どうしてあんたは、気付くんだよ
「……っ面白いことを言うねえ。俺が裏でなんて呼ばれてるか知ってるだろ? 噂や今までの態度見てれば、ふりじゃないってわかるはずなんだけどねえ。現に、こうして朝から酒も呑むし、馴染みの妓女だっているし。俺は噂通りの奴だよ」
肺から無理に息を抜いて硬直を解くと一緒に、再び足を進める。
成嵐は口を挟ませないとばかりに、ツラツラと一気に喋り倒した。
小琳の反応はすぐには返ってこなかった。肩口にある顔は髪で隠れており、彼女が今どのような表情をしているのかわからない。
「……っ」
沈黙を怖いと思ったのは、はじめてだ。
さらりと、彼女の髪が首元で揺れた。
「もうそんな嘘吐かなくていいですよ。慈于殿にも聞いて、認めましたし。ただ、なぜ馬鹿のふりをしてるのかは、教えてくれませんでしたけど……四殿下に直接聞けって……」
「慈于め……っ」
奥歯がギリと軋んだ。
「というか、見てれば気付きますよ。私を誰だと思ってんですか。歴代最年少で女史長になった名高き小女史長様ですよ」
「まだ酔ってんな……」
「最初は噂通りの方なのかなって思っていましたよ。でも、講義で時折垣間見える知性や、昨日の観察眼の鋭さと博識さ……本当に馬鹿だったら、まず河豚だなんて気付きませんよ」
「それは偶々……」
「講義の後、ちょっと書庫の書物を触らせてもらいまして。最初は、慈于殿があなたのために揃えただけにすぎないと思っていました。読まれず、手も付けられていないだろうって……。でも、確かめたらどの書物にも埃は積もってなかったんですよ。これって、定期的に誰かに読まれてるってことですよね」
彼女の表情こそ見えないものの、耳元で諭すように優しく語られる声音は、どこか嬉しそうに聞こえた。
「それだけじゃなく、私の手を気遣ってくれる優しさもありますよね。他人の痛みに気付ける人は愚かとは言いません。本当にあなたが噂通りの人だったら、まず、苦手な三殿下に近付かないですし、私を助けることもしなかったでしょう?」
今度は、はっきりとわかる喜色が声に含まれていた。
だって、自分の背中で、彼女はクスクスと楽しげに笑っているのだから。いつもの雰囲気からは想像できない、少女のような軽く跳ねるような笑い声だ。
どうして、己がことでもないのに、そんな素直に喜べるのか。
どうして、誰も気付かないようなしょうもないことを、見逃してくれないのか。
「なんなんだよ、あんたは……」
いきなり現れて師だとか言って、自分のこれまでの日常も決心も感情も、何もかも掻き乱して……。
『呆子殿下』――いつからか、自分が影でそのような渾名で呼ばれていることを知った。
それで良かった。
そう思われるように生きてきたのだから、むしろ成功だと言えた。
皇太子になりたい、歴史に名を残したい、羨望されたいといった欲など、少しもなかった。
あるのは、関わりたくない、放っておいてほしい、面倒ごとはごめんだという逃避思考。
自分は、面倒ごとに首を突っ込んでしまった者の果てを――母親の最期を、痛いほどに知っている。
同じ過ちを繰り返してはならないと胸に決め、国と皇族の歴史を編纂した国史書に、名すら上がらないただの第四太子として記され、忘れ去られる存在でいようと思った。
学士に自分は教える価値のない馬鹿だと思わせ、内侍官には仕えても無駄だと距離をとらせ、時には昼も夜も関係なく酒の匂いをさせながら、内朝をうろついた。
他者を信じるな。
本心を決して悟られるな。
賢さなど無意味だ。
皇宮で生きていくには、誰にも警戒されない愚か者でいろ。
そうして出来上がったのが、呆子殿下と揶揄される今の李成嵐だった。
おかげで、母親という後ろ盾がない中でも成人を迎え、二十二という歳までこうして生きてこられた。
多少の悪戯はあるが、本気で命をとられにきたことはない。
何事も、命あっての物種だ。
だから、自分の生き方は間違っていない。誰にどう思われようとどうでも良かった。
それで良かった、のに……。
彼女に『自分と一緒に過ごす時間はもったいなくない』と言われた。
今まで、自分に耳障りの良い言葉を掛けてきた者達は皆、裏に嘲弄と下心を隠していた。
しかし、彼女の真っ直ぐに自分の目を見つめて、衒いもなく言いきる様からは、それが欺瞞でも憐憫でもなく、本心なのだと伝わってきた。
(それを、今更嬉しいとか……っ)
思ってしまった。
そう思った自分自身にも驚いた。
まだ、自分の中に何かを嬉しいと思う感情が残っていたとは、と。
同時に、彼女を怒らせてしまったと、今までさんざん怒らせるようなことばかりしてきたのに、背を向けて去って行く彼女の姿を見て、とても後悔した。
兄に手を掴まれ、痛そうに顔を歪めている彼女を見たら、身体が勝手に動いた。
「ラン様……」
いつの間にか内側に意識が潜り込んでいたようで、不意に呼ばれた名に、成嵐はハッと意識を浮上させる。
「なぜ馬鹿のふりをしているかは……色々と事情があるのでしょう。ただの平民の私と違って、あなたの背負うものは大きそうですから」
顔が見えない分、耳に神経が集中していた。
「ただ、あまり無茶はしないでくださいね。どうか自分を蔑ろにしないでください」
「注文多いな」
苦笑が漏れた。
「あと……」
「まだあるのかよ」
成嵐が困ったように苦笑まじりでぼやけば、彼女の華奢な身体が小刻みに揺れた。笑っているのかもしれない。
そして、彼女のささやかな律動がとまると、息を吸う気配が伝わってきた。
「どうか笑っていてください」
予想外の言葉に、ぐっ、と喉が痙攣した。
「幸せになってくださいね」
「ハハッ……なんだよ、それ」
笑って誤魔化してみたが、自分でも笑えるくらいに下手な笑いだった。
彼女がボソリとこぼすように呟いた。
「もう……教え子がいなくなるのは嫌なんですよ……」




