酒の飲み方を教えて差し上げますよ!
今までの学士であれば、一日サボれば、翌日にはもう西湖宮を訪ねない者がほぼだった。まあ、元より自分に教えたくて通ってきている者達ではないのだし、むしろお役御免の口実を得たと喜ぶ者ばかりだった。中には珍しくめげずに翌日も来る者もいたが、耳元で愛を囁いて帯に手を掛け、首筋を撫でてやれば、皆泣いて逃げ帰った。
だが、彼女に対しては、その方法が効かないのは実証済みだ。
むしろ、再度同じ事をすれば、今度こそ潰されかねない。何をとは言わないが。
「こうなったら、あっちが諦めるまでここで――」
「まあまあ、朝っぱらから飲んだくれとは、良いご身分ですね」
籠城でもするか、と言いかけた時、バンッ! と目の前に手が降ってきた。
いや、降ってきたなどという生温いものではなく、打ち下ろされたと言える強さだった。
「誰だ……っ!」
驚いた成嵐は、反射で卓から上体を起こし、手の主を確かめる。
卓を挟んだ向かい側に、卓を見つめる男が立っていた。男にしては小柄だと思ったが、彼の身に纏う官服の色が黒なのを見れば、納得である。
官服も位階ごとに装飾が多少異なってくるのだが、一発で差がわかるものではない。しかし、明らかに見てわかる差がある者達がいる。
内侍官だ。彼らは一般的な外朝の官吏と違い、皆、黒い官服を纏う。
一瞬、痺れを切らした慈于が来たのかと思ったが……。
「……っ誰だ、お前」
警戒を滲ませた成嵐の声に、ようやく男の顔が上がる。
「――っな!?」
顔を見て成嵐は瞠目し、言葉を失った。
「外での講義をお望みだったとは気付きませんで、すみませんねえ」
「しょ――っ、小女史!?」
「さて、講義のお時間ですよ……ラン様」
内侍官の官服を着た男、もとい、小琳は成嵐の向かいの椅子に、どっかと腰を下ろした。
「お酒の飲み方を教えて差し上げますよ」
彼女の額には、青筋が浮いていた。
◆
店を出ると、空からはすっかり緋色が消え去り、頭上一面に濃紺が広がっていた。
夜の訪れと共に花街には人が集うが、反対にそれ以外の場所からは人けは薄くなる。
そんな中、すれ違う通行人にチラチラと視線を向けられながら、成嵐は先に見える巨大な城壁――皇城を目指していた。
(どういった状況なんだよ、これは……)
背中に、小琳を乗せて。
「うぅーきもちわるいぃ……ラン様ぁ」
「頼むから、俺の肩で吐くのだけは勘弁して」
肩口で、言葉通りの気持ち悪そうな呻き声を漏らす小琳に、成嵐は顔を青くした。
彼女が頭を揺らすと、成嵐の肩口から垂れる長い髪が首筋を擦って、くすぐったい。
当初、彼女が内侍官のふりして被っていた幞頭は既に外れ、まとめていた髪もすっかり解けている。
内侍官は男の性を失うため、中性的な容姿になりやすいと言われおり、元より化粧っ気が薄く顔立ちも控えめな彼女は、官服を着て髪をまとめれば、内侍官と言われてもおかしくない姿だった。
今回の件は、おそらく慈于が関わっているのだろう。
花街にいることも街で使っている偽名も、奴が教えたに違いない。
(帰ったら覚えとけよ、慈于)
口の中で舌打ちをして、成嵐はチラと肩口を窺う。
「うぅ」といった呻きはまだ聞こえるが、身じろぎするたびに香る匂いは、やはり慈于とは違う。
(軽っ……)
ちゃんと食べているのか心配になるくらい軽い。
慈于も小柄だが、こんなに軽くはないし、もっと骨張っている。それに比べ……と思いかけて、頭を振った。
「ったく、酒の飲み方を教えてくれるんじゃなかったのかよ」
「こぇが……だめな、みほんれす……」
「本当、駄目駄目だな」
反論の余地のない小琳は、「つよいのにぃ……」とまた情けない声を出していた。
「まあ、よく健闘したよ。だが、相手が悪かったな。どれだけ呑んでも酔ったことなくてね」
一般的に見れば、彼女は充分に酒豪だと言える。しかし、さすがに酒壺を十本空けたくらいで、卓と仲良くなってしまった。
「うぅ……だまされたぁ」
「騙してないだろ」
成嵐は懐から水の入った竹筒を取り出した。潰れた彼女を見た雪仙が、気を利かせて持たせてくれたものだ。
「水は?」
「いりぁふ」
「なんだって?」
後宮で一番の智者と言われる内文学館の女史長が、ここまでぐでぐでになるとは。
眠いのか、目を瞑ったまま、竹筒を探して宙で手をふらふらさせる姿に、フッと笑いが漏れてしまう。
いつもの師としての威厳など、微塵もない。
栓を開けて、唇に竹筒を付けてやった。ふらふらしていた彼女の手が、肩口あたりでもぞもぞと手探りで竹筒を掴んだ。
一気に飲んでいるのか、耳元でゴクゴクという喉の音が聞こえる。
それで少しはマシになったのだろう。「ふぅー」と聞こえた声は、先程よりも随分良い。
「落ち着いたか」
「はいぃ。でも、できればもうすこし振動ひかえめで」
「贅沢すぎるな?」
仮にも自分は太子なのだが。
「なあ……なんでわざわざ罪を犯してまで、俺を探しに来たわけ?」
自分と違い、後宮の人間である彼女が、許可もなく皇城を出るのは処罰ものである。男装して出てきているのだから、絶対に許可などとっていないだろう。
「というか、女史長が後宮の規則を破るなよ。道やら法やら説いてる人間だってのに」
「規則は、やぶる者がいてこそ進歩するんです。いはんは必要悪です」
そんなわけあるか。
女史長の口から出て良い台詞ではないだろう。やはり、この女人はちょっと変だ。最初からわかってはいたが。
「聞きたいことがね……あったんですよ」
彼女は脱力するように肩に頭を乗せるが、先程より呂律は回るようになっていた。
「なんで、逃げたかって?」
「それもありますねぇ……正直、馬鹿のふりしてることよりも、私の講義をさぼったことのほうが重罪ですからね」
胸が、ドッと一際大きな脈を打った。
「は? 今……なんて……」
予想のはるか外から飛んできた言葉に、思わず成嵐は足を止めた。
瞠目した瞳は小刻みに揺れている。
彼女に息を詰まらされるのは、これで何度目だろうか。




