食べられる
指輪の盗難事件の翌日、屋敷で働く何人かの使用人やメイド達がレベッカに謝罪をしてきた。彼らはレベッカを無視したり、嫌がらせをした事に関して、心から反省しているようだった。しかし、事件の一因としては、レベッカが屋敷の人間とあまり関わらなかったことや、嫌がらせを受けていることを上の人間に相談もせずに放置していた事も関係している。レベッカもその事を反省をし、彼らの謝罪を受け入れた。
だが、正直に言うと、彼らの謝罪を気にするどころではなかった。
仕事がますます忙しくなったせいだ。ペネロープとその仲間や協力者が捕まり、彼らはもちろん伯爵家を解雇されたため、使用人がますます減少した。元々人手不足だったというのに、事件によって労働力が減ったため、使用人やメイド達は悲鳴をあげた。レベッカも毎日の激務に追われることとなった。
「もう嫌だ、疲れた、休みたい……」
洗濯物を運びながら、キャリーが疲れたように呟く。レベッカはキャリーと同じように洗濯物を手に持ち隣を歩きながら、励ますように声をかけた。
「キャリーさん、洗濯物を干したら、少し休みましょう」
「うぅ……でも、まだ皿洗いが残ってる……」
「私も手伝いますから」
レベッカがそう言うと、キャリーは力なく首を横に振った。
「……ううん、大丈夫よ。なんとかする」
「でも……」
「レベッカ、まだお嬢様の部屋の掃除、残ってるでしょ。行ってあげて」
キャリーの言葉に、レベッカは心配そうに言葉を重ねた。
「でも少しくらいなら……」
「大丈夫よ。それに、レベッカが行かないと――」
キャリーの言葉を遮るように、後ろから声が聞こえた。
「ベッカ!」
振り返ると、ウェンディがパタパタと走ってくるのが見えた。
レベッカとキャリーは顔を見合わせて苦笑した。
指輪盗難事件は意外な方向に影響を及ぼした。
ウェンディが、自分から部屋の外に出るようになったのである。
クリストファーによって、レベッカはウェンディの専属メイドを正式に任命された。しかし、実際は屋敷中の仕事が忙しすぎて、ウェンディの部屋に長く留まるのが難しくなってしまった。慌ただしくウェンディの部屋の掃除や世話を終えると、すぐに次の仕事に向かわなければならない。そのせいで、ウェンディとの交流が前よりも著しく減少してしまったのである。
レベッカとの時間が少なくなってしまったウェンディは、徐々に不満を貯めていった。そして驚くことに、とうとう自分から部屋の外に出て、レベッカの元へと来るようになってしまったのである。今まで、あんなにも外に出るのを拒否していたというのに。
それまでのウェンディは、屋敷の人間の目を恐れていたらしいが、
「なんか、ふっきれた」
そう言って、レベッカを探すために堂々と屋敷中を歩き回るようになった。
当然、周囲の使用人達はウェンディを恐れ、姿を見ると悲鳴をあげたり目をそらす人がほとんどだ。しかし、ウェンディはレベッカしか目に入らない様子で、彼らの事はもはや気にしていなかった。
そうなってくると、使用人達も少しずつウェンディの存在に慣れてきてしまった。話しかけてくる猛者は流石にいないが、最近はウェンディの姿を見てもあからさまに嫌な顔をする人間は明らかに減少してきている。
「お嬢様、こんにちはー」
最初は怖がっていたキャリーもすっかりウェンディに慣れた様子で挨拶をする。ウェンディはキャリーを無視するように、プイッと顔を背け、レベッカのエプロンを握って口を開いた。
「はやく、わたくしのへやに、きて」
「お嬢様。もう少しお待ちください。まだ仕事が――」
「はやく!はやく!」
「この洗濯物を干したらすぐに行きますので」
「そんなの、あとでにして!とにかく、はやくきて!」
「ちょっと待っててください」
駄々をこねるウェンディと、それを穏やかに宥めるレベッカの姿を見て、キャリーは微笑んだ。
「お嬢様、可愛らしいわね」
ウェンディを部屋に戻してから、庭に出て洗濯物を干す。一緒に干していたキャリーがそう声をかけてきて、レベッカも微笑んで頷いた。
「はい」
キャリーは苦笑いをしながら言葉を重ねた。
「最初は私も噂に惑わされて、すごく怖かったけれど……呪いの痣以外は、可愛い女の子ね」
キャリーは少し息を吐いて、ポツリと呟いた。
「きっと大きくなったら、かなりの美人になるわよね。そうしたら、きっとすごくモテて、結婚相手だって選び放題だったでしょうに。もったいないわね」
「……そうですね」
レベッカも同意して頷いた。確かに、ウェンディはまだ幼いというのに、輝くような美貌を持っている。このまま成長すれば、誰もが振り返るような女性になるだろう。
しかし――
「あの痣さえなければねー」
キャリーの言葉に、レベッカは表情を暗くしてうつむいた。
「もうっ、おそい!」
キッチンへ仕事に行くキャリーと分かれ、ウェンディの部屋を訪れると、ウェンディが怒ったように声をかけてきた。
「はやくきなさいと、いったでしょう!」
「申し訳ありません……」
レベッカが頭を下げながら謝ると、ウェンディは頬を膨らませた。
「さいきん、いっつも、おそい!」
「仕事がなかなか終わらなくて……」
「あのキャリーとかいうメイドと、なかよくおしゃべりをしていたんでしょうっ」
ウェンディが強い視線で睨んできたため、レベッカはばつの悪さを誤魔化すように再び頭を下げた。
「申し訳ありません」
謝罪してから、顔を上げると、ウェンディはまだ怒ったようにこちらを見上げている。レベッカは優しく笑うと、しゃがみこみ、ウェンディと視線を合わせた。
「私と早くおしゃべりしたかったんですか?」
「……」
「私も、お嬢様とおしゃべりしたかったです。とっても」
レベッカの言葉にウェンディの口元が緩んだ。レベッカは微笑みながら、首をかしげ言葉を続けた。
「お嬢様、今日は何を読みました?」
レベッカの問いかけに、ウェンディが唇を尖らせる。そして、すぐに口を開いた。
「……あたらしい、ほん。きしが、おひめさまをたすけるために、ぼうけんするの。かいぶつと、たたかう……」
「あら、面白そうですね。私も読みたいです」
レベッカがそう言うと、ウェンディはパッと顔を輝かせて、ベッドの方へ走る。ベッドの上に置いてあった本を掴むと、すぐに戻ってきた。
「これ!よんでみてね!」
「はい。ぜひ」
レベッカは本を受け取り、パラパラとめくりながら言葉を続けた。
「今夜早速読んでみますね」
「うん!」
ウェンディが元気よく頷き、レベッカは笑った。
そんなレベッカにウェンディは微笑み返し、不意にレベッカの手を取った。
「ね、ベッカ」
「はい?」
「こっちに、きて」
ウェンディに手を引かれる。すっかり機嫌は直っているようだった。
「ここ、座って」
「はい?」
ウェンディにソファに座るよう命じられて、レベッカは首をかしげた。
「あの、お嬢様。私、お掃除が――」
「いいから、ちょっとだけ」
ウェンディにそう言われて、不思議そうな顔をしながらも、レベッカはソファに腰を下ろす。
レベッカがソファに座った途端、ウェンディが膝の上に乗ってきた。
「えっ、あの、お嬢様?」
「ごめん、でも、ちょっとだけ」
レベッカの体にギュッと抱きついてきて、ウェンディが囁いた。
「おしごとが、いそがしいの、わかってる。でも――」
子どもらしい体温と甘い匂いに、レベッカは動揺した。そんなレベッカに構わず、ウェンディは言葉を重ねた。
「ひとりじめ、したいの。わたくしの、ベッカ。いまだけでいいから、こうさせて……」
ウェンディの小さな声に、レベッカの胸が詰まった。
「お嬢様は寂しがりやさんですねぇ」
その言葉と同時に、レベッカはウェンディの小さな身体を優しく抱き締めた。
「さびしいわけではないわっ。あなたが、ここにあまりきてくれないから、すこしおこっているだけ!」
ウェンディが今度は怒ったような声を出す。レベッカは笑いながら言葉を返した。
「それが寂しいということでは?」
ウェンディがレベッカの腕の中で身じろぐ。レベッカはウェンディを抱き締めながら、思わずクスクスと笑った。
次の瞬間、
「――痛っ」
首に微かな痛みが走った。
何が起こったか分からなかったが、一瞬の後、ウェンディがレベッカの首を噛んだ事に気づいた。レベッカは狼狽えながら、大きな声を出した。
「な、何をするんです!?」
「――はらが、たったの」
ペロペロと、噛んだ場所を舐められる。その感触にゾクリとした。なんだ、これは。変な気分になって、身体中の力が抜けそうになる。レベッカが困惑している間にも、ウェンディは淡々と声を出した。
「わたくしを、わらうから」
「いや、だからって、噛むなんて……」
レベッカが抗議すると、ウェンディがようやく身体を離した。赤くなったレベッカの首筋を眺め、満足そうに笑う。
「それにね、ベッカのからだ、やわらかくて、たべたくなるの」
「……はい?」
「もっと、なめたい」
ウェンディが今度はレベッカの手を取って、指を咥えた。いつかの夜のように、レベッカの指を優しく噛んで、舐める。チラリと可愛らしい赤い舌が見えた。ウェンディが指を舐めながら、レベッカを見上げる。その視線に、今度は心臓が高鳴るのを感じた。レベッカは慌てて手を引っ込めながら、口を開いた。
「お嬢様!これ以上は禁止ですっ!」
レベッカが厳しくそう言うと、ウェンディがムッと顔をしかめた。
「なんで?」
「な、なんでって……とにかくダメです!!」
「――ベッカはわたくしにたべられるの、イヤ?」
「い、嫌というか――」
なんと答えればいいのか分からなくて、レベッカは口をつぐむ。
その時、ウェンディがレベッカの耳に唇を寄せた。そして、囁くように声を出した。
「わたくしは、とてもたのしいわ」
その囁きにビクリと身体が震えた。レベッカは動揺しながらも、ウェンディを素早く膝から下ろし、立ち上がった。
「本当に、もうダメです!」
叫ぶようにそう言って、強い視線をウェンディに向けた。
「お嬢様、掃除をいたします。もう本当に止めてください」
キッパリとそう言うレベッカに、ウェンディは拗ねたように唇を尖らせながらも、頷いた。
慌ただしく、レベッカは掃除を開始した。まだ動揺が隠しきれず、バタバタと動くメイドを見つめながら、ウェンディが、
「つぎはどこをたべようかなぁ……」
と呟いていたが、幸か不幸かレベッカの耳には入ってこなかった。




