World5-3「時計塔」
これで幾度目だったか。
呼べども呼べども応える声はなく、ただ古びた時計塔の中で跳ね返りもせず溶けていくばかりで、次第に怒りさえ沸き上がってくる。
他者の願いによる黄泉返りなどは彼からしてみれば単なる「たまたまそうなった」くらいのものであって、むしろ妬ましく感じられる程でさえある。
この身にどれ程の力が宿ろうとも、彼の求める者が戻らねばそこに価値は感じられない。
力が足りなかったのかも知れないし、もしかしたら元々そんな力などなかったのかも知れない。しかしそれでも、その願いこそが今の彼を彼足らしめているものであり、手からそれを離してしまえば消えてしまうような、そういうモノだった。
妄執だ。
そう独りごちて、自分の言葉がおかしくて笑みをこぼす。
そもそも霊なんてものは妄執以外の何者でもないのだから、その妄執そのものである時分が「妄執だ」だなんて口にするのはおかしな気がしてしまう。霊で、それも地縛霊の類ともなればそれこそ他のソレらよりも強い妄執を持ってしてこの世に留まっているのだから、正に人型に圧縮された濃密な妄執とさえ言える。
時計塔は静かに、刻々と時を刻んでいくというのにそこに張り付いたままの自分の時が止まったまま、というのは皮肉なものだった。
時はただ過去を刻む。
前へも後ろへも進めないまま、ただただ失った過去だけに取り残された思念は荒んでズタボロになっても尚、そこに留まり続ける。
きっと戻ることなんてないのだろう。とうの昔に気づいているハズなのに、未だにここに縛られ続けているのは、気づいているだけでわかっていないということなのだろう。
妄執だ。
もう一度、独りごちた。
英輔が最初に脳裏に浮かべたのは、昔写真で見た覚えのある、かの有名なイギリスの時計台「ビッグベン」だった。
「日本にもあるんだなぁ、こういう洋風なの」
感嘆の声を上げる英輔の隣では、由愛が大して面白くもなさそうな表情で時計台を眺めている。
「前はかなり古いものだと思っていたのだけど、実際はそんなにでもないみたいよ。何だか雰囲気が古めかしくてもう百年くらい前みたいに見えるけど」
そう言って詩祢が髪をかきあげると、隣にいた菊が驚いたような声を上げた。
「え、百年くらい前のものじゃないんです?」
「精々四、五十年くらいのものよ。十分古いけど」
詩祢と菊に連れられ、由愛と英輔は木霊町のシンボルとも言える、巨大な洋風の時計塔のすぐ傍まで訪れていた。
詩祢の言う通りそれ程古いわけではないようで、柵の外からでは特に目立った汚れやヒビなどは壁に見受けられず、時計塔がまとっている古そうな雰囲気のわりには新しいように感じられる。もしかしなくても、木霊町にはこの時計塔よりももっと古い建造物なんていくらでもあるのだろう。
入り口は封鎖されているらしく、中には入れない。閉じられている門には何枚かの札が張られており、恐らく霊的な封印もされているのだろう。しかし時計自体は機能しているようで、巨大な針が分刻みに盤上のローマ数字を指し示している。
「それで、この時計塔と貴女達の言う異変はどういう関係があるの?」
ややぶっきらぼうな由愛の物言いに、英輔はムッと顔をしかめながら時計塔から由愛へ視線を写し、小さく嘆息して見せた。
「なんだよかわいくねぇなお前は……。もっとこう、子供らしくはしゃいで見せたりしたらどうだよ?」
「あらお生憎様。私はアンタと違ってそんなにお子様な感情は持ち合わせてないの」
「誰がお子様だ!」
語気を荒げる英輔に、由愛はキョトンとした顔を見せた後、わざとらしくキョロキョロと辺りを見回して、クスリと小さく笑みをこぼした。
「ごめんなさい、アンタしかいないみたい」
「お前な……!」
明らかに英輔を小馬鹿にしたその態度に、怒りを隠せず小刻みに肩を震わせる英輔に対して、由愛は真剣な表情を向けると、きつく睨みつける。
「私達はね、何よりもまず永久と欠片を捜さないといけないの。時計塔如きできゃっきゃ騒いでる暇なんてないのよ」
「そりゃ、そうだけど……」
由愛の言葉に何も言い返せずに英輔が口ごもったのと、詩祢がはいはい、と繰り返しながら両手を叩いたのはほとんど同時だった。
「騒いでる暇がないなら喧嘩する暇もないでしょ。異変の話、初めても良い?」
そう言った詩祢に、由愛と英輔が小さく頷いたのを確認すると、詩祢はそのまま語を継いだ。
「黄泉返りの時計塔。ここ最近、この時計塔はそう呼ばれているわ」
「黄泉返りの、時計塔……?」
由愛が詩祢の言葉をそのまま繰り返すと、詩祢はええ、と頷いた。
「何でも、この時計塔に死んだ人間の蘇生を願うと、その人が蘇るそうよ」
「死んだ人間が蘇るって……何だそりゃあ……」
いくら欠片の力が様々な異常事態を起こすとは言え、流石に「一度死んだ人間が蘇る」となるとにわかには信じ難い。一度死んだ人間が蘇ることなど、ない。もしそれがあり得るのなら――
と、そこまで考えて英輔はかぶりを振った。父はきっと、そんなことは望まない。しかしそれでも、もしもう一度会えるのだとしたら……。そう、思ってしまうのは、仕方がないのかも知れない。
「でもね、恐らく実際は違うわ」
そう言って腕を組み、詩祢は言葉を続けた。
「『蘇り』じゃなくて、『黄泉返り』……。黄泉から返ってくるだけで、肉体まで蘇生するわけじゃない……」
そこまで言って、詩祢はピクリと表情を動かした後、時計塔の入り口からよろよろとふらつきながら現れたサラリーマン風で半透明の男へ目を向けた。
「……あんな風に、ね」
ゆっくりと目を開けると、そこに見えたのは蜘蛛の巣の張った天井だった。
状況がすぐには判断出来ず、声を上げようとしたがあまりにも周囲が埃っぽかったせいで、言葉よりも先に咳が口から漏れ出てしまう。
「ここ……は?」
数秒咳き込んだ後、坂崎永久は困惑した様子でそう呟いた。
銃を突きつけられたことは覚えている。それがもう回避不能で、その瞬間、死を覚悟したこともはっきりと覚えている。しかしそっと左胸に手を当てると、セーラー服に血の痕と、弾丸の通った穴こそあるものの、身体の方には何の傷もないように感じられた。
「……生きてる」
不思議そうにそう言うと、スカートのポケットからひょっこりとプチ鏡子が顔を出した。
「どうやら、貴女の力はそれなりに戻っているみたいね」
「プチ鏡子さん!」
無事だったんだ、と安堵の溜息を吐きつつ、永久はそっとプチ鏡子を自分の右肩へと乗せた。
「集めた欠片のおかげで、前よりはアンリミテッドだった頃に近づいているのよ。もう、銃くらいじゃ貴女は死ねないわ」
「死ねないって……」
無限。命でさえ、無限だとでも言うのか。
「そっか、私……アンリミテッドだもんね」
それが何を意味するのか、永久本人にすらわからなかったが、自分は人ではない、と自覚することは今まで自分を人間だと思っていた――否、思おうとしていた永久にとっては悲しいことに他ならない。
あの時、刹那を捜すと決めた時からわかっていたことだったというのに、いつの間にか永久は見ないフリをしていて、まるで自分がただの人間であるかのように振る舞っていて……
――――アンリミテッドによって家族を殺された、下切子の孫娘です。
ゾクリと。寒気がした。
見つめる手の平が白く見えるのはただの思い込みで、本当はとっくの昔に赤く染まってしまっていたのではないかと思えてしまう。
過去がない。自分が何者なのかわからないということは、自分が何者でもあった可能性が存在するということで、永久自身の知らない過去の永久が、下美奈子の祖母である下切子の家族を殺していたとしても何の不思議もない。
それが恐ろしくて、永久は小さく身を震わせた。
しばらく辺りを見回して、今永久がいる場所がどこかの廃屋である、ということは理解出来た。もう放置されて随分と時間が経っているようで、埃っぽくてかなわない。その上そこら中を虫が這っているものだから、今までそんな場所で寝ていたのかと思うとあまり良い気はしない。永久がいる部屋は居間のようで、先程まで寝ていた場所はどうやらソファの上らしい。
「私、どうやってここに来たんだろ。誰かが運んでくれたのかな……」
「貴女が自分で来たのよ」
訝しげに言った永久にプチ鏡子がそう答えると、永久はますます訝しげに表情を歪める。
「貴女の身体に一時的に霊が取り憑いて、貴女の身体を動かしてここまで来たって言ったら……信じる?」
「信じなくはないけど……ちょっと怖いかも」
「怖くて悪かったな」
永久がプチ鏡子の言葉に答えた瞬間、そんな声が背後から聞こえた。
「――っ!?」
慌てて永久が振り返ると、そこにいたのは黒い学生服を着た、半透明の少年だった。
時計塔の中から現れた半透明の男は、英輔達の方をジッと見つめたまま、緩慢な動作でこちらへと近づいてきている。
それに対して身構えている英輔と由愛とは対象的に、詩祢と菊は随分と余裕のある表情を浮かべていた。
「大丈夫よ。その霊、恐らくまだ悪霊化していないわ」
「悪霊化してないって……じゃあ、何もして来ないってことか?」
少し構えを緩めつつ英輔がそう問うと、詩祢の代わりに菊がはい、と元気良く答えた。
「大丈夫ですよー! まだただの浮遊霊ですから、襲いかかってくるようなことはありませんよ! ね、詩祢さん!」
「……そうね。恐らく時計塔の力で黄泉返ったのだろうけど、成仏させて上げないと」
言いつつ詩祢が懐から一枚の札を取り出した時には、既に男は柵の向こうにはいなかった。
「えっ――」
「英輔! 後ろ!」
由愛が叫んだ時には既に、英輔の背後から男が首を締めんとして両手を首筋へと伸ばしていた。
「なッ――」
瞬間、一閃。
英輔が男の手を振り払おうとした時には、既に男の首は宙を舞っており、男の身体は地面へと傾きつつあった。
ふっと。小さく息を吐く音。
男の首を斬り裂いた張本人は、その手に持った日本刀で倒れかけの男の身体を容赦なく両断すると、まるで返り血でも振り払うかのように刀を下へ振った。
長い白髪がなびいて、まるで精巧な人形か何かのような少女の顔が英輔の視界へ飛び込む。
「つっきー……」
状況に似合わぬ緊張感のない呼び名で詩祢に呼ばれたその少女――城谷月乃は、静かな動作で刀を左手に持った鞘に収めた。




