World5-6「氾濫」
一度喪われてしまったものは、本来戻るべきではない。
一度喪われればもう戻らないからこそソレは尊いのであって、ソレが戻ってきてしまうのはその尊厳に対する冒涜であるとさえ思えた。
そう、戻ってきてはいけないものだ。
だからこそ、理に反して喪われているハズのソレがそこにあり続けたり、既に喪われてしまったハズのソレが不用意にこちらへ戻ってきたりしていれば、本来あるべき姿に戻さねばならない。きっとソレはそういうものだし、そうでなければならないハズだ。
そうとでも思わなければ納得出来なかったし、二度と戻ることのないソレを諦めることなんて出来なかった。そんな弱さを支えるためにも、そう信じて斬り続けるしかなかった。
今にも、手を伸ばしてしまいそうで。
返ることのない言葉を、待ってしまいそうで。
口にするだけでも辛かった名前が、溢れ出しそうで。
下唇を噛み締めるようにして、必死に口をつぐんだ。
「亮太……」
名前が、口から溢れ出る。
走馬灯のように蘇る思い出を振り払うようにかぶりを振って、城谷月乃は見つめ続けていたロケットペンダントを閉じた。
「月乃様!」
不意に、慌てた様子の従者の声が自室のドアの向こうから聞こえてくる。
「どうかしたの?」
そっとペンダントを服の内側に隠し、ドアの向こうへ静かに問う。
「例の時計塔に大量の悪霊が発生したと、先程センターから連絡が!」
「……何ですって……!?」
従者のその言葉に、月乃は一瞬にして顔色を変えた。
永久の頭痛が収まった頃には、既に封鎖されている時計塔の入り口の向こうには、夥しい数の悪霊がひしめいており、その様相はさながらゾンビ映画のようだった。
「これって……時計塔の中にいた人達……」
「今は門の封印で外には出られないっぽいが、あんだけの数の霊が相手なら、あんな封印すぐにぶっ壊れるぞ!」
切羽詰まった様子で亮太がそう言っている間にも、門は今にも開かんとしてガタガタと揺れている。貼られている札の効力が切れるのも時間の問題だろう。
「ど、どうしよう……?」
「どうしようって、貴女それ本気で言っているの?」
「えっ――」
プチ鏡子の言葉に、永久が短く声を上げたのと同時に銃声が鳴り響いた。
咄嗟に永久が回避した弾丸は、永久の後ろのフェンスを貫通していく。硝煙の臭いを鼻の中に吸い込みながら永久が向けた視線の先にいたのは、銃を構えた下美奈子だった。
「やはりまだ生きていましたか」
「……っ!」
「今度こそ死んでもらいます、アンリミテッドクイーン」
そう言うやいなや美奈子が腕に着けている装置を操作すると、一瞬景色が切り替わったかのような感覚を覚え、次の瞬間には元の景色に戻っていた。しかし、そこには亮太の姿も、時計塔でひしめいていた悪霊達の姿も見当たらない。
「前回のものより強化した隔離フィールドです。貴女には、ここで死んでもらいます」
向けられた視線があまりにも冷たくて、熱を持っているハズの銃口さえ冷たく見えた。
センターからの報告を受けて詩祢達が現場に辿り着いた時には既に、大量の悪霊達が時計塔の外へと放たれていた。死者こそ出ていないものの、悪霊によって生気を吸われて意識不明の重体になっている、という報告が何件かセンターに入っているらしく、それは携帯を通じて詩祢の耳にも届けられた。
「な、何だこりゃあ……!?」
驚く英輔の隣で、詩祢は白い布に包まれた大鎌から素早く布を剥ぎ取り、身構える。
「離れてっ!」
英輔達が詩祢から素早く離れると同時に、詩祢は大きくその大鎌を振った。
風を切る音が小気味良く響き、詩祢の霊力の込められた大鎌が目の前の悪霊を薙ぎ払い、滅する。しかし、その程度で目に見えて数が減る程、時計塔から現れた悪霊の数は少なくはなかった。
「ま、まさか駈け出しでこんな大仕事をやることになるなんて……っ」
そんな弱音めいた言葉を吐きながらも、菊は矢筒から矢を取り出しては手にした弓で放ち、矢に込めた菊の霊力で悪霊を一体一体滅していく。
「とにかく今は少しでも被害を減らすのよ! 二人もお願い!」
大鎌で悪霊を薙ぎ払いつつ詩祢が振り向いてそう言うと、英輔は力強く頷いた。
「……わかった、行くぞ由愛!」
そう言って身構えた英輔の右手には、既に雷の魔術によって形成された剣が出現していた。
「言われなくたってわかってるわよ!」
悪態を吐いた由愛の目の前では、由愛の放った黒弾に込められた魔力よって数体の悪霊が滅せられていた。
力が足りないから、戻らないのだろう。足りないのなら、集めれば良いだけの話だった。
既にこの時計塔の中には何百人分もの悪霊が微弱ながらも存在しており、それらは全て彼の力によって黄泉から呼び戻されて悪霊化した霊達だった。数週間前、突如として謎の光と共に奇妙な力を得た彼は、誰かの願いに対して彼の意思とは関係なく敏感に反応し、黄泉の世界からいくつもの魂を現世に呼び戻していたのだ。
しかし、彼の……鴉形蒼真の望む魂はいくら呼ぼうとも現世に戻ることはなかった。
他の魂がいくらでも現世へ戻ってくるのに対して、蒼真の望む魂は一度足りとも蒼真の声に応えたことがなかった。
それはきっと、力が足りないから。
「足りないなら、集めれば良いだけだ」
時計塔の外でひしめいているであろう、自身の操る悪霊達のことを思い浮かべながら、蒼真は小さくそう呟く。
そんなことしたって戻らない。心のどこかで気づいてはいたが、それを認めてしまうことは、彼女にもう一度会って、この時計塔を見せることだけに執着し続けていた今の蒼真の存在そのものを否定するようなものだった。
「ああ、見せてあげるよ」
――――今にあの時計塔を、見せてあげるよ。
溢れるように次々と現れる悪霊を、ただ淡々と、まるで機械のように斬っていく。刀を振る度に霊が滅せられ、あるべき場所へと戻っていく。それに対して特に感慨はなかったし、今までしてきたように滅していけば良い。悪霊化しているとは言え、特別強いわけではないし、言ってしまえば一体一体は月乃からして見れば「雑魚」だった。
「数が……多過ぎるっ!」
問題なのはその数だった。
今まで幾度となく霊滅師として任務をこなしてきたし、大量の悪霊を滅するような任務だって経験しなかったわけでもない。しかしそれらの経験と照らし合わせても、この悪霊の数は明らかに異常だった。
センターから連絡が来ている以上、この町にいる霊滅師は粗方現場に到着しているハズなのだが、それでもこの状況が打開出来ていないのは、一重に悪霊の数が多過ぎるからなのだろう。
「このままじゃ、埒があかない!」
一振りずつ、着実に体力が削れていくのがわかる。今でこそこうして戦い続けていられるが、これだけの数を相手し続けるとなると後数時間ともたないだろう。
「……っ……!」
吐きそうになった弱音を無理矢理押し止め、月乃は目の前の悪霊達を憎らしげに睨みつけながらひたすらに刀を振り続けた。
放たれた弾丸を間一髪で回避するやいなや、永久の身体が眩い光に包まれる。その光を纏ったまま高く跳び上がり、永久が美奈子の頭上まで到達する頃には光は収まり、永久の服装は紺色のセーラー服からビキニアーマーへと変化していた。
「――っ」
両手の二本のショーテルを構えたまま落下してくる永久を回避するようにして後退しつつ、美奈子は予め後ろに出現させておいた裂け目へ手を突っ込み、そこからボール型の何かを取り出すと、すぐさまそれを永久めがけて投げつけた。
「――っ!?」
ボール型のソレは永久に直撃する直前で勢い良く広がり、人一人包み込むには十分なサイズの網となり、永久の身体を包み込んだ。
漁業で言う、投網と言ったところだろうか。
網の先から伸びるいくつかの紐の先端の重しによって紐と紐とが絡まり合い、永久が抜け出そうともがき始めた頃には既に網は閉じた状態となってしまっていた。
「かかりましたね」
ドサリと音を立てて地面へ落下した永久を、美奈子は冷淡な瞳で見下ろす。
「くっ……!」
何とか抜け出そうともがくが、網には特殊な加工がされているのか破ることが出来ず、ショーテルでどうにかしようにも網の中にギュウギュウに詰められているせいで上手く扱えない上、網そのものの強度が強いのかちょっとやそっとのことでは切れそうにない。為す術なし、と言っても過言ではなかった。
「今展開しているものに比べれば簡素ではありますが、その網も一種の隔離フィールドのようなものです。いくら貴女と言えども、そう簡単には抜け出せませんよ」
しばらく永久は抜け出そうともがき続けていたが、やがて諦めたかのように動きを止めると同時に、光に包まれながら元のセーラー服姿へと戻っていく。
「――ちょっと永久!?」
ポケットから顔を覗かせ、プチ鏡子が困惑した様子で永久へ視線を向ける。
「素直ですね、アンリミテッドクイーン。殊勝な態度を評価しましょう」
美奈子の言葉に、永久は答えない。
ただ悲しげに目を伏せたまま、まるで美奈子に殺されるのを待つかのように、静かな呼吸だけを繰り返すだけだった。




