可愛いお嬢様
フリーデリーケ3歳の頃の出来事。
窓を開けると、心地のいい朝風が身体を包み込む。レベッカは深呼吸をしながら空の方へ視線を向けた。星はすっかりと消え去り、白い光が見え始めている。
「よかった……今日は晴れそう」
レベッカが小さく呟いたその時、後ろから声をかけられる。
「ベッカ」
振り向くと同時に、毛糸で作られた上着を肩からかけられる。いつの間にか起きていたらしいウェンディが、腰を落としながら、上着の釦を留めてくれた。
「薄着だと風邪をひいちゃうわ」
「ウェンディ様、もう起きたんですか?」
いつも昼まで寝ているウェンディが朝早くに起きていることに驚く。ウェンディは柔らかく微笑みながら、頷いた。
「ええ、だって……」
ウェンディはフワリとレベッカの額にキスをして、ニッコリ微笑んだ。
「今日はお客様が来る日だもの。準備をしなくちゃね」
その日、ミルバーサ島の屋敷に足を踏み入れたのは2人の人物だった。
「やあ、久しぶり。ウェンディ、レベッカ」
ウェンディの兄、クリストファーは朗らかに笑う。相変わらず美形だ、と思いながらレベッカは軽く頭を下げた。
「お久しぶりです。クリストファー様、……フリーデリーケ様」
頭を上げて、クリストファーと手を繋いでいる小さな女の子に向かってニッコリと微笑んだ。
少女の名前はフリーデリーケ・エヴァ・コードウェル。クリストファーとリゼッテの娘だ。
クリストファーは家族と共に時々ミルバーサ島に遊びに来てくれる。今回、こうしてフリーデリーケと顔を合わせるのはほぼ1年ぶりだ。当たり前だが前回会った時よりも成長している。容姿は全体的にクリストファーにそっくりだ。可愛らしいリボンで彩られた薄い金髪に、透き通るような紫色の瞳、その肌は雪のように白い。恐らくは成長したら絶世の美女になるだろう。
フリーデリーケはレベッカと目が合うと、モジモジとしながらクリストファーの後ろに隠れてしまった。
「こんにちは、お兄様、リーケ」
ウェンディはしゃがみこんでフリーデリーケに声をかける。リーケというのはフリーデリーケの愛称だ。ウェンディが小さく微笑むと、クリストファーの後ろでフリーデリーケはコクリと頷いた。
一方、レベッカは首をかしげながらクリストファーに問いかけた。
「本日はリゼッテ様は……?」
クリストファーがここを訪ねてくる時は大抵はリゼッテと一緒だというのに、今日はいないらしい。クリストファーは苦笑しながら首を横に振った。
「今日は屋敷で留守番してもらってるんだ……しばらくは来れないと思う」
「なんで?」
ウェンディが眉をひそめると、クリストファーは照れたように答えた。
「……今、5ヶ月なんだ」
一瞬意味が分からなかったが、すぐに理解してウェンディは声を出した。
「ああ、2人目……」
レベッカは顔を輝かせた。
「えっ、わあ!!おめでとうございます!!」
ウェンディもすぐに言葉を重ねる。
「おめでとうございます」
恐らくはクリストファーもリゼッテも2人目の子どもを熱望していたのだろう。クリストファーは顔を少し赤くしながら、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。生まれたら今度は4人でここに遊びに来るよ」
「すっごく楽しみです!!」
レベッカがそう言うと、ウェンディも同意するように頷いた。
すぐに玄関からリビングに移って、レベッカがお茶の準備をしていると、フリーデリーケがウェンディの服を軽く引っ張った。
「うん?どうしたの?」
フリーデリーケは何も言わずにモジモジしている。すぐにウェンディは何かに気づいたように「ああ」と声をあげた。
「もしかして、書庫を見たいの?」
以前フリーデリーケがここに来た時に、興味深そうに書庫を見ていたのを思い出して、そう尋ねると、フリーデリーケは小さく頷いた。
「好きに見てきていいわよ。届かない所にある本を見たい時は、私かお父様を呼びなさいね」
ウェンディの言葉に、フリーデリーケは微かに唇を綻ばせると、無言で書庫の方へと向かった。
「……あの子、相変わらず話さないのね」
ウェンディがそう言うと、クリストファーが少し困ったような顔をした。
「ああ……リーケは、その……あまり感情表現が得意じゃないらしい。僕やリゼッテの前だと結構喋るんだけどね……」
クリストファーの言う通り、フリーデリーケはとにかく無口で静かな少女だ。レベッカも何度か顔を合わせたことはあるが、フリーデリーケが声を出した姿はほとんど見たことがない。
「そのうち、たくさん話をするようになるだろうから、今は見守ろうとリゼッテは言ってるけどね……」
クリストファーは思い悩むような表情で腕を組んだ。
そんなクリストファーをまっすぐに見つめながら、ウェンディは優しい声で言葉を紡いだ。
「……フリーデリーケは……お話はしてくれないけど、とても素直でいい子だわ。私やお兄様と同じで本が大好きな子よ……きっと頭の中でたくさんの世界を持ってる、と思う。それを表に出す方法が、まだ分からないだけ」
ウェンディの言葉に、クリストファーは一瞬目を大きく見開く。すぐに嬉しそうに頷いた。
「ああ。僕もそう思ってる。あの子は素晴らしい子だ……僕と妻の宝物だ……」
小さく呟いたその言葉に、レベッカはホッと胸を撫で下ろしながら、お茶とクッキーを運んだ。ウェンディとクリストファーの前にお茶のカップを並べていると、クリストファーが何かを思い出したように声をあげた。
「そういえば、リーケの事なんだけど……剣術を習わせてみようかと思ってるんだ」
「えっ」
ウェンディが驚いたように声を出す。レベッカもお茶をカップに注ぎながら、クリストファーの方へチラリと視線を向けた。
「剣術……?なんで?」
戸惑ったような顔をするウェンディに、クリストファーは苦笑しながら答えた。
「リゼッテの親族……義父や義兄は騎士団に所属しているって前に話しただろう?先日、リゼッテの実家を訪問した時に、リーケが義父の剣にすごく興味を示してね。それで試しに習わせてみようと思って」
「それって大丈夫なの?まだ小さいのに……」
ウェンディの心配そうな声に、クリストファーは大きく頷いた。
「大丈夫だよ。十分に注意するし、怪我をしないよう配慮する。それに、リゼッテの実家ではあの年齢くらいから剣を習わせるのはよくあることらしい」
レベッカとウェンディは思わず顔を合わせた。剣術どころか武器の類いにほとんど触れたことがないレベッカやウェンディにとって未知の世界だ。静かで大人しいフリーデリーケが剣を振り回している姿なんて想像もできない。
「……あの子が楽しめればいいわね」
困惑したウェンディは、一言だけ返してお茶に口をつけた。
クリストファーもカップを手に持ち、頷いた。
「ああ。僕は仕事があるから難しいけど、リゼッテがついてるから、きっと大丈夫さ。剣術の教師も小さい子の扱いに慣れた人だから……」
クリストファーは穏やかに言葉を重ねる。レベッカはクリストファーとウェンディに向かって静かに一礼すると、キッチンへと戻った。
その後も、ウェンディとクリストファーはお互いの近況などを報告し合った。そんな2人にレベッカは気を配りながらも、キッチンにてお菓子の準備を開始した。通いの使用人であるドロシーがケーキを作ってくれている。バターを使ったシンプルなケーキに、クリームやジャムなどを盛り合わせる。できるだけ可愛く、見た目も楽しめるように飾りつけを完成させたその時、ウェンディがキッチンに顔を出した。
「ベッカ、できた?」
「あっ、はい!どうでしょうか?」
レベッカが皿の上のケーキを示すと、ウェンディは大きく頷いた。
「うん。すごくいいと思うわ」
その言葉にホッと胸を撫で下ろした。そんなレベッカにウェンディは笑いかけるとケーキが乗った皿を手に取る。
「それじゃあ、これは私が運ぶから、あなたは書庫に行ってリーケを呼んできてくれる?」
「承知しました」
そのままレベッカはエプロンを脱ぎ、書庫へと足を向けた。
この屋敷の中で恐らくは一番広いのが書庫だ。ウェンディの所蔵するたくさんの本が並べられていて、部屋の真ん中には小さなソファとテーブルがある。所蔵する本は純文学、専門書、児童書、ミステリー、ファンタジーなどジャンルは幅広い。まるで小さな図書館のようだ。いずれもウェンディが気に入った本ばかりである。
ノックをしてから書庫の扉を開けた。
「失礼します……」
フリーデリーケが驚かないように小さく声をかけ、部屋を見渡す。
1つだけある小さな窓からは、温かい光が差し込んでいるのが見えた。フリーデリーケはソファに座らず、部屋の隅で立ったまま大きな本を広げていた。熱心に文字を目で追っている。
「……ふっ」
まるでその姿が幼い時のウェンディにそっくりだったため、レベッカは思わず声に出して笑いそうになった。慌てて声を押さえるように口元を手で覆うと、それに反応したようにフリーデリーケが顔を上げた。
レベッカは軽く頭を下げてから、口を開いた。
「フリーデリーケ様、ウェンディ様がお呼びです」
レベッカの言葉に、フリーデリーケは首をかしげてから無言で頷くと本を閉じる。
「リビングで待ってらっしゃいますよ」
レベッカが扉を開けるとフリーデリーケは素直にそちらへと足を向けた。
しかし、何かに反応したように、その足が不意に止まる。
「フリーデリーケ様?」
レベッカは戸惑うが、フリーデリーケはそれに構わず身体を動かした。
それは、明らかに不自然な動作だった。フリーデリーケはゆっくりと振り向き、そして書庫の窓の方を静かに見つめる。その顔に何も感情は浮かんでいない。
「どうかされましたか?」
レベッカが再び声をかけると、フリーデリーケは顔を伏せてから無言で首を横に振る。そして、そのままたくさんの本から背を向けるように部屋から出ていった。レベッカは困惑しながらも扉を閉め、フリーデリーケの後を追いかけるように付いていった。
レベッカは気づいていなかったが、書庫の外に佇む大きな木の上に小さな鳥が留まっていた。青い海のような瞳を持つその小鳥は、しばらく木の上から屋敷を見つめていたが、やがて静かに飛び去って行った。
「ああ、来たわね」
フリーデリーケがリビングに戻ると、ウェンディが柔らかく微笑む。そのまま手招きすると、フリーデリーケはトコトコとウェンディの方へと近づいた。
「ほら、リーケ、見てごらん」
クリストファーがフリーデリーケを抱き上げて隣に座らせる。テーブルの上にはレベッカが用意した可愛らしいケーキが乗っており、フリーデリーケはキョトンとしながらクリストファーとウェンディの顔を交互に見た。ウェンディが微笑みながら口を開く。
「リーケ、もうすぐあなたのお誕生日でしょう?少し早いけど……私からもお祝いさせてね」
フリーデリーケの誕生日は一週間後だ。その日は当然ながらコードウェル家で盛大なパーティーが開かれることになっている。賑やかな場所が苦手なウェンディは当然ながらそのパーティーには不参加のため、今回の訪問でフリーデリーケの誕生日を一足先にお祝いすることになった。
フリーデリーケはケーキを前に戸惑ったような顔をしていた。
「はい、これ。プレゼント」
ウェンディがそう言いながら、用意していたプレゼントの箱を差し出す。フリーデリーケの代わりにクリストファーがそれを受け取った。
「開けてごらん」
クリストファーがそう言うと、すぐにフリーデリーケは箱にかけられたリボンをほどく。
箱から出てきたのは可愛らしい白い帽子だった。繊細なレースと、紫色のリボンが飾られている。
すぐにフリーデリーケはその帽子を手に取ると、しげしげと見つめた。
「よかったね、リーケ。被ってごらん」
クリストファーの言葉に、フリーデリーケは帽子を頭に乗せる。その姿を見て、クリストファーは目を細めた。
「似合ってるよ、リーケ」
ウェンディも満足そうに頷く。
「ええ、本当に」
レベッカは近くの引き出しから大きめの鏡を取り出すと、フリーデリーケに駆け寄った。そのまま鏡にフリーデリーケを映す。
フリーデリーケは何度も帽子の角度を変えながら鏡の中の自分の姿を見つめた。唇が微かに緩んでいる。どうやら気に入ったらしい。
そんなフリーデリーケの様子がとても微笑ましくて、レベッカも声をかけた。
「お嬢様、すごく似合っていますよ。本当に、とてもお可愛らしいです」
レベッカの言葉に、ウェンディの瞳が一瞬だけ揺れる。だが、その事に誰も気づかなかった。
フリーデリーケの誕生日のお祝いをして、全員でケーキを食べ終えると、もう夕方になってしまった。フリーデリーケは贈られた帽子を身に付け、クリストファーと手を繋いでコードウェル家へと戻っていった。
「……」
夕食の後、レベッカはキッチンにてお茶の準備をする。リビングからウェンディの強い視線を感じる。いつもなら夕食の後、ウェンディは大抵書斎に行って仕事をするか、もしくは読書をする。なのに、なぜか今日はリビングのソファに座ったまま無言でレベッカを見つめている。
「……」
ウェンディはとても何か言いたそうな顔をしている。そして、なぜか分からないが複雑そうに唇を尖らせている。
多分、知らないうちにウェンディが気に入らないことを自分がしてしまったのだろう。そう判断したレベッカは一度だけ目を閉じて天井を仰ぐ。すぐに目を開いてから、覚悟を決めたようにお茶の乗ったトレイを手にリビングに足を踏み入れた。
トレイをテーブルに置きながら、ウェンディに声をかける。
「何ですか?」
ウェンディがピクリと肩を動かし、目をそらした。
「何ですかって、何が?」
「先程からずーっと、とても変なお顔をされてますが、どうされました?」
レベッカがそう問いかけると、ウェンディはむくれたような顔をしながらそばにあったクッションを掴んだ。
「別に、変な顔なんてしてないわ……」
レベッカは小さくため息をついてから、ウェンディの隣に腰を下ろす。そして、ウェンディの頭に手を伸ばすと優しく撫でた。
「ウェンディ様、私が何か嫌なことをしましたか?」
「ちがう」
ウェンディはレベッカの言葉をすぐに否定すると、そのままクッションに顔を埋めた。
しばらく沈黙が流れる。これはもうウェンディは話さないかな、と思ったその時、ようやくウェンディが口を開いた。
「……分かってるけど」
「はい?」
「馬鹿みたいだって分かってるし、すごく狭量だって自覚してるけど……」
ウェンディはクッションで顔を隠したまま言葉を重ねた。
「……あなたが、フリーデリーケのことを“お嬢様”とか“可愛い”とか言ってるのが、すごくイヤ」
「……」
レベッカは言葉を返すことができずポカンと口を開けた。ウェンディの切羽詰まったように言葉を重ねる。
「別に深い意味なんてないって分かってるわ。分かってるけど、あなたが“お嬢様”っていうのも、“可愛い”っていうのも昔から私だけだったのに……っ」
恋人同士になってから、レベッカはウェンディを“お嬢様”とは呼ばずに名前で呼ぶようになった。確かにウェンディ以外を“お嬢様”と呼ぶのは初めてだったかもしれない。
ウェンディはソファの上で顔を隠すように身体を丸めている。レベッカは困惑しながらも、ウェンディの方へと手を伸ばした。
「えーと、ウェンディ様……とりあえず顔を見せてください……」
「イヤ」
ウェンディはモゴモゴと拒否した。
「流石に、小さい姪にまで嫉妬してるのは心が狭いし、ちょっと大人げないって自分でも分かってる……」
「それは……まあその通りなんですけど」
レベッカは思わず正直に言ってしまった。
「今、とても酷い顔してるから...…少し待って……」
小さな声でそう言うウェンディに、レベッカは苦笑すると再び頭を撫でた。
「ウェンディ様、成長しましたねぇ」
「……何よ、それ」
レベッカは昔のウェンディを思い出す。昔のウェンディは、嫉妬するとすぐに行動に移していた。感情に突き動かされ、怒りを露にして、レベッカに食って掛かってきたのをよく覚えている。
クールで冷静に見えるが、内面はとても過激なのだ、この人は。
昔のように怒りに身を任せることをしなくなったのは、大きな進歩と言えるかもしれない。
レベッカはそう思いながら、ウェンディの耳元に唇を寄せ、囁いた。
「キスしたいので顔を上げてください」
「えっ」
レベッカの言葉に驚いたウェンディがパッと顔を上げる。それに笑いながら、ウェンディの唇を塞いだ。レベッカは普段ほとんど自分から積極的に触れることはしないので、ウェンディはとても驚いたような顔をしている。すぐに唇を離し、レベッカは囁いた。
「私の“お嬢様”、世界で一番“可愛い”のはあなたですよ」
再び唇を重ねる。何度も角度を変えて、互いの吐息が絡み合う。全身が熱くなり、痺れるような感覚になった。自然と身体が密着する。ウェンディの腕がレベッカの頭の後ろへと回される。
やがてゆっくりと唇を離すと、ウェンディの顔は真っ赤に染まり、大きな瞳は潤んでいた。
「満足されましたか、“お嬢様”」
レベッカがそう呼ぶと、ウェンディは奇妙な表情をした。まるで何かを耐えるように唇を結び、口元を手で覆う。
「なんか……」
「はい?」
「あなたに、久しぶりに、そんなふうに呼ばれると、昔のことを思い出してムズムズして、あとなんか、すごくゾクゾクする……」
「なんですか、それ…」
レベッカが呆れながらそう言うと、ウェンディは赤い顔のままクスリと笑った。そのままレベッカの手を握ると、ソファに押し倒す。
「ね、今夜はずっと“お嬢様”って呼んでね」
「……はい」
まあそれでウェンディの機嫌が良くなるのならいいだろうと思い、レベッカは頷く。ウェンディは楽しそうに微笑みながら、レベッカの服の釦に手を掛けた。
その後、レベッカはウェンディ以外を“お嬢様”と呼ばなくなり、“可愛い”という褒め言葉は控えるようになった。
ウェンディはレベッカに“お嬢様”と呼ばれると興奮するようになった。




