すっかり教育されたかな
加えて、女史になって十年。今、小琳の頭の中には、時間を惜しむように読みあさった、内文学館の蔵書がぎっしりと詰まっていた。
すると、成嵐のカラッとした笑いが聞こえた。
「こんな時に、小女史に言葉を思い出したな」
「私の言葉ですか?」
「頭の中にあるものは誰にも奪えないってやつ。ほら、最初、いかにも女史長らしく説教垂れたやつだよ」
ああ、と小琳はその言葉を思い出す。
『頭の中にあるものだけは、決して誰にも奪えません。学びは無駄になりません。それはいつかあなたの大きな助けになりますから』――というやつか。
あの時の彼は随分と捻くれていて、自分のことなど爪の先ほども信頼しても、信じようともしていないかった。
(だけど今は……)
ふっ、と頬が緩む。
「どうですか。言葉の意味を、理解していただけましたか」
「どうだろうな」
投げやりな返事にも聞こえるが、そうでないことを、もう小琳はわかる。
扉を挟んでいるため、彼の顔が見えないのが少々口惜しいところだ。
「さて、悠長に雑談などできませんね。あまりに遅いと門兵が来てしまいますから」
「ああ。だけど、もうほとんど答えは出たようなもんだろ?」
烏頭と河豚を混ぜた毒物は、一定時間毒の効き目が失われ、その後に烏頭の毒性が復活するということがわかった。
この方法を使えば、その場におらずとも即効性の烏頭での毒殺は可能となる。
烏頭と河豚――それは、ここ最近にもよく耳にした気がする。
どちらの時も同じ宮が絡んでいたように記憶しているが、はたして偶然か。
「それでは、私は動けない誰かさんの代わりに、証拠探しでもしましょうかね。本当、手の掛かる教え子です」
小琳は、よっこらしょと腰を上げ、再び口元を布で覆い隠した。
幞頭も深めに被り、場を離れようと踵を返したところで、トントンと扉が叩かれた。
「何かありましたか、四殿下」
顔が見えるわけでもないのに、つい振り返ってしまう。
扉は沈黙していた。
しかし、すぐ後ろにまだ彼がいることはわかる。
「……危ないことはするなよ」
えらくぶっきらぼうな声が聞こえてきて、小琳は目を瞬かせた後、フッと鼻から息を吐いた。まったく、どちらが危ない状況だというのか。明日明後日には、命が尽きるかもしれないというのに。
「あなたこそ、証拠が見つけられるよう、祈っていてくださいよ」
小琳は飛び出すように大門を出た。
◆
小琳の足音が遠ざかり、大門に再び閂が下ろされる音がすれば、成嵐は再び垂花門に背を預けた。
「……師ね」
何が師だ。自分が知っている師とはまったく違うというのに。
「普通、たかが教え子に会うために喉潰すかよ」
本当、自分の想定をことごとく外れてくる変な女人だ。
「ああ……『たかが』なんて言ったら怒られるな」
彼女の怒る姿が生々しく想像でき、成嵐はクッと奥歯を噛みしめて笑った。
こちらの自嘲に合わせるでもなく、上辺だけの同情で否定するでもなく、彼女だけは本気で怒ってくれた。
最初から、『皇位継承権が一番下で後ろ盾もいない憐れな第四太子』でもなく、『明るい将来が望めぬ悲嘆から遊びまくっている呆子殿下』でもなく、ただの『教え子の成嵐』として扱ってくれた。
それが、どれだけありがたかったか。
余計な色眼鏡で見られないのは、本当に久しぶりだった。
母が亡くなってから、皆の自分を見る目は否が応でも変わったから。
こんな馬鹿に対しても、彼女はどうにかして有利な部分を見つけようとしていた。色々な書物や学問をさせ、適性があるのを伸ばそうとしていたのだろう。本当、そういったところは女史に向いているなと思う。
「すっかり、俺も教育されたかな」
存外、彼女が傍にいるのは心地好い。
彼女の隣でなら、思い切り息が吸える感じだ。
ずっと傍にいてくれた者というのなら、慈于もいた。が、彼はどこまでいっても自分の下につく側近でしかない。きっと、自分を殺せと命令したら、泣いて嫌だと言いながらも殺すだろう。それを批難するつもりは毛頭無い。それが側近という者のあるべき姿なのだから。主の意思を忠実に汲むことこそ、側近の意義である。
しかし、彼女はきっと殺してくれと言った瞬間に、張り手で横っ面を吹っ飛ばし、床に座らせて説教をするに違いない。『なに馬鹿なこと言ってるんですか』とか言って。
成嵐は、扉に後頭部をトンと当てた。
必然的に、視界には青空が広がる。随分と青が薄まった秋空に、鷹だか鳶だかがひゅうと横切った。
「さて……」
成嵐の目がすっと細められ、鋭い眼光が宿る。
彼女は証拠探しをすると言っていたが、探すとしたら西山宮の周辺か、西山宮の中だろう。
「師のくせに、微妙に考えが甘いんだよな……あの人」
それも仕方ない。
彼女は死が隣人の顔して日常の隣に居座っていた時代の後に、後宮に入ってきた者なのだから。今の後宮は、確かにまだ寵争いや権力闘争などの気配はあるが、かつての比ではない。この程度、児戯に等しい。




