望みをひとつ
「あれ?レベッカ、髪を下ろしているの、珍しいわね。いつも結んでるのに……」
キャリーにそう声をかけられて、レベッカはギクリとしたが、それを顔に出さないようにしながら、落ち着いて答えた。
「たまには気分転換です」
「ふーん」
キャリーはすぐに興味を失くしたように、仕事へと戻る。レベッカは自分の髪で隠した首筋の赤い痕を思い出しながら、ため息をつきそうになった。
お嬢様はなんであんな事をしたのだろう、と考えながら、自分もキッチンへと向かう。歩きながら、ウェンディに舐められた事を思い出して、再びゾクリとした。
あの時の、ウェンディの目。レベッカは自分の指を見つめた。噛まれた時の甘い痛みを思い出すと、また顔が熱くなる。レベッカを噛んだ時のウェンディの目。あれは、まるで、獣のようだ、と思ってしまった。
また身体を震わせて、それを誤魔化すように足を進める。しばらくは髪を結べないな、と思いながらキッチンへと入った。
◆◆◆
指輪の盗難事件から2ヶ月ほど経ち、ようやく何人か新しい使用人が雇われ、レベッカの周囲も落ち着いてきた。
「失礼します」
仕事のためにウェンディの部屋に入った瞬間、ガチャンガチャンと金属音が耳に入る。音の方へ視線を向けると、ウェンディが久しぶりにタイプライターを動かしていた。その周囲には何枚かの紙が散らばっている。
「お嬢様、お掃除に参りました」
「うん」
レベッカが声をかけると、ウェンディは簡単な返事をしたが、タイプライターから顔を上げなかった。その様子に首をかしげながら、ウェンディにそっと近づく。床に散らばる紙を手に取ったその時、
「ダメっ!!」
ウェンディが慌てたように、レベッカの手から紙を奪い取った。
「みちゃダメっ!!」
「えっ?」
ウェンディが素早く周囲の紙を拾い集め、レベッカから隠すように引き出しに入れる。その様子に、レベッカは驚きながら口を開いた。
「お嬢様?どうしたんですか?」
「……。とにかくっ、ベッカはみちゃダメっ!みたら、おこるから!!」
ウェンディが気まずそうに目をそらす。レベッカはその様子を不思議に思いながらも肩をすくめ、
「承知しました」
そう言って頭を下げ、部屋の掃除を開始した。
レベッカが掃除をしている間に、ウェンディはタイプライターを仕舞う。そして、ぼんやりと掃除をするレベッカを見つめていた。
掃除が終了して、レベッカはウェンディに顔を向けた。
「終了しました」
「ん」
短く返事をするウェンディに、レベッカは思い出したようにポケットから本を出した。少し前にウェンディから借りた本だ。
「お嬢様、本をお返ししますね」
小さな本だが、仕事が忙しくて、読むのに時間がかかってしまった。レベッカがウェンディに本を差し出すと、ウェンディはそれを受け取りながら、
「どうだった?」
と尋ねてきた。
本の感想を求められたレベッカはニッコリ笑いながら、答えた。
「面白かったですね。特に、最後の展開は意外でした。まさか、お姫様が恋に落ちたのが、騎士ではなく魔法使いの方だったとは……」
「そう!でも、すごくすてきな、けつまつだったでしょう?」
「ええ……最後の結婚のシーン、よかったですね」
ウェンディの言葉に同意しながら、レベッカは頷く。ウェンディが貸してくれたこの本の最後は、お姫様と、彼女が愛する魔法使いが結婚式で口づけを交わすシーンで締め括られていた。
「素敵なお話でした。感動しましたね」
レベッカが物語のラストシーンを思い出しながら感想を述べると、ウェンディも楽しそうに頷く。しかし、
「私もあんな結婚をしたいものです」
すぐに続いたレベッカの感想に、ウェンディの顔が歪んだ。そのまま小さく声を漏らす。
「――け、」
「え?」
「けっこん……?」
ウェンディが呆然と小さく呟いたため、レベッカは首をかしげた。
「お嬢様?どうされました?」
「なに、……けっこんって、……」
レベッカはウェンディの様子を不思議そうに見つめながら言葉を続けた。
「……?結婚は結婚ですよ。まあ、できるかは分かりませんけど、いつかは誰かと――」
その時、ウェンディがレベッカの言葉を遮るように、勢いよく抱きついてきた。
「お、お嬢様!?」
レベッカが慌てて声をかけると、レベッカのエプロンに顔を埋めたウェンディが口を開いた。
「わ、わたくしから、はなれてしまうの?」
「――お嬢様?」
「ベッカが、わたくしいがいの、だれかのものになってしまうの?」
ウェンディが顔を上げる。その顔は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「――いやっ」
「えっと、……」
「そんなの、ぜったいに、いや……っ、わたくしから、はなれるなんて!!」
ウェンディが瞳を潤ませながら、そう叫ぶ。あまりにも動揺している様子だったため、レベッカはウェンディの肩を優しく抱き締めながら、口を開いた。
「ご安心ください。今のところ、そんな予定はありませんよ」
「……いまのところ?」
「はい。相手もおりませんし……」
そう言いながら苦笑すると、ウェンディが難しい顔をしながら、思い悩むように顔を伏せる。しばらく経った後、顔を上げて、ウェンディが口を開いた。
「……あいてが、できたら、……けっこんする?」
「え?それは、まあ……」
ウェンディが再び顔をしかめた。そして、今度は顔を真っ赤にさせて、レベッカの身体を軽くポカポカと叩き始めた。
「わたくしというものがありながら!なんて、ひどいメイドなの!」
「そんな事を言われましても……」
「ぜったいに、ぜったいに……っ、けっこんなんてゆるさないんだからー!!」
ウェンディの叫びが部屋中に響き渡った。
「あははははっ」
夜、台所にてレベッカが皿洗いをしながらウェンディの話をすると、隣で皿を拭きながらキャリーは楽しげに笑った。
「可愛いじゃない。嫉妬してるのね」
「あれからずーっとご機嫌ナナメなんですよね。どうしたらいいのか……」
レベッカが困り果ててそうこぼすと、キャリーは笑いながらも、レベッカを慰めるように声を出した。
「大丈夫よ。そのうち機嫌も直るでしょ」
「……そうだといいんですけど」
レベッカは少し顔を伏せ、困ったように言葉を重ねた。
「なんだか、……最近、お嬢様の様子が少し変だな、と感じる事が多いんです」
「様子が変?どんな風に?」
キャリーに問いかけられて、レベッカは迷いつつも言葉を選ぶように答えた。
「なんと言いますか……すごく変な目でこちらを見てきて……頻繁に私の体に触れたがるし……あちらの方からも、よく体をくっつけてきて……それに――」
食べられそうになった、と続けそうになり、慌てて口をつぐむ。キャリーは不思議そうに首をかしげていたが、やがて、
「別にいいんじゃない?」
「えっ……」
あっけらかんと、そう言い放ったため、レベッカはそちらに顔を向けた。キャリーは肩をすくめて、言葉を続けた。
「だって、お嬢様って、クリストファー様以外に、誰も甘えられる人がいなかったんでしょ?きっと、ずーっと無理して、我慢してたんじゃない?だから、きっとレベッカに甘えたいのよ」
「……甘えたい、ですか」
「好きなだけ甘えさせてあげれば?そのうち満足して、治まるわよ、きっと」
キャリーの言葉に、レベッカは皿を洗う手を止めた。そのまま再び顔を伏せる。
キャリーの言う通りだ。ウェンディはまだまだ子どもだ。時折大人びた言動を見せるが、たった9歳の女の子だ。それも、ほとんどの時間をひとりぼっちで過ごしてきた。世界から孤立して、誰も受け入れてくれる人間がいなかった。
レベッカと関わる事で、ウェンディの中に甘えたい欲求が出てきたのだろう。
自分は、ウェンディの専属メイドだ。主人の心と向き合い、受け止めるべきだ。
レベッカは大きく頷くと、キャリーに向き直った。
「ありがとうございます、キャリーさん。私、頑張ります!」
気合いを込めるようにそう言ったレベッカに、キャリーは、
「その意気よ。どーんと構えて、頑張りなさい」
笑いながら、レベッカの背中を軽く叩いた。
夜遅く、いつも通りチリンと呼び鈴が鳴る。レベッカはミルクと蜂蜜を手に取ると、張り切ったように部屋から足を踏み出した。
「失礼します」
レベッカが部屋に入ると、自分が呼び出したというのにウェンディは怒ったような顔で出迎えた。
どうやら、例の結婚の話でまだ怒っているらしい。レベッカは苦笑しながら、ウェンディに近づき、声をかけた。
「お嬢様、ミルクですよね?すぐに準備いたしますね」
「……」
ウェンディは何も答えない。ベッドの上で膝を抱えて、レベッカを強い視線で見つめてきた。
レベッカは困った顔をしながら、ミルクを準備する。
「――どうぞ」
カップをウェンディに差し出すと、ウェンディは何も言わずに受け取った。まだ不機嫌そうにしている。レベッカは少し考えてから、ベッドの横にある椅子に腰を下ろす。そして、ミルクを飲むウェンディに声をかけた。
「――お嬢様」
「……」
何も答えてくれなかったが、レベッカは言葉を続けた。
「あの、何でも言うことを聞きますので、許していただけませんか?」
「……なんでも?」
ウェンディがようやく声を出した。レベッカはその事にホッとして、頷いた。
「はい。……私ができることなら、ですけど。お嬢様のお望みを、えーと、……一つだけなら、聞きます。それで、機嫌を直していただけませんか?」
レベッカの言葉に、ウェンディが何度か瞬きをする。そして、少し考えてから口を開いた。
「……じゃあ、きす、して」
「――へあ?」
とんでもない単語が聞こえて、レベッカの口から変な声が飛び出した。
「……き、えーと、え?き、き……?」
頭が真っ白になる。そんなレベッカの様子に構わず、ウェンディが再び口を開いた。
「あの、ほんの、さいご。おひめさまと、まほうつかいがしたみたいに、わたくしに、きす、して」
「え、えー?」
まさかの望みに、レベッカは困惑して眉をひそめた。
「き、きす、ですか……」
「うん。きす」
「……」
「……」
ウェンディが真顔でこちらを見つめてくる。レベッカはオロオロとしながら声を出した。
「えーと、ですね。さすがに、それは……」
「なによ。なんでもっていったのはベッカじゃない」
「あ、はい。そうなんですけど……」
数分前の自分の言葉を後悔しながら、レベッカは必死に言葉を続けた。
「あの、ですね、お嬢様。そういうことはですね、……その、一番好きな人とするんですよ」
「わたくしは、ベッカがいちばんすき」
「あ、そ、そうですか……」
「もんだいないわね。さあ、して」
ウェンディがレベッカに顔を近づけて、瞳を閉じた。
キャリーさん、この場合はどうすればいいんでしょう?
心の中で、その場にいないキャリーに助けを求める。すると、頭の中で、キャリーが出現して親指をグッと立てて、ニッコリ笑った。
『レベッカ、どーんといっちゃえ!』
なんでそんな事いうんですか!と声が出そうになって、慌てて口を閉じた。頭をブンブンと強く横に振ると、頭の中のキャリーは消失した。
目の前のウェンディは目を閉じたまま、レベッカを待っている。
ゴクリと生唾を飲み込む。汗が流れるのを感じた。目を閉じて、深呼吸をする。そして、レベッカは決心したように、瞳を開き、ゆっくりと唇をウェンディに近づけた。
ふわりとウェンディの額に唇を押し当てる。すぐにそれを離して、レベッカは誤魔化すように立ち上がった。
「は、はい、終わりです!」
ウェンディがパッと瞳を開いて、唇を尖らせた。額に手を当てると、
「どうして、ここなの!?ここじゃなくて、ふつうは、おくちでしょ!」
抗議するように声を出した。レベッカは視線をそらしながら、それに答える。
「く、唇にしろとの命令ではありませんでしたので」
「ベッカ!」
ウェンディの怒った声を聞きながら、レベッカは赤くなった顔を手で覆った。
「私にはこれが精一杯、です……お嬢様……」
声がどんどん小さくなる。ウェンディはしばらく黙ってレベッカを見つめていたようだが、やがて大きなため息が聞こえた。
「――わかった。いまは、これでがまんする……」
顔から手を離すと、ウェンディは不満そうにしていたが、こちらを見つめながら口を開いた。
「そのかわり、きょうはわたくしがねむるまで、てをにぎって」
「はい、もちろん」
レベッカはまだ赤い顔を緩めると、ウェンディの手を包むように優しく握る。ウェンディはようやく笑って、そのままベッドの中にもぐり込んだ。
◆◆◆
それから数日経ったある日、
「レベッカ」
後ろから声をかけられて、振り向く。クリストファーの顔を見て、レベッカは驚いて声をあげた。
「クリストファー様?なぜこちらに?学校は――」
レベッカの問いかけに、クリストファーが苦笑しながら答えた。
「ちょっと様子を見るために戻ってきたんだ。あれから、屋敷も大変だっただろう?」
「ああ……」
指輪事件の後の激務を思い出し、レベッカの顔が引きつった。
「それに、ウェンディの顔も見たくて、ね。明日には戻るけれど……」
相変わらず優しくて妹思いだなぁ、とレベッカが考えていると、クリストファーが言葉を重ねた。
「もしよければ一緒にウェンディの部屋に行こう。レベッカに少し話もあるんだ」
クリストファーにそう誘われ、レベッカは迷いつつも小さく頷いた。
2人並んで歩く。クリストファーは足を進めながら、言葉を続けた。
「ウェンディからの手紙で、知ったんだ。最近は部屋の外に出るようになったって。本当かな?」
「あ、はい。そうですね。お出になりますよ。時々、ですが……」
レベッカがそう答えると、クリストファーは安心したような顔をした。
「ああ、よかった。少しでも外に興味を示してくれたみたいで……数ヵ月後には、嫌でも外に出なければならないからね」
「え?」
クリストファーの言葉にキョトンと首をかしげる。外に出なければならない、というのはどういうことだろう?レベッカの疑問を見透かしたように、クリストファーは難しい顔をしながら、言葉を重ねた。
「ウェンディは、10歳になる」
「――あっ」
レベッカはようやく気づいた。10歳になる、という事はこの世界では重要な意味を持つ。
「……魔力測定」
「うん」
クリストファーは億劫な表情をしながら頷いた。
「魔力測定は義務、だからね。流石に無視するわけにはいかない。ウェンディには申し訳ないけれど……」
「――では、測定の会場に、お嬢様は……」
「うん、行かなくてはならない。幸運なことに、ウェンディの誕生日は僕が長期休暇に入っているから、会場には僕も付いていくけどね。……それでも、ウェンディは相当嫌がるだろうなぁ」
クリストファーは困ったような顔でレベッカに視線を向けた。
「その時は、レベッカ。一緒に説得を頼むよ」
「――はい」
レベッカは小さく返事をしながら頷いたが、その時のウェンディの気持ちを想像して、一気に表情が暗くなった。




