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『浅井の大返し』

ここまでは、我慢してね。

次話から、完全オリジナル?

となります。

7月15日の同じ日に美濃では

斉藤義龍は突如出撃命令を発し西濃へ5千の兵を派兵、残りは織田の監視にあたらせた。

粛々と東山道を西進した。間者の報告を受け、すでに街道は封鎖しており人留めをしている。

万全の体制を整え、進軍。

六角義治がおこした肥田城の戦いと呼応して斉藤義龍が不破の関の攻略に向かった。

西美濃の兵をあわせ総勢8千、目指すは北近江。

浅井勢は六角勢二万で肥田城に釘付け状態だ。本拠の小谷はがら空きである。

「ふふふふふ一色の儂が京極の被官の浅井ごとき蹴散らしてくれよう。」


同日夕刻

美濃勢は守りの薄い不破の関の砦を紙のように難なく突破した。

大軍の襲来に恐れをなし砦の兵は逃げ去った、臆病な浅井らしい無様なものだ。

義龍は策がなったと会心の笑みをうかべ、そのまま夜襲をかけるべく号令し行軍した。

心はすでに柏原・醒ヶ井に在った。あるいは琵琶湖か?

中山道を西進する義龍軍。

しかし、山中の陣にて待ち構えていた佐和山城主磯野員昌率いる伏兵2千が斉藤軍を攻撃した。

「殿はこのことをすでに見越しておられたか?」

そこは一見材木の切り出し現場にしか見えない空き地が点在する。が、伏兵には絶好の場所が数カ所整備されていた。

殿の配下の黒鍬者に案内され、磯野隊はそこで息を潜め待ち構えていたのである。

磯野の采配が振るわれ、眼下の敵軍に一斉攻撃がなされた。

山の隘路で側撃を受け、混乱、義龍の叱咤も虚しく斉藤勢の進軍が停滞。

「怯むな相手は小勢だ」統制が乱れる。

そこを荒神山からさっさと引き揚げてきた遠藤直経率いる別働隊が手ぐすね引いて迎え撃つ、いや襲いかかった。

宿敵六角を前に(本気を出すことを)おあずけを喰らって「怒れる遠藤隊」は容赦なく美濃兵に食らいついた。

浅井軍2千と3千の計5千の兵が斉藤軍8千を押しとどめる(斉藤軍実働部隊は6千)


同日夜、浅井家の主力から抽出された機動部隊3千が整備中の小谷街道脇往還藤川ルートで迂回、逆進撃し

がら空きの後方西美濃西部を蹂躙する。先導として明智光秀が1千の部隊を預けられ率いている。

「美濃に明智の旗を立てよ」賢政のそう下知され感涙にむせびながら光秀は、「殿の恩義に報いる為、全身全霊でお仕え申さねば。」預かった部隊を的確に差配する。


斉藤勢が落とした不破の関砦は手薄な上にまさか美濃の方角が攻められ大混乱。

すぐさま本隊に伝令が走った。「殿、旗印に水色桔梗」がございます。

浅井勢の別働隊が攻めるまでもなく不破の関砦は戦意を喪失してしまった。

関を奪還されれば、完全な挟み撃ちに遭うと後方部隊は遁走をはじめた。

斉藤軍は大混乱、指揮系統が壊滅し足軽が逃げはじめる。

遠藤隊はそのまま追撃戦を展開し斉藤勢を駆逐していく。

磯野隊は柏原まで兵を進め機動部隊と合流した。

斉藤方の守りの薄い砦や城主不在の城が戦わずして降伏した。

その中で菩提山城主の名代として、菩提山城の留守を守っていた重治が城の守りを固め徹底抗戦の構えを示した。

わずかな手勢で守りを固めた竹中兄弟であった。

竹中半兵衛きた~っ。

菩提山城については俺自身が対応し赤尾清冬に威圧せず丁寧に降伏勧告するよう言い含めの使者として送り出した。

しかし、かたくなに拒否を貫く姿勢を示した為、無理をせず様子見だ。囲みを解かせた。

俺は捕らえていた竹中重元を呼び、所領安堵の書状と供に菩提山城に送り届けると提案した。

重元が「美濃武士の誇りにかけて主君を変えることはない」と頑なに拒絶した。

俺に仕えるように再三勧めたが受け入れられず、父子ともに退去しようとした。

重治も「父に従うまで」と臣従を拒否した。

俺ってそんなに魅力がないか?

翌日、再び竹中重元の元を訪ねた。

「私は律儀な重元殿、知恵者といわれる半兵衛殿、まだ若い重矩殿を手にかけたくはない」と重元、重治、重矩父子を脅した。

「出来れば穏便に済ませたい。そもそも今回の戦は義龍殿が六角家の新当主義治殿をそそのかして浅井に仕掛けたことであって、こちらからいくさを仕掛けたわけではない。民の平穏を守るのが領主の勤めである以上いくら自分が戦いたくなくても戦うべき時は戦うしかない。

優秀な領主を追い出してなんの益がありましょう。

皆様がこちらが示した誠意や譲歩が信じていただけないなら、民も信じないでしょう。

敵を説得できないのなら遺恨が残らぬよう根絶やしにするしか解決法はありません。

あなたたちは垂井の住民をおろかな斉藤氏に対する警告の贄として皆殺しにして良いとおっしゃるのですか?私はイヤですね。うんと言われるまで何度でもお話しさせていただく。」

「何故私たちをそれほどまで?」

「良き領主だった方には皆声を掛けていますよ、逃げてしまわれた方もいますが。」


竹中家の所領を安堵し重元を菩提寺山城城主に任じること。

嫡子重治を対美濃の相談役として小谷に招くこと。

重矩を自分の旗本として召し抱えること。

で最終合意した


気が立っていたので、三顧の礼をするのを忘れた。

翌日、その旨を半兵衛に話したら、乾いた笑いとともに謝罪された。

ごめん、軍師を迎えるのに三顧の礼を忘れちゃったよ~。

はははあっはh、殿お気遣いなく、拙者、耳学問でして失礼いしたしました。


ともかく、浅井勢は関ヶ原・垂井・上石津・養老を完全支配下に置く事に成功した。

略奪暴動の一切を禁止して軍紀をあらためた。

半兵衛は感心していた。

すばらしい

何が?

足軽の略奪を禁じるのはなかなか出来ないことです。

もう、俺の領地で、領民なんだし当たり前じゃないか。

俺の兵は普段戦わないんで戦ずれしていないからね。


南宮山・朝倉山の城を浅井家東部拠点とし、遠藤直経を城代に任命した。

揖斐川西岸一帯に睨みを利かせられるのは遠藤君だけだ。


承禎様の忍びの報告によると、

斉藤義龍はすぐさま逆襲を試みるも、義龍軍の敗退を好機ととらえた織田信長が侵攻の動きを見せた為に、

俺との再戦を断念せざるを得なかったらしい。信長ナイス!!


マジ危なかった。戦いに不慣れな浅井軍では。2正面作戦なんてとても無理である。

六角が退いてくれて良かった、マジやばかった。六角だけで飽和状態だから、マジ蹂躙されるところだった。

義龍も止まってくれて助かった、再侵攻があったら、関ヶ原・垂井以外は放棄する予定だったからな。

とりあえずの緩衝材として不破光治を調略、事態を静観させよう。

出来ればこれ以降は待ちに徹したい。

平野部での戦闘は被害が大きいし、守りにくい。

最終的に西美濃衆を調略でこちらに引き込むよう、誠意を示そう。


安八郡の手前までを支配域に組み込む方針だ。



18日戦闘終結

浅井家が杭瀬川以西を支配地とする新たな軍事境界線を斉藤義龍と締結した。



浅井賢政の名声は上がり。

浅井家は戦国大名として華々しく返り咲いた。

六角家とは対等の立場にまで戻ることとなった。


対して六角義治の名声はどうしても低下せざるを得なかった。

敵に捕らえられる事を怖れた義治は、さんざん逃げ回った末、観音寺城に引き籠もった。


実際は慢心していた六角勢全体の責任であるという認識は有ったのだが、つまらない理由で大軍を

発令した総大将の責任は否めなかった。




今回の大戦おおいくさの事の次第が判明すると六角家中の義治を見る目は冷ややかなものとなった。

肥田城攻めが、斉藤家の浅井攻略と連動しているのはバレバレであった。

完全に義龍の手駒にされている。

現在浅井家は六角家に従属しているにもかかわらず、それを切り捨て斉藤を呼び込むとは。

一歩対応を間違えれば、斉藤家に柏原・醒ヶ井、米原辺りまで進出される可能性があったことに皆が嫌悪感を抱いた。ましてや捕らえられそうになり、逃げ回るなど。

いや、総大将なので逃げ回るのは仕方がないが、引き籠もってしまうとは情けない。

いくら、気に入らないとはいえ、六角の当主になっている以上従うしかない。

江南の諸将は行く先を悲観した。

あの温和で大人しい賢政殿が祖父亮政を超える将器の持ち主とは、気付かなかった。

久政とは大違いだ。彼に率いられた江北の軍勢に勝てる気がしない。

眠れる獅子を呼び起こすとは、義治めいらんことをしてくれた。

義治のこのたびの動きを害悪と見なす者が増える気配だ。


配下の忍びから不破の関の顛末を聞いて、斉藤の思惑を知った承禎も頭を抱えることになった。




7月25日 

再び観音寺城にて六角承禎と会見、六角家に含む所がないことを再度説明

大名となってもこれまで通り守護を支えると表明した。

後日、六角方の捕虜は賢政と承禎の話合いの取り決めより速やかに六角に返された。


8月1日


浅井賢政は名前を浅井長政に改めた。


六角家からの決別表明ともとれる改名に、江南の諸将は恐怖した。


義賢が改名したのに伴って改名したとも

賢を名乗る他の武将との混同を嫌ったとも、

同様に鮮やかな勝利をおさめた信長にあやかったのだとも噂された。


浅井家独立に家臣の忠誠もうなぎ登りに上がった。

浅井家の名声が上がったお蔭で、各地から仕官希望者が集まることとなった。


浅井の鮮やかな勝利に京の町衆も噂に花が咲いた。

みなが「不破の関の戦い」と呼ぶ

また、一連の鮮やかな戦闘から「浅井の大返し」ともてはやされた。

遠くの今川より、身近な六角、有名な斉藤の方が京童には判りやすかった。


もちろん、噂が広まるように手配をしたけれど。



将軍足利義輝は自身が走衆に任じた若き武将にたいして好感を持った。

「まさに武士の誉れである」と絶賛した。



8月5日

南宮大社は金物の神様であることから、

浅井長政は国友の鉄砲鍛冶師をはじめ、他多数の鍛冶師鋳物師を引き連れ南宮大社に参拝をする。

横領されていた土地を取り戻しあらためて寄進した。


この一連の行為により多くの職人が「長政様は敬虔なお人柄。」「職人の保護者である」として長政を慕った。

国友村は参拝の礼として浅井家に鉄砲300丁を差し出した。



読んでくれてありがとう!

『浅井はやっぱり』を見てくれていた人は、次からが本当の始まりかな?

お楽しみに!


物語は『長政?はつらいよっ!! 静かなる逆襲!!』の方が先行します。

そちらも、面白くなってきましたよ、読んでください。

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