義秋君の大冒険
いちおう、義秋君の事も話しておきましょう。
永禄8年(1565年)冬
第13代将軍・足利義輝公が、三好らによって二条御所で殺害された。
『永禄の変』である。
本来は、5月に起こった事件である。
それを阻止するために、義輝公を口実を設けて近江に下向していただいたのだ。
それなのに……。
急遽小谷へと戻った俺は、各地に手紙を出しまくった。
まずは、松永久秀、内藤宗勝兄弟に。
そして、……生き残った上様の奉公衆にも。
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― 洛中某所 ―
様々な憶測と噂が飛び交い、京の町は騒然としている。
上京のとある屋敷にて、ある会合がもたれていた。
浅井長政からの知らせを受け、義輝の近臣、三淵藤英、細川藤孝、和田惟政、一色藤長が論じている。
彼らは伝手を頼り、将軍殺害のおおよその概要は把握していたものの、松永の動きが読めなかった。
敵なのか、味方なのか、あるいは中立か?
配下の者を遣わせ、松永久秀の動向を警戒していた所に小谷から書状が届けられた。
『犯人は三好である、敵の謀略に惑わされぬよう。 松永久秀と密かに連絡を取られたし』
という長政の書状により、事態をほぼ正確に把握したのであった。
何より、活動資金として金子が添えられていたのが有り難い。
「上様を御護りできなかったのは、末代までの恥でござる」
「弟君を御護りせねばならん」
「かくなる上は覚慶さまを立て、三好に目にもの見せようぞ」
「いざ大和へ!」
大和の興福寺にいる覚慶を擁立すれば、今後が期待できることを敏感に感じ取り俄然やる気が出るのであった。
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― 興福寺、一条院 ―
将軍義輝公が死亡したのを境に、覚慶の人生は、大きく替わってしまった。
この事件がなければ、覚慶は還俗して「義昭」と名乗ることはなかったに違いない。
僧から武家の棟梁へと、目指すものが180度一変わってしまった。
将軍家の次男であった彼は弟とともに、武家としての人生から遠ざけられていた。
ひたすら仏道に生きるさだめを背負わされていたのだ。
幼い頃より大和の興福寺、一条院に入って、29歳になるこの歳まで仏門一筋の道を歩んできた覚慶なのだった。
そんな彼が、いきなり突然、今まで遠ざけられてきた武家の世界で将軍を目指すことを強いられたのだ。
もはや、彼に一乗院門跡として安穏と暮らす権利はなくなってしまった。
松永久秀の縄張りである大和に、興福寺があったのが彼の運の尽きであったといえよう。
『将軍を目指すのか、新将軍(義栄)のライバルとして消されるか』、究極の二者択一を強いられたのである。
「は~ぁ、なんだかなあ~」
偉い坊さんらしくない溜息を吐く、覚慶であった。
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「ぐぁ~、筒井めぇ、本当に腹が立つ~ぅ!!」
正直、松永久秀は窮地に陥っていた。
三好に同調した筒井家が、どうにも目障りであった。
「首謀者は、『松永久秀』である」…と、まことしやかに噂を流されてしまった。
思わぬ濡れ衣を着せられ、初手で大きく出遅れた久秀は、興福寺の対応にも苦慮していた。
とりあえず、なんとか中立を保っている状態である。
とても松永家が、覚慶を近江へと連れ出せる状況になかった。
「遠いところより良く来てくださった!」
長政の意をうけやって来た、義輝の近臣達。彼らの来援に、久秀は手を叩いて喜んだのであった。
「そうですな興福寺はともかく、筒井家や三好家は信用がならないでしょう」
まずは久秀が、大和の現状を伝えた。
「「三好方は、覚慶さまを亡き者にしようと画策しているはずである」」
三淵藤英、細川藤孝兄弟が、危惧を述べた。
「今彼を失えば、義栄の将軍就任がほぼ確定してしまう」
一色藤長は、そう推測を語り。
「なんとしてでも無事に、逃がさなければならない」
近江の地理に明るい、和田惟政が逃走の経路を提案した。
久秀と三淵藤英、細川藤孝、和田惟政、一色藤長達は、夜を徹して語り合い『覚慶脱出』の策を練った。
『筒井家が三好と同調している以上、大和にいては御身が危うい』
これが、一番の問題である。
和田惟政配下の甲賀者の手引きを利用して甲賀へと逃れることとなった。
一条院から、目指す甲賀の和田屋敷(現在の甲賀市甲賀町和田)までは、かなりの距離(50km)がある。
困難な作戦であった。
筒井方に悟られないよう、覚慶を出入りの者の荷物にしのばせ、密かに一条院を脱出させた。
久秀配下の商人の隊列に紛れ込み、なんとか大和を脱したのであった。
しかし、伊賀越えルートは困難を極めた。
曲がりくねった山道は、簡易な絵地図で見るよりも遙かに険しく難儀したのである。
ほとんど外出をしたことのない覚慶にとって、それは苦難の始まりであった。
難儀なのは道だけではない、未来の将軍を逃がすという、気が張り詰める山中強行軍である。
何しろ、命を狙われている覚慶の逃亡なのだ。
少なくとも、普段の旅ような気楽さとは無縁の決死行は、一行の心身をすり減らした。
「おのれ三好め!」
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― 甲賀 ―
ようやくのことで、甲賀まで逃れてきたのであった。
そろそろ雪が降り始めており、これ以上の移動は困難であった。
覚慶一行は、当座の目的地、甲賀の和田屋敷に到着した。
「本当はこのまま小谷近くまで行きたいのだが……」
細川藤孝が、本音を漏らす。
「とても無理でござる、小谷は雪深いゆえ」
和田惟政が、現実を告げた。
「「いたしかたあるまい」」
覚慶は、近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を継ぐことを宣言した。
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そのあと覚慶らは、和田惟政の薦めで近江守護六角承禎に繋ぎをとった。
永禄9年(1566年) 正月
矢島に用意された館に入り、還俗して足利義秋(のち義昭へ改名)を名乗ることとなった。
矢島の義秋居館は、矢島御所と呼ばれ矢嶋越中守が警固に当たった。
義秋は、奉公衆の薦めで各地に書状を発給した。
関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに、自らの健在を示した。
将軍の近臣を狙う彼らは、浅井長政の勢力の増大を密かに危惧していたのであった。
そのため、小谷に入る前に義秋に権威を持たそうと画策したのである。
ここで幾つかの齟齬が発生した。
三淵・細川は、長政の能力を高く評価しているのだった。
べつに、浅井の意向に逆らう意図はなかった。義秋に価値を付けたかった。
長政は、新年と云うこともありとても多忙だった。
将軍のことは、松永と三淵・細川達、近臣に任せておけば安心と、油断していた。
久秀も同様に、三好と筒井の対応に追われており、長政が使わした近親達に任せてしまっていた。
和田惟政も、義秋を確立するのに必死だった。ただ、彼は浅井家の急成長を知らず、守護六角家を頼った。
六角承禎は、油断していた。何もかも、家臣任せであった。
その状況に、蒲生賢秀はほくそ笑んだ。
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3月
義秋の健在を示し、三好三人衆打倒を各地に要請した事が逆にあだとなる。
三好長逸が、不満を持つ国人衆を取り込み、南近江で反乱を起こさせたのだった。
矢島御所にも三好三人衆の兵が攻めてくると急報が入った。
さいわい、長政寄りの国人衆の素速い対応により小規模で鎮圧が出来たが、義秋の不安は高まった。
「なぜここに居ることが、バレてしまったのだ?」
(書状を書いておいて、それはないだろうと思うが……マジでびっくりしたらしい。)
六角家に内通疑惑が生じたため、近江が安全では無くなってしまった。
(なかば、勘違いの部分はあるモノの危機感を持つことは大切である。)
いかんせん義秋は、平和にボケた元お坊さんであった……。
管領や守護に書状を書いていた義秋は、当然守護の方が守護代よりも力があるものと認識していた。
近江守護の六角家が頼りにならぬ以上、守護代に頼るなどお門違いと感じていた。
それに追い打ちをかけるかのように、事態は急展開を見せる。
知らぬ間に承禎の家臣として、蒲生賢秀、朽木元綱が義秋に接近していた。
義秋に言葉巧みに取り入り、讒言していた。
『浅井長政は、卑しい身分の者である』 『傲慢にも、六角家を食い物にしている』 と、絶妙な匙加減であった。
かくして、義秋は讒言に惑わされてしまった。
本来僧である覚慶だ、「浅井が下手人」などあからさまな讒言であれば見抜いたであろう。
しかし自分の思いや、漠然とした不安を、蒲生らに上手く突かれてしまったのである。
義秋は、「小谷に行くべき」という近臣の意見を強引に取り下げた。
ひそかに、若狭守護、武田義統を頼り亡命していったのだった。
さらに武田家を去り越前朝倉氏を頼るのですが、それはまた別の機会にお話しいたしましょう。




