World12-1「レイナという名」
空は薄黒い雲に覆われて暗く、夜が明けても町の中は薄暗かった。ふらふらと歩いている内に倒れて眠ってしまっていた永久は、朦朧とした意識のまま辺りを見回す。近くの建物にもたれかかるようにして眠っていたらしく、変な態勢で寝てしまったせいか身体のあちこちが痛む。ふと隣を見ると、見窄らしい格好の男が永久のスカートのポケットに手を突っ込もうと手を伸ばしていた。
「あ、いや、はは……何、無事なら良いンだ、はは……」
何かを誤魔化すようにそう言って、男は薄ら笑いしながらそそくさと永久から離れていく。周囲を歩いている人達の格好もさっきの男と大差なく、永久のように道端で眠っている人間もおり、この町の中ではそれ程珍しいことではないようだった。
倒れる前から不快感は続いている。この町並みを眺めるだけで気分が悪いし、頭も痛い。間違いなく永久はこの町の中を歩いたことがあるし、住んでいたような気さえする。それが坂崎神社で暮らす以前の――アンリミテッドクイーンとしての記憶だとすれば、この町は永久の記憶を取り戻すために大きな手がかりになるだろう。
押し込め続けた、厭な記憶を。
この世界はどうも、今まで永久が巡ってきた世界に比べると少し古い時代のようで、携帯や車、テレビと言った文明の利器は見当たらない。車はあるのかも知れないが、この町の住人達が持っているようには思えない。治安は悪いようで、清潔感も感じられない。所謂”貧民街”のような町だった。
そんな町中を歩いている内に、不快感が込み上げてきて足元がふらつく。どうもこの町の中ではまともな気分ではいられない。
またしてもふらりと倒れかけたが、そんな永久を受け止める人物があった。
「あ、ちょっと大丈夫?」
「ご、ごめん、ちょっと気分が悪くて……」
永久を受け止めたのは、赤い三つ編みの少女だった。強気そうな目をしており、ナプキンやエプロンを身に着けていることからどこかの飲食店で働いているのであろうことがわかる。買い物の帰りなのか、左手にはバスケットケースが提げられていた。
「……珍しい格好ね? 町の外から来たの?」
永久のセーラー服が珍しいのか、少女は物珍しそうに永久をジロジロと眺める。
「うん、ちょっとね……」
「ふぅん。わざわざこんな町に何の用事か知らないけど、すんだらさっさと出た方が良いよ」
「そうするね、ありがとう……」
そう答えた永久の顔色が悪いのが気になったのか、少女は心配そうに永久の顔を覗きこむ。
「良かったら、うちで休んでく?」
プチ鏡子も、由愛や英輔もいない今、永久には頼る相手がいない。他に行く宛もなかったため、永久は小さく頷いた。
「うん、ありがとう」
少女の名は、アリエルと言った。
彼女の家はパン屋を営んでおり、中に入るとパンの薫りが鼻孔をくすぐる。
「はい、お腹空いてるでしょ」
入り口のベンチに座る永久に、アリエルはそう言ってフランスパンを差し出す。焼いてからそれ程時間が経っていないのか、まだほんのりと温かい。
「でもこれ、売り物なんじゃ……」
「良いって良いって。困った時はお互い様だって、お父さんの受け売りだけどさ」
「……ありがとう」
アリエルの温かみを噛み締めながら、永久は少しずつパンを咀嚼していく。次元監獄を出てから何も食べていなかったこともあり、パンの味もアリエルの優しさも骨身にしみる。
客は元々あまり多くないのか、永久が来てから一度も客は現れない。退屈していたのかアリエルは永久の隣に座って自分の身の上話を始めた。
アリエルは元々孤児で、このパン屋を経営している”お父さん”に拾われてここで暮らしているらしい。アリエルはその血の繋がらない”お父さん”のことを強く慕っており、目を輝かせて永久に彼のことを話した。
「優しくて強くてね、この間私が暴漢に襲われた時は一発でやっつけちゃってさ。あの時は本当にかっこ良かったよ」
そんなアリエルの話を聞きながら、永久は少しだけ悲しげな目を見せる。アンリミテッドである永久に、父や母なんていないのかも知れない。そう考えるだけでひどく寂しかった。
――――クイーンを除く全てのアンリミテッドは……元は人の子だ。
境界の龍の言うことが本当なら、永久は生まれた時から人間ではなかったことになる。もしそうなら、一体永久は何から生まれたというのか。
「あ、ごめんね私ばっかり話しちゃって、退屈?」
「ううん全然! ちょっとボーッとしてただけだから、私こそごめんね」
そう答えると同時に、不意に永久は欠片の気配が近づくのを感じる。
不快感や町の既視感のせいで気づけなかったが、どうやらこの世界にも欠片はあるらしい。それもその欠片は、少しずつこちらに向かって来ているようだった。
そしてもう一つ、うっすらとではあるが欠片以上に力を放っている存在――アンリミテッド。どのアンリミテッドかは知らないが、恐らく永久を追って来たのだろう。
「そろそろ礼拝から帰ってくるかな、お父さん」
壁にかけられた時計を見ながら、アリエルは嬉しそうにそう呟く。
「礼拝?」
「うん。神様に拝むんだって。お父さんは何かを許して欲しいみたい」
そう言ったアリエルの表情に陰りが差す。お父さんが何を許して欲しいのか、恐らく彼女は知らないのだろう。
先程からお父さんの話を聞いているとどことなく居心地が悪い。永久にとっての家族は坂崎家の人達だが、実際のところはわからない。自分がどこで生まれ、どう育ったのか、永久にはほとんどわからない。ただ、家族のことを考えると胸の底でわだかまったままでいる何かをかき回されるかのような感触を覚えてしまう。
「大丈夫? ずっと気分わるそうだけど……パン、おいしくなかった?」
「うぅん、おいしいよ。ごめんね、この町に来てからずっとこんな調子で……」
心配そうに永久の顔を覗きこむアリエルにそう答え、永久は再びフランスパンを口にする。
そうこうしている間に、欠片の気配は近づいてくる。気がつけばもうほとんどすぐ近くまで来ているようにさえ感じる。アリエルの言う”お父さん”が欠片を持っているのか、それとも無関係な誰かが近づいているのか。欠片とは別に感じられるアンリミテッドの気配も気になるし、もしそれらが永久に襲いかかってくるのであればアリエルを巻き込むわけにはいかないだろう。
「私、そろそろ行かないと」
「もう大丈夫なの?」
「一応ね。何もお礼が出来なくてごめんね」
「良いって良いって。もう、謝ってばっかりじゃん」
アリエルはそう言って屈託なく笑った後、何かに気づいたかのようにハッとなる。
「そういえば名前、聞いてないよね?」
「あ、私? 私は……」
永久が答えようとした瞬間、ガチャリと音を立ててドアが開かれる。そうして中に入ってきた男と永久の目が合った瞬間、時間が停止した。
互いに言葉はない。ただ目を丸くしたまま、まるで信じられないものでも見たかのように見つめ合うだけだった。
わけがわからないまま戸惑うアリエルを置き去りにしたまま数刻過ぎ、やがて永久は今にも泣き出しそうな顔を見せる。そんな永久とは対照的に、男の顔は見る見るうちに明確な憎悪で歪んでいく。
「何故だ……何故私の前に再び現れた……アンリミテッドクイーン……ッ!」
静寂を破ったのは男の言葉だ。永久は男の目に怯えるようにして身体を縮こまらせ、静かに震え始めた。
「ねえ、どういうことなの――」
「お父、さん」
アリエルの言葉を継ぐようにしてそう呟いた永久は、目に薄らと涙を浮かべていた。記憶を失っている永久だが、男を見た瞬間直感的に理解出来た。その男が、自分にとって父にあたる人物なのだと。
自分の感情がわからない。嬉しいのか、悲しいのか、何をどう思っているのか永久自身にもわからなかった。様々な感情がないまぜになってうまく言葉に出来ない。頭が乱れて乱れておかしくなって、冷静でなんていられなかった。
ただ触れたくなって、永久はそっと男へ手を伸ばす。しかし、永久に向けられたのは温かい手などではなく――――
「何故だ、何故……今日……!」
銃口だった。
「待って……待って、お父さん」
まるですがるように吐き出された言葉は、届かないまま男を通り抜けていく。銃口は降ろされないまま、男はただ憎悪に満ちた双眸で永久を睨み続けた。
「私を……」
躊躇があるのか、銃を持つ男の右手が震える。耐え切れずに泣き出してしまった永久をその瞳でとらえたまま、男は右の人差し指にゆっくりと力を入れる。
「私を父と呼ぶな」
瞬間、弾丸がまっすぐに放たれる。憎悪のこもった鉛が永久の右肩を撃ち抜き、血と涙を散らしながら永久はその場に倒れた。
「お父さ――」
すかさず、二発目が放たれる。言葉を紡げないまま今度は左肩を撃ち抜かれ、永久はその場で悶えた。
「や、め……やめて……」
永久のえずくような言葉にも、男は応えない。ただやはり躊躇しているのか、銃口は一度も顔や胸と言った急所へ向けられることはなかった。
「ちょっとどうしたの!? 事情はわからないけどやめてよ!」
抱きつくようにして男を制止するアリエルだったが、男はそれでも永久へ向けた銃を降ろさない。
「レイナ……ッ!」
ああ、それが自分の名前なんだと思うと同時に、記憶の濁流が永久を飲み込み始めた。




