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シャール王国という最期。 中

あらあら、父様ったら大正解ね。やっぱり才能があるわ。


父親がこの場に居れば、何の才能だ、と苦虫を噛み潰したような顔になりそうな事を言い放ったのは、空に浮かんで王都を見守っていた皇太后マリアベル。


エリザの傍近くからアルトを遠ざけたマリアベルは、その足で王都へと赴いていた。

人を地上に縛り付ける肉体がすでに無いマリアベルにとって、何日もかかるであろう距離も数回の瞬きの間に、空を飛び越えることが出来た。

そして、自身が生前暮らしていた懐かしき王宮を、若い頃には夫と共に忍びで巡ったこともある王都を、マリアベルは見下ろしていたのだ。

それは、王都に置かれている、父親から切り離した"目"達からの、「ちょっと、おいで」という呼びかけを受けての事だった。


本体であるオウキは、多分もうしばらくは使い物にはならないだろう。マリアベルの兄弟達が、頑張ったら母さんも見直してくれるかもよ、と励ましている最中。それが無くとも"壁に突き当たれば突き破ってしまえ”という教えを子供達に教え込んだオウキのこと。すぐに復活を遂げて好き勝手を再開し始めていたかも知れないが、ジャスミンが産んだ自分の血を分けた子供等に慰められれば、それも少しは早くなる。そうでなければ、せっかくの計画が台無しになってしまうのだから、さっさと復活してもらわないと困るというものだ。


切り離されている事が幸いとして、僅かな影響だけで済んでいた"目"は、もくもくと自身が担う役割を果たしていた。

そして、彼等がマリアベルを呼び寄せたのは、好機が訪れたからだった。


マリアの移動。

シャール王国から、皇国へ。


それは、とうの昔にオウキが考え付いていたことだった。

マリアの『お願い』によって寂れていく一方の王国を、マリアは絶対に捨てる時が来る、と。

その時に、オウキは二つのことを言い添えた。

一つ目は、確実にマリアは王国は更地にして行くだろう、ということ。

二つ目は、移動は確実に、玉座に乗って見せびらかすように行軍するだろう、と。

その意見に、マリアをよく知るオリヴィアが、少しだけ頭を捻りながらも、頷いていた。多分、付け足しながらの同意だった。だが、それをオウキは自信満々に、笑顔さえも浮かべて断言したのだ。「やるよ、絶対。」と。


その二つは、まさに今、マリアベルの足下で始まっていた。


もしかして…。マリアベルは何とも言えない不安に襲われていた。

母と出会う事がなければ、オウキもそんな事を仕出かしていたのだろうか、と。


まぁ、そうだったのなら。

母の子であるマリアベルや兄弟達は確実に存在していないのだし、今必死になって動いている子供の世代も孫の世代もいないのだから、考えても意味は無いのだ。

誰がオウキを止めるのか気になりはするが、考えてもしょうがないという考えで決着がつく。


だが、一つ言うことがあるとすれば、オウキならば此処まで詰めの甘い行為をするとは思えない、ということだ。


シャール王国の中心にある王都から、皇国の中心の都まで。

御輿の上の玉座に腰掛け、お気に入りの青年との遊びに興じて御機嫌なマリアに、不快な思いをさせないようにと慎重に、揺れ一つ起こさないように、ゆっくりとゆっくりと歩いているこの行軍が、どれだけ掛ければ辿り着けるのだろうか。

『お願い』によって動いている彼等が、休憩として歩みを止めることもなく、御輿を下ろすこともないだろう。疲れを訴えることは出来なくとも、確実にそれは体を蝕み、徐々に、そして確実に速度は落ちる。

片手の日数で足りるか?

マリアベルにも、確実な予測を出す事は難しい。


その間に、何かが起こるとは考えないのか。

まだ、完全に世界を我が物にした訳でもないくせに、余裕があるのか、自分の力を信じているのか、それとも考え付かないのか。


……そんなものに、己が家族を良いように使われた。マリアベルに沸き起こった苛立ちは、はっきりと顔に表れ、その目は細められた。


あら?


その細められたマリアベルの目の端に、何かが映った。

放っておいても良かったが、強く気が引かれ、マリアベルは顔を向けた。


それは、王都の出入り口である門を、よく見下ろせる高台に居た。


悪戯に吹く風に揺れる程に伸びている真っ白な髪は、まるで打ち捨てられた死者の頭に辛うじて残っているそれのように、手入れ一つされずボサボサに絡み合い、今にも千切れてしまいそうな程渇ききり、砂埃などの汚れが目立った。

手や裾がボロボロに解れ始めてさえいる服は、元の仕立てが良かったことが見て取れるものではあったが、何の手入れもなく、無造作に扱われていたことも分かる程薄汚れ、服としても意味が失われ始めていた。

服の上から申し訳程度に羽織られた外套にいたっては、襤褸切れの方がマシと言い切れてしまう程、穴や破れが目立つ状態だった。


美しいものだけしか陽の下に現れるなと『お願い』されている王都の中であれば、至高たる王太子妃の『お願い』が刻み込まれている王都の民達によって、排除されてしまうであろう出で立ちの男。


無造作に垂れ下がった髪は揺らせても、木々の枝となれば揺らすことは難しい。そんな強さの風だというのに、体を覆う装いにも隠し切れない程痩せ劣っている男の体は、フラフラと危なげに揺れてしまう。

だが、そんな不安定な揺らぎを見せているというのに、男の目だけは、ただ真っ直ぐに動く事もなく、王都の門、そして門の向こう側に見える行軍へと向かっていた。


まぁ、なんとも懐かしい顔だこと。


面影は、ほぼ無い。

見る影も無い程に、マリアベルが生前に見た姿からは、変わってしまっている。

笑顔が可愛らしい、誠実で、真面目で、そして穏やかな男だった。

少し不運なところもあって、幼少の頃からの付き合いである婚約者と親友に裏切られたり、とマリアベルがまだ王宮で催されていた夜会などに参加出来ていた頃の社交界を、色々と彩っていたことを思い出す。

行方知らずとは聞いていたが…。

マリアベルは、行軍を注視することも忘れ、彼の動向を見守ってしまった。






男を今、存在させているものは『絶望』だった。


生きることは苦しみで、何度も何度も、何もかも失ってしまった男が最後に持っている、この命を手放そうとした。

だが、出来なかった。

いや、何故か引き戻されてしまったのだ、何度も何度も。

左手で輝いている、何よりも愛おしい年下の妻から送られた指輪が、男の命をこの世に、この男の体に命を繋ぎとめる楔の役割を果たしていると、男は感じていた。

指輪さえ遠くへと追いやってしまえば、男は男でなくなることが出来ただろう。苦しみを感じることなく、我を失うことが出来ただろう。

けれど、そんな事が出来るわけもなく。

男の愚かさによって失ってしまった、大切な愛妻の、只一つ残ったよすがなのだ。どうして、手放すことが出来るというのか。

この指輪を一時でも手放してしまったことで、愛妻も、自分を義弟と、義兄と呼んでくれた人々さえも失ってしまったというのに。


あの時、もっと死に物狂いで抵抗出来ていたら。


そんな今さらな考えは、常に脳裏を駆け巡っている。


あの娘が、あそこに居る。

遠い過去、自分に背を向けて走り去っていった、幼少の頃からそうなるのだと思っていた婚約者。何処か甘えたで妹のようでさえあった女の面影を持ち、その上で親友と呼んで学生時代を送った男の面影も持っている娘が、男の霞んだ視界の中に映る。

父であった男も、母であった女も浮かべることなど、終ぞ浮かべたことが無いであろう、卑しい笑みを浮かべて男に地獄を与えたマリアが、見えた。


解れ始めている袖の隙間から、無数に着いた傷痕が覗く両腕を持ち上げる。

そして、弓を撃つ構えをとる。

食を絶ったことで痩せ衰えた腕では、その構えを留めることも難しく、痛みさえ走り、振るえが止まらない。

弓も矢も無い。

ただ、構えだけをしている姿は、滑稽なものだろうと、男は久しく動かしていなかった表情筋を使い、笑みを浮かべた。

剣や槍などはあまり得意でなかったが、弓は違った。

何より、男よりも手練だった妻が初めて褒めてくれた事だった。

"弓を引いている時の、凛とした空気と姿勢がとっても好き"と。


久しぶりに、朗らかに笑う彼女の声を思い出した。

罵りや恨み言でもいい、そう思っていても彼女の声を思い出すことが出来なかった。

ほんの少しだけ、正気に戻っている男は、それもそうだろうと笑う。

彼女は決して、そんな事を言う人ではなかった。だから、思い浮かべることが出来なくても仕方ない。男の前から消えてしまった後に言っていたかも知れないが、それでも男が知っている限りでは聞いたこともなかったのだから。


セイラ、罵りでもいい、恨み言でもいい。

君と同じ場所に行く事が出来なくても、それでも、どうか。一目でいいから、一言でいいから、僕に会いに来てくれないか。


男の命は尽きようとしていた。

体を傷つけても、食を断っても、何故か男の命が体を離れることは無かった。気づけば傷は塞がってしまっていたし、誰かかしらが男の口に食事を運んでいた。

だが、さすがに体が限界を迎えていると、男は感じていた。

分かるのだ、最期おわりが近いと。


そうして、男は思った。


彼女にあって、謝るためにも何かをしないと、と。


幸いにも、男には力があった。

何度も何度も繰り返し、死の淵に自身を追いやった事で、得る事が出来た力が。

いや、得たというのは少し違うかも知れない。

極限の状態に陥ることで、彼の中でうっすらと存在していた、血に含まれる力が凝縮された目を覚ましたのかも知れない。

彼は、遠い先祖から『風』を受け継いだ一族の中心に生まれた。それでも、その血が発現して『風』を操ることは無かった。

最期の最期、それが使えるようになったのは、きっとこうしろという導きなのかも知れない。


『風』を集め、『矢』を成す。

弓を引く動作は、それを確実に成す為。


先祖である風の魔法使いや、義弟になる魔法使いイザークが行なっているような、遠い異国にまで大嵐を送ったり、『風』を固めることで空に浮かんだり、自在に移動するするなんて力は無い。

あるのは、『矢』のように固めたそれを思いっきり標的に向けて放つ、ただそれだけの小さな力だ。


それでも充分だ。

男が狙う的は、無防備極まりない姿で、彼の目に映っているのだから。


弦を大きく引き、そして放つ。

男の目に最期に映ったのは、男が『矢』の形付けた『風』が、うねりを上げて真っ直ぐに的へと向かっていく。そんな光景だった。


結果など知らない。

男の目の前は真っ黒に染まる。

ドサッ。

それが男の耳に届いた最期の音だった。






まったく…馬鹿な人。

大丈夫よ、恨んだりなんてしてない。

ありがとう。

だから…。


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