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迷宮探索者の日常  作者: 飼育員B
第五章 胡蝶の夢
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第61話 郷愁

 ◆



「おい、ケンイチ……おい! 起きろ!」

 近くから大声で呼びかける男の声が響き、身体が強く揺さぶられた。

 いつの間にか閉じていた目を開き、机の上でうつ伏せになっていた体を起こす。ぼんやりとした頭と視界で電灯によって明るく照らされた周囲を眺めた。

 彼が今いるのは10席に満たないカウンター席だけの狭い店の中で、約2メートル先には漢字やアルファベットが印刷されたラベル付きの酒瓶が、何十本も棚に並んでいる。

 ここが居酒屋か何かということは判ったが、直前までの記憶と現在の状況が全く繋がらない。

「……どこだ、ここは……?」

「おいおいそんなに酔っぱらってたのか? いくら飲んでも記憶を失くしたことだけはない、って前に言ってたじゃねえか」

 彼の左隣の席には1人の中年男が座っていた。男の顔をぼんやりと眺めていると、少しずつ昨日の記憶が甦ってくる。


 目の前にいるよれよれのカラーシャツを着た男は昨日まで同じプロジェクトで仕事をしていた人で、協力して艱難辛苦(デス・マーチ)を乗り越えた戦友である。

 

 昨日の金曜日、遅れに遅れていた納品を完了させた彼らはプロジェクトメンバーを集めて打ち上げの宴会を行い、それまでに溜まりに溜まった鬱憤を晴らそうと浴びるように酒を飲んだ。

 最初は10人以上いた参加者たちも二次会、三次会と進むにつれてどんどんと少なくなり、最終的には彼―――健一郎と中年男の2人だけで梯子酒を重ねていた。

 健一郎もたいがい(酒に強い)だが中年男はその上をいく(全く酔わない)で、何杯飲んでも酔った素振りさえ見せたことがない。

 この中年男は時間さえ許せば毎日でも飲み行きたいと言い放つ豪の者だった。基本的に酒の誘いを断らない健一郎は彼に(いた)く気に入られ、この半年間で一緒に飲んだ回数は両手どころか両足まで使っても収まりきらないだろう。


 今、健一郎たちがいるのは目の前の男が行きつけの小料理屋で、とっくの昔に営業時間が終わっている店内には他の客の姿はない。

「いや、酔ってないです。ちょっと寝ぼけていただけです」

「そうか? それなら、もう始発動くしいい加減に帰るか。ここの支払いは済ませておいたぞ」

「いつもご馳走様です!」

「いいよいいよ。来週からは別々の仕事(プロジェクト)だけど、また時間があったら飲みに行こうぜ」

「はい、その時は飛んで来ます!」

 健一郎と中年男は蝶柄の和服を着た大年増の女将に見送られて店を出る。奢ってくれた事に対して再び礼を言った後、店の前で中年男と別れて駅に向かった。



 乗客も疎らな土曜日早朝の始発列車に揺られ、窓の外で流れていくビルの群れを眺める。

 ここ半年間はほぼ毎日見ていた光景で、昨日の朝も超満員の車内から同じ景色を見ているはずなのに、何故かとても懐かしく感じられた。

 不思議な事は他にもある。健一郎の記憶が間違っていなければ昨日の19時過ぎ頃から徹夜で飲み続けていたはずなのに、全く酔いが残っていないし眠気も感じていないことだ。

 その代わりに理由の解らない違和感と焦燥感がある。

 目覚めた直後の数秒間だけ頭の中にあった光景を何とか思い出そうとするが、頭の中に靄がかかったようになっていて上手く思い出すことができなかった。

 その代わりに浮かんできたのは、子供の頃の記憶と家族の顔だ。


 誰に聞かせる訳でもなく、ぽつりと独り言を漏らす。

「久しぶりに実家に帰ってみるか……」

 無性に両親の顔が見たい。

 その気になればすぐ帰れるのに、ここ1,2年は盆暮れ正月ゴールデンウィークなどの連休は全て「仕事が忙しい」と言って帰省せずに終わらせていた。帰省せず暇ができたからといって何をする訳でもなく、自分の部屋の中でだらだらと寝て過ごすだけなのに。

 幸い、今日と明日の2日間は完全休日だ。昨日までやっていた大炎上プロジェクトは終了したから、休日なのに緊急呼び出しが来ることはない。

 どうせ何の予定もないのだから、たまには親に顔を見せに行ったって良い。部屋から一歩も出ずにいるよりはずっと健康的だろう。



 いったん一人暮らしをしているアパートに戻り、シャワーを浴びてから2日分の着替えを旅行鞄に詰める。

 自分の部屋には寝るためだけに帰ってきているようなものだから、冷蔵庫の中にすぐに腐るような物は入れていない。洗濯は帰って来てからやればいいし、部屋の掃除なんて1ヶ月や2ヶ月やらなくたって死にはしない。

 準備を終えたらすぐにアパートから出て駅へと向かい、我が家へと向かう電車に乗り込んだ。

 最初は高層ビルの谷間を縫うように進んでいた電車も、乗り継ぎを重ねた最後の方では何の障害物もない田んぼの真ん中をまっすぐ進むように変化していく。

 1時間に1本未満しか走っていないローカル線への乗り継ぎでも全く待たされることはなく、極めて順調な旅路だった。


 やがて電車は健一郎の実家への最寄り駅に到着する。

 そこは田んぼの真ん中にぽつんと作られた、列車ホームと小型のポストのようなIC乗車券読み取り機の他には何も無い駅である。

 健一郎の記憶の中にある姿と何一つ変わらない、まるで時が止まったかのような場所だった。

 電車を降りてまず感じたのは湿った土と草の匂い。そして近くに生えた木の上にいる野鳥の囀りと、周囲の田んぼの中に隠れている蛙の声。


 田んぼに囲まれた真っ直ぐな道を荷物片手にのんびりと歩いた。

 ひび割れたアスファルト舗装の上には健一郎以外の誰の姿もない。道の両脇には草がぼうぼうと生え、健一郎が近くを通るとバッタが跳び出して逃げていく。

 子供の頃よりも数は減っているように感じるが、見える範囲だけで何十匹ものトンボが飛び交い、小さな花の周囲では黒っぽい蝶がひらひらと舞っている。夜になればきっと蛍も見られるだろう。

 周囲の風景は記憶の中とほとんど変わらない懐かしいままだったが、前に来た時はなかったはずの家が建っていたり、逆に古い納屋が取り壊されていたりと全く変化が無い訳でもない。

 周囲の変化を探しながら歩くこと約20分。懐かしい我が家に辿り着いた。



 数十秒かけて家の姿を目に焼き付けた後、玄関の引き戸に手をかける。

 田舎ゆえの大らかさで、長期の旅行をするのでもなければ鍵はかかっていない。田舎と言っても最近は物騒だし、何が有るかわからないのだからちゃんと鍵くらいかけろと言ったことはあるが、両親は大げさだと言って全く取り合わない。

「ただいまー」

「はーいー」

 家の奥からパタパタというスリッパの音が聞こえた後、健一郎の母親がひょっこりと顔を出した。

「あらー、健一郎じゃない。久しぶり。帰ってくるのは良いんだけど、こっちにも準備があるんだから電話してから来なさいよ。お昼ごはん用意してないわよ?」

「別に何だって良いよ。インスタントラーメンとか、車でスーパーに行って弁当とか惣菜を買って来たって良いんだし」

 (スニーカー)を脱いで家に上がり、そこに置かれていたスリッパを履いて居間に向かう。

「そんなのばっかり食べてたら体に悪いでしょうよ。しょうがないからお昼はある物で済ませて、夕ごはんはお父さんに電話してお刺し身か何か買ってきてもらおうかしらね。何か食べたいものはあるの?」

「んー……煮物かな。鶏肉を酢で煮込んだやつあるじゃん? 久しぶりにあれ食べたい。あとは煮物じゃないけどけんちん汁とか、おでんとか。店に行けばどこでも食えるんだけど、やっぱりウチで食べるのとは味が違うからさ」

「あらそう。今日は泊まっていくんでしょ? だったらおでんは明日の夜にしよっか。煮物は余分に作るから持って帰りなさいね。ああそうだ、前に作ったカレーが冷凍してあるから昼はそれ食べる?」

「食べる」



 健一郎が居間に入ると、一番大きな変化が真っ先に目に付いた。

「やっとテレビ買い替えたんだ?」

「ついこないだね。もういい加減に映りも悪くなってたし、今は安いからってお父さんがこんな大きいの買ってきたのよ。でっかいから邪魔だけど、さすがに新しいのは綺麗よね」

 健一郎が前回来た時までは置かれていた十数年モノの平面ブラウン管テレビはさっぱりと姿を消し、その跡地には大型の液晶テレビが鎮座していた。

 以前はテレビの上に置かれていたどこで買ったのかも不明な置物の数々は、現在はテレビ台の上、画面を見るのに邪魔になりそうな位置に置かれている。

 イルカがジャンプして玉を弾く振り子の置物や、針金の先に蝶やトンボの模型が付いていてゆらゆらと揺れ動く置物はともかく、()を咥えた木彫の熊や針金をぐねぐねと折り曲げて作られた謎の幾何学模様は一体どこから持ってきたのだろう。


「そう言えば、お父さんは?」

「今日は仕事。早番だから3時過ぎくらいには帰ってこれるんじゃないかしら」

 健一郎が物心付いた時から、彼の父親はローカルチェーンのスーパーに勤めていた。

 土曜も日曜もない仕事だから、健一郎はあまり家族そろって行楽地に行ったことはないし、泊まりがけの家族旅行なんてものをした記憶は一度もない。

 だが出不精の健一郎としてはそのことに対して特に不満はなく、遊びに行くことより父親が頻繁に買って帰ってくる美味い食材の方がよっぽど嬉しかった。一般的に高級とされているフルーツは中学の頃には既に食い飽きて、それを高校の頃に友人に話したら顰蹙を買ってしまったくらいだ。

「今も仕入れ担当やってるのか。魚だっけ? 青果って言ってたっけ?」

「ううん。今は店長やってるから、副店長と代わりばんこで早番と遅番やってるのよ。それに、今日は土曜だから市場は開いてないわよ」

「そりゃそうか」



 昼食にカレーを食べ、母親と世間話をしながらだらだらと過ごしていると、やがて庭に入ってくる車の音が聞こえてきた。

「あら、お父さん帰って来たわね」

 健一郎が玄関の外まで出迎えに行くと、父親が車のトランクルームから発泡スチロール製の箱を出しているところだった。

「お帰りなさい」

「おう、ただいま、お帰り。これ、魚が入ってるからお母さんの所まで持ってってくれや。氷入ってるからちょっと重いぞ」

「はいよ。どんな魚?」

「マグロとスズキとイサキ、あとはホタテだな。ホタテは焼いてもいいけど、刺し身でも食えるやつだ」

 父親の手から発泡スチロール製の箱を受け取るとずっしりとした重さがあった。健一郎が帰ってきたせいかどうかは不明だが、かなり奮発したようである。

 箱を持った健一郎は玄関ではなく勝手口から家に入り、台所で夕食の準備を始めていた母親の前に置く。

「ご苦労様。魚はお父さんに切ってもらわなくちゃね」



 程なく夕食の時間となった。

 まだ日没を迎える前なので外は薄明るいが、父親が早朝から出かける人だったので健一郎の実家では昔からこのくらいの時間に夕食を食べている。

 居間に置かれた食卓の中央を占領する大皿には溢れんばかりに刺し身が盛られ、その周囲に漬物や生野菜サラダを盛った皿が配置されている。健一郎がリクエストしていた鶏肉の煮物もちゃんとある。

 ひとっ風呂浴びて労働の汗を流した父親がずっと昔からの定位置に座った。帰宅して、まず風呂に入ってから食事と晩酌というのが、ここ20年以上変わらない父親の習慣だった。

「ビールで良いか? 日本酒が良いならそっちもあるぞ」

「いや、禁酒してるからいいや。前に酒のせいで大失敗したから、それからは飲まないことにしてるんだ」

「いつからだ? いったい何をやったんだお前は」

「やったと言うかやられたと言うか……5年ぐらい前に酔っ払って居眠りしてる間に身包み剥がれたんだよ。親切そうな奴だと思ってたのに、とんだ野郎だった」

「何をやってるんだお前は……まあ、今日は外じゃなくて実家なんだから大丈夫だろう。久しぶりなんだから少しくらい付き合え」

 そう言われれば強く断るのも難しい。

 泥酔して正体を無くすのが怖いから禁酒していたのであって、酔わない程度に少量だけ飲むのなら大事にはならないだろうし、確かに実家ならこのまま眠り込んでしまったとしても危険があろうはずがない。



「しかし妙だな、健一郎。お前、一昨年の正月に帰ってきた時はそんな事を言わないで普通に飲んでただろ?」

「そうだっけ? ……そうだよな。身包み剥がれたってどこでだ? 財布だけを盗まれるならともかく、安全な日本のどこで服まで取られたって言うんだ? 5年前はまだ実家から会社に通ってた時だし、そもそも昨日も飲み会してたじゃないか」

 何か大切な事を思い出せそうなのにあと一歩のところで出てこない。

 それではいけないと思うのだが、どうにも考えるのが面倒になって早々に思い出すのを諦めてしまった。

「多分、夢か何かと勘違いしてたんだろうな。ビールもらうよ」

 健一郎が差し出した透明なグラスにビールを注ぎながら、父親が話しかけてくる。

「仕事はどうだ。前に電話で話した時は忙しいって言ってたが、頑張ってるのか?」

「まあまあかな。中層に行けるようになってからはだいぶ楽になったよ。攻略の難易度は上がったけど、途中まで転移(ワープ)できるから上手くやれば半分の時間で同じくらい稼げるし。最近はパーティ組んで迷宮に潜るようになって―――迷宮?」

 いったい「迷宮」とは何だろうか。健一郎が就いている職業はプログラマーで、作っているのはゲームではなくインフラ系の業務用ソフトだ。

 仕事の話題で「迷宮」なんて単語は使わない。そんなものがどこから出てきたのかさっぱり分からない。


「お前もいい年だが嫁さんはどうするんだ。誰かいい人でもいるのか?」

「男しかいない仕事だからなかなか出会いがね。幼なじみみたいな感じのベティとリサは好意を持ってくれてるように感じるけど子供だから対象外だし、クレアさんにはアルバートがいるし。アタックしてくるアイリスは地位狙いだって露骨過ぎてヒクし、ケイトさんはすごい好みだけど人妻だろうしなあ。ハンナは……まあ、頑張って欲しい。アリサも結構好みではあるけど、メイドだから―――」

 ケンイチロウ(・・・・・・)の頭の中で、何かが嵌るカチリという音が響いた。



 ◇



 思わず立ち上がり、自分の体を見下ろす。

 ケンが着ているのはただの洋服ではなく真っ黒な鎧下(クロース・アーマー)で、急所部分だけ艶消しの黒に染められた硬革鎧ハード・レザー・アーマーに覆われている。

 愛用の黒い鎚矛(メイス)はいつものように腰の右側にあり、革手袋に覆われている掌には普通のプログラマーには有り得ない武器ダコがあるだろう。

「どうした健一郎」

「ごめん、父さん。もう行かなきゃ」

「今すぐか? もう少しゆっくりしていってもバチは当たらないんじゃないのか?」

「俺1人だったらそれでも良いんだけど、向こうでは仲間が待ってるんだ。だからなるべく早く行かなきゃ」

 ケンの表情から決意の強さを見て取ったのか、父親はそれ以上引きとめようとはしなかった。

「しばらく見ない間に男の顔になったな……おーい、母さん! ケンイチロウがもう行くってさ!」

「えー!? もうなの? 料理ぐらい全部食べて行ったら良かったのに」


 ケンが立ったままで居間の中を素早く見回すと、目的の物はすぐに見つかった。

 テレビ台の上で針金で吊られた真っ黒な蝶が風もないのにゆらゆらと動いている。蝶の翅には名状しがたい複雑な模様が描かれ、妖しく光を発していた。

 光る模様を直視せずに目の端で捉えるようにしながら、蝶の置物をそっと掴み上げる

「お父さん、お母さん。本当に名残惜しいけどもう行くよ」

「仕事があるならしょうがないな。頑張ってこい」

「体に気を付けて生活しなさいね」

「次にいつ来れるかは分からないけど、お父さんもお母さんもずっと元気でいてね」

 もう二度と来られないかもしれないとは決して言わず、ケンは右手で掴んだ夜光蝶を力いっぱい握り潰した。



 ◆



 暗闇の中、空を仰ぐケンの視界に広がるのは満天の星空―――ではなく、ごくごく鈍い光を発する岩の天井だった。

 <暗視>ゴーグルをかけた状態のケンならば、真夜中過ぎの今の時間でも岩の凹凸(おうとつ)まで見分けることができる。


 ふと、右手の中に違和感を感じた。

 いつの間にか顔の前で固く握り締められていた右の拳をゆっくり開くと、バラバラに砕かれた蝶の翅がひらひらと回転しながら落ちていく。

 ケンの周囲では、パーティを組む【ガルパレリアの海風】の男たちが虚ろな表情を浮かべながら、夜闇の中を舞う夜光蝶を見つめ続けていた。

 おそらく、直前まではケンも同じような状態だったはずだ。彼を催眠状態に陥れていた夜光蝶の個体が潰れたことで、どうにか正常状態に復帰したのではないか。現在の状態からそう推測を立てる。


「うぇへへへへへ……ナンシーちゃんもノーラちゃんもオリヴィアちゃんも喧嘩しないで……みんな平等に愛してあげるからね……」

 ケンのすぐ隣で斥候役(スカウト)のロドリーゴが好色そうな笑みを浮かべ、戯言を吐いていた。

 覚醒を促すためにロドリーゴの頬を殴りつける。苛立ちのせいで必要以上の力を込めてしまったことは否定しない。

「いってぇ! あれ?! ナンシーちゃんとノーラちゃんとオリヴィアちゃんが消えた……」

「地面を見ろ! 蝶を見るな! また夢から帰って来れなくなるぞ!」

「うええっ?!」

 状況を把握できずきょろきょろと視線を動かしていたロドリーゴに対して警告すると、さすがに状況を思い出したのか素早く指示に従った。何年も探索者として生き残っているだけはある。

「他の奴らはまだ悪い夢を見たままだから急いで起こすんだ! 殴っても目が覚めないようなら、蝶が見えないように目を塞げ!」

「はいっ!」

 今すぐに全滅するという最悪の事態は避けられたが、残り11人の男たちは全員がまだ夢の中だ。

 そのうち何人かの身体には、どこから湧いてきたのか分からないが粘菌生物(スライム)が取り付いている。脚や胴体に取り付かれている男たちはまだ大丈夫だが、地面に倒れている男の方は危険な予感がする。



 地面に倒れている男の傍に駆け寄ると、半透明のスライムが男の頭部をすっぽりと覆っていた。息苦しくないはずがないのに、男は歓喜の表情を浮かべたままぴくりとも動かない。

 このまま正気に戻してしまうと息苦しさから暴れ始める可能性があるので、先にスライムを何とかすべきだろう。

 しかし、手でスライムを掴んでも指の間から逃げてしまって上手く引き剥がせない。それならばと核を握り潰そうとしても、意外と硬さがあってケンの握力では無理だった。

 だからと言って、ケンが腰に下げたメイスではこの液体状のモンスターに対してダメージを与えることができない。

「チッ、駄目か」

「離れて!」

 駆け寄ってくるポールの手にある物を見て、ケンが男から距離を取る。

 ケンが目の前の男にかかりきりになっているうちに、ロドリーゴが他のパーティメンバーたちを全員覚醒させていたようだった。


 いち早く混乱から立ち直ることができたポールは、すぐにパーティが陥っている危機的な状況を把握して行動を開始した。一旦テントまで戻り、スライムに取り付かれている仲間を救出するための道具を湖の近くまで運んできたのだ。

 ポールはまず、男の顔を覆っているスライムにランタン用の油をぶちまけた。スライムだけではなく男の身体にも油がかかってしまったようだが、背に腹は代えられない。

 油に直接火を点けようとすると時間がかかるので、消毒用に持ち込んでいるアルコール度数が高い酒を油の上から少量ふりかけ、持ってきたランタンから適当な小枝経由で火を点ける。

 たちまちのうちにアルコールと油が燃え上がり、正気に戻った男が地面をのたうち回った。

 火から受けるダメージを少しでも少なくしようとしてか、頭を覆うために広がっていたスライムが体を丸めたことで男は窒息状態から解放され、一命を取り留めることができた。



 なんとか全てのスライムを撃退した直後、一同はすぐにテントを片付けた上で荷物を持って湖から離れた場所に移動した。

 どこからモンスターが襲ってくるか分からない中層の暗闇の中、周囲を明るく照らしながら移動するのはあまり褒められた行為ではないのだが、そうしたくなる気持ちも理解できる。

「これ以上探索を続行するのは無理だな。明日は予定を変更して、夜が明けたらすぐに帰るぞ」

 ポールの妥当過ぎる判断にはどこからも異論が出なかった。

 肉体的に負ったダメージはそれほどでもなく、傷は魔法薬(マジック・ポーション)で完治している。だが、未知の体験をしたことによる動揺は激しく、スライムに窒息死させられそうになっていた男は特に精神的な安定を欠いていた。

 スライムの溶解液による装備の損傷も懸念材料である。服は替え、鎧は綺麗に拭い取ったが遅れて影響が出てこないとも限らない。


 移動した先では、全員で周囲を警戒しながら夜明けを待っていた。本当なら帰路に備えて少しでも体を休めておくべきだが、あんな体験をした直後では呑気に寝てもいられない。

 結果的に誰も死なずに済んだが、少し違った展開になっていたら全滅してもおかしくなかった。

「ケンさん、少し聞いてもいいですか?」

「何でしょうか」

「あの虫……夜光蝶でしたか。ケンさんは名前を知っていたようですが、ああいったおかしなことをする力があるってのは知ってたんですかい?」

 ポールから放たれた質問の内容に空気が凍りついた。周囲にいる男たちは黙って周囲を警戒する素振りをしているが、意識の大半はケンの回答内容に向けられているのが分かる。


「はい、知っていました。私が【ガルパレリアの海風】に参加する直前のことですが、夜光蝶について調査しろという依頼を受けた時に特徴を聞きましたから。しかし、調査の結果によれば夜光蝶は乱獲によって既に絶滅しているはずで、人間を催眠状態にする能力があるなんて情報はまったくありませんでした」

 誰にも知られていなかったのか、一部の者以外には隠されていたのかは分からない。迷宮の中で独自に進化を遂げていたという可能性もゼロではない。

 ケンが夜光蝶に見せられた夢はとても幸せなものだった。幸せの種類は違っていたが、他の男たちが見た夢も同じようなものだっただろう。

 過去の権力者が夜光蝶を乱獲させていたのはこの幸福な夢を見るためで、独占するために情報を隠していたという推測も成り立つ。


「知らなかったとは言え、私が皆さんを呼んだせいで全員を危険に晒してしまったのは間違いありません。本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、ケンさんに謝ってもらうようなことじゃあねえですよ。行き先と野営場所を決めたのはリーダーである俺で、最初に蝶を見つけたのはロドリーゴの奴だ。全員を一箇所に集めたのは確かにケンさんの失策でしたが、別にケンさんも悪気があってやったわけじゃねえ。何が悪かったかって言えば少し(すこうし)運の巡りが悪かっただけで、良い夢見れた上に誰も死ななかったんだからこれでトントンでしょう。なあ、みんな!」

「そうですね! ケンさんが見に行かなければ俺が行ってたはずでしたからね。そしたら俺だけスライムに飲まれて死んでたかもしんないわけで……そう考えたらケンさんは命の恩人っすね!」

「……そうだな、どっちかって言えば得したかもしれねえな」

「夢じゃなくて本当にあんな大金があればなぁ」

「しっかし夢とは言え惜しかったな。もう少しで―――」

 誰も言葉には出さなかったが、仲間たちはケンの行動に対して疑心暗鬼を生じていた。あのままでは地上に戻るまでの3日の間にパーティ崩壊の危機を迎えていた可能性もある。

 それを察していたポールが全員を代表してケンに問い、ケンだけに責任があるのではないと話を持って行くことで、パーティの結束を取り戻すことができた。

 有能なリーダーを持つことができたこのパーティは間違いなく幸運だ。



「ところで、ケンさんが最初に目を覚ましたらしいですが、いったい何をどうやったんです?」

「……俺も皆さんと同じように幸せな夢を見てたんですが……途中でこれはどう考えても夢だって気付いてしまいましてね。夢の中で蝶を握りつぶしたら、現実でも上手い具合に蝶を潰してたんですよ」

 本当にあちらの世界が夢で、こちらの世界が現実かどうかは判らない。

 実際にはあちらの世界こそが現実で、こちらの世界は眠っている間に見る永い夢かもしれないのだ。

 どちらが正しいにせよ、ケンはこちらの世界で精一杯生きていくと前から決めている。こちらの世界で生きて、死ぬ時にどちらが正しかったのかは判るだろう。




 それから3日かけて<転移>門まで戻り、ケンが初参加した【ガルパレリアの海風】の攻略パーティの探索では全員が生還することができた。

 迷宮管理局の建物の中に戻って安堵したのも束の間、夜光蝶についてダニエルとエセルバートにどう報告するかについてケンは頭を悩ませる事になる。

これで一旦区切りです。

次回はできれば2月中に投稿したいと思っています。

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