるという呪いは、いまだに発見できていない」
クリストファーは周囲の本をチラリと見て、再びレベッカへと顔を向けた。
「これが過去に伯爵家で起きた事件の全てだ。ウェンディの“呪いの痣”は、ある家族の幸せを……伯爵が故意に壊した結果なんだ」
「……そんなの、そんなのって」
クリストファーの話を聞き終わったレベッカは、声を震わせながら叫んだ。
「お嬢様は、ただ巻き添えを食らっただけじゃないですか!」
「ああ、その通りだ」
クリストファーは顔をしかめて頷いた。
「ウェンディは、伯爵の娘というだけで、巻き込まれてしまった」
そして、クリストファーは頭を抱えながら顔を下へと向けた。
「……呪いの痣のせいで、ウェンディは生まれた時から様々な物を失い、諦めてきた。他人から忌み嫌われ、恐れられ、普通の生活を送ることさえできず、ずっと閉じこもったままだ。……ウェンディの母親は、伯爵の女遊びに失望し、更にはそれが事件へと繋がってしまった事に対して激怒した。そして、自分が生んだ娘に不気味な痣が出た事を気味悪がって、屋敷を出ていった。今ではもう、ほとんどここへ帰ってこない。ウェンディは、きっともう、母親の顔さえ覚えていない……」
クリストファーは絞り出すように声を出し、拳を握るとテーブルを強く叩いた。
「ハイディは一つだけ見誤っていた。あの男は、誰よりもクズだ。ハイディは伯爵を苦しめるために、娘であるウェンディを標的にしたが……伯爵は、自分の事しか考えていない。家族の事を何とも思ってなんかいない。血の繋がった子どもでさえ、あの男にとって道具でしかないんだ。自分のせいで娘が苦しんでいるというのに、反省もしていない。見て見ぬふりをして、問題から目をそらしたまま、前と変わらず遊んで暮らしている。僕が問い詰めたら、あのロクデナシは、こう言ったんだ。“自分に呪いがかからなくて本当によかった”って。……この手で、殺してやりたいほど憎いよ……」
怒りの炎を燃やしているクリストファーに、レベッカは恐る恐る尋ねた。
「……あの、この事をお嬢様は――」
「言ってない」
クリストファーは首を横に振った。
「まだ幼いウェンディに、どう事情を話せばいいか分からなくて、……あの子は何も知らないんだ。僕の口から、いつかは説明しなければならないとは分かっているが……」
そして、大きくため息をついた。
「――レベッカ。この事は誰にも言わないでくれ。周囲の人間にはもちろん、ウェンディにも。折を見て、僕からきちんと話すから」
「……はい」
小さく返事をすると、クリストファーは真剣な顔で真っ直ぐにレベッカを見据えて言葉を続けた。
「僕は必ず、呪いの正体を突き止めるつもりだ。そして、必ず、ウェンディを救ってみせる。だからレベッカ、どうか、これからもウェンディを支えてくれ」
「……」
「あの子には、君が必要なんだ。どうか、そばにいてあげてくれ」
「――はい」
レベッカが頷くと、クリストファーは少しだけ唇を緩めた。
◆◆◆
私室へと戻った後、すぐにベッドにもぐり込んだが、全然眠れなかった。目を閉じたまま、物思いに耽り、何度も寝返りを打つ。クリストファーから聞かされた話がグルグルと脳内を駆け巡った。
どうにかしてウェンディにかけられた呪いを解きたい。苦しんでいるウェンディの力になりたい。
だけど、自分に何ができるだろう。そばで支えることしか、できないなんて。
無力感に打ちのめされて、思わず呻きそうになった。何もできないことがこんなにもつらいだなんて。
どうすればいいのだろう。お嬢様のために、自分にも何かできることがあるはずだ。
もしも、できることがあるのなら――
「眠れないの?」
ハッとして、瞳を開く。いつの間にか、ベッドの上にウェンディがいて、不思議そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「お、お嬢様?」
レベッカは驚いて声を出した。
「ベッカがまだ起きているの、めずらしい。いっつも、すーぴー、じゅくすい、してるのに」
ウェンディがクスクスと笑いながらそう言って、レベッカは困ったような顔をしながら身体を起こした。
「またここに来たんですか……?」
「ん。いっしょに、寝ようと思って」
ニッコリ笑うウェンディに、レベッカは小さく息をついて、口を開いた。
「お嬢様、メイドの部屋で主人が寝るのは……」
いつも通り、説教を始めようとしたその時、ウェンディが不思議そうな顔で首をかしげた。
「ベッカ、何かあった?」
「――はい?」
レベッカは言葉を止めて、同じように首をかしげた。
「何か、とは?」
「ベッカ、なんだか、元気ない。何かあった?」
そう指摘されて、レベッカはグッと言葉に詰まる。慌てたように思わずウェンディから顔をそらして、手を振った。
「そんなこと、ありませんよ。ちょっと、その、なんというか、疲れているだけで――」
どう見ても挙動不審に言い訳をするレベッカを、ウェンディは無言で見つめる。そして、
「ベッカ」
「は、はい?」
「ここに、寝て」
突如、ウェンディがそう言いながらベッドの上を指差す。レベッカはキョトンとしながら言葉を返した。
「え?何ですか、突然……」
「いいから、ここに寝なさい!」
「は、はい」
強い口調でそう命令されて、反射的に返事をする。言われた通りその場に横たわった。
「えっと、お嬢様――」
レベッカがウェンディに話しかけたその時、小さな手が伸びてきた。
「――え」
ウェンディが、横たわったレベッカの頭を撫で始めた。優しく労るように、何度も撫でてくれる。
「あの、お嬢様……?」
レベッカが戸惑いながら、目の前のウェンディを見つめると、ウェンディが少し不安そうな表情で口を開いた。
「――ベッカ、これで、元気になる?」
「はい?」
「私は、ベッカにこうやって撫でられたら、とっても、うれしくて、元気になるの。ベッカは、私に撫でられたら、うれしい?元気になる?」
ウェンディの言葉に、胸が詰まった。元気のないレベッカを気遣って、ウェンディはなんとか励まそうとしてくれたのだろう。その気持ちが、心から嬉しくて、涙が出そうになった。
レベッカは少し笑って、口を開いた。
「……本当、ですね。とても、本当にとても元気になりましたよ」
レベッカがそう言うと、ウェンディの顔が輝いた。
「じゃあ、今度から、ベッカが元気がない時は、私が撫でてあげる!」
「……たいへん、嬉しく存じます。ありがとうございます、お嬢様」
レベッカが微笑むと、ウェンディは真剣な顔で大きく頷いた。
ウェンディに頭を撫でられるうちに、目蓋が重くなってきた。強烈な眠気が襲ってくるのを感じて、意識がぼんやりしてくる。
ああ、ダメなのに。お嬢様を部屋へと送らなければならないのに――
そう思ったのに、眠気に逆らえなかった。ゆっくりとレベッカの瞳は完全に閉じられる。
そして、夢の中へと意識は落ちていった。
「……ベッカ?」
完全に眠ってしまったレベッカにウェンディは声をかける。疲れているのか、レベッカはその声に覚醒することもなく、ぐっすりと眠っていた。
「……」
穏やかな寝顔のメイドを、ウェンディは無言で見つめる。そして不意に、レベッカの長い黒髪を一房、掬うように手に取った。そのまま顔に近づけて、瞳を閉じて、髪の匂いを楽しむ。そして、チラリとレベッカの顔に視線を向けた後、自分の唇を髪に押し付けた。軽いリップ音が響く。
レベッカが起きる様子はない。ウェンディは眠り続けるレベッカを見つめながら、髪から手を離した。そのまま、いそいそとベッドへもぐり込み、レベッカに抱きつく。そして、
「――おやすみなさい、ベッカ。いい夢を」
小さく囁いて、幸せそうに微笑みながらゆっくり瞳を閉じた。




