あっちでは雷が落ちるんだろうなあ
「その頃から既に成嵐様の噂は……今ほどではないですが、僕達内侍官の間では『先のない太子』って言われてまして。僕含め、西湖宮行きになった内侍官達は、出世からは外れたと当時はグチグチ言ってましたね。なんといっても、成人前に皇后宮を追い出されているわけですから。きっと皇后様の顰蹙を買ったんだろうって」
今の二人の仲の良さからは考えられないが。
当時の小琳はというと、ちょうど女史から女史長になるくらいだったと思う。
どちらにせよ、内文学館勤めで一般的な女官達とは置かれていた環境が違ったため、あまりそのような噂は耳にしていなかった。后妃の噂ならまだしも、太子の噂となると、とんと耳に挟まなかった。
「太子付きの内侍官は、後宮にある宿房とは別の、太子宮の中にある側殿で生活することとなるんですが、西湖宮に移った当初は十室は埋まっていた部屋が、次第に空室が増えていって気付けば、僕ひとりになっていたんですよ」
慈于は苦笑で流していたが、少なくとも九人は、太子の側近を辞めたということだ。どんなに傍若無人の妃嬪の宮でも、それだけの侍女が辞めることはない。辞めた内侍官達の行動は、明らかに『お咎めがあっても怖くない』と、成嵐をなめたものだった。
「それで、四殿下はどうされたんですか。もちろん、なんらかの処罰を……」
慈于は首を横に振った。
「もう、小女史長はお気づきなので言いますが、成嵐様はわざと西湖宮から人を減るように仕向けていまして……その結果でしたので、いなくなった者達を咎めはしなかったんですよ。僕はまあ、偶然残ったといいますか……さすがに内侍官が誰もいないってのは、許されませんので」
なるほど。人を遠ざけるために、馬鹿のふりをしていたと。
「でも、なぜ四殿下はそんなに人を遠ざけようと?」
慈于は手で包んでいた茶器を口に運び、コクリとひと口飲む。ほぅ、と温かな息を吐き、揺れる茶器の水面を見つめていた。
「……成嵐様が僕を池に蹴り落としたっていう噂、まだ覚えてますか?」
「ええ、もちろん」
自分は忘れることができないのだし。
「実はあれ、成嵐様が僕を助けてくれたんですよ」
「どういうことです」
「その噂って菊宴の祭の出来事で、出された料理の毒味は、各太子の側近がするんですけどね」
「まさか……!」
そこまで話されたら、大抵の予想はつく。
「ええ、成嵐様の膳に毒が仕込まれていまして。といっても、死ぬような強いものじゃなかったので、食事が終わるまで我慢して。それで、移動する隙を見計らって、成嵐様が僕を池に蹴り落としてくれたんですよ。正直、あのままだったら宴の場で戻していたでしょうし、池の中で吐けてすっきりして戻れました。吐いたものは魚が食べてくれますし」
「いや、笑い事じゃなくて!」
へらりと白い歯を覗かせた慈于を、小琳が一喝する。
しかし、彼が緊張感を持つことはない。
「小女史長は、そういった政争から離れた場所にいるから、気付きにくかったかもしれませんが、こんなのよくあることですよ。むしろ死毒じゃなかったし、相手は悪戯感覚です」
彼の気負いのないいつもと変わらない雰囲気から、本当によくあることなのだと窺えた。
「毒を盛ってきた相手は、わかったんですか?」
「この程度では調べませんよ。調べてもどうせわかりませんし」
諦念……とも違う。
温くなった茶のように、角のない微笑顔からは、本当に『この程度』と思っているのが伝わってきた。
成嵐が周囲に人を置かないのは、こういった危険から守るためかもしれない。
それか、限りなく危険を排除したいからか。
人が多くなれば、それだけ毒を入れる隙も増える。
「さて、僕からお話できるのはここまでです。あとは、成嵐様が戻ってきて、直接聞いてください」
慈于は、膝をパンッと叩くように両手をついて、椅子から立ち上がった。
「でも、すごいですね小女史長は。僕なんて、成嵐様がわざと愚行を繰り返してるって気付くのに、三年かかりましたよ」
「ちょっと妬けちゃうな」と、小さく肩を揺らしながら茶器を片付ける彼は、最初の気持ちはどうであれ、今は心から成嵐を想っているのだろう。
きっと、何度も何度も翰林院に足を運んで頭を下げて、学士を呼んでいたに違いない。それでも駄目ならばと、内侍省にまで話を通して。他にも色々と成嵐のために動いてきたはずだ。
小琳は「たまたまですよ」と肩をすくめた。
「それで、慈于殿にお願いがあるんですけど」
「え、僕にですか?」と、慈于の視線が茶器から小琳に向いた瞬間。
「ヒッ!」と、慈于は喉を震わせた。
微笑む小琳のこめかみに、青筋が浮いていた。
◆
慈于は、西湖宮から一歩一歩と確かめるように廊下に出て、空を見上げた。
昼頃までは湿った空気が漂っていたのだが、今はさらっとしたものだ。
灰色の雲間から、薄明かりが漏れている。
どうやら、彼女が降られる心配はなさそうだ。
「こっちは降らなかったのに、あっちでは特大の雷が落ちるんだろうなあ」
雷を落とされる者のことを想像して、慈于は口端を引きつらせた。
まあ、自業自得だ。
慈于は、手元に視線を落とした。
彼の手には、まだ温もりの残る女官服が握られている。
「彼女になら任せても大丈夫か。さて、僕は掃除の続きでもして待ってようかな」
クルッと軽快にその場で反転すると、慈于は鼻歌を歌いながら部屋の中へと戻っていった。
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