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翌日。午後1時。
地下2階の自販機コーナーで、雨宮日和が十字架に磔にされたようなポーズをとっていた。
両腕を大きく広げ、自販機の端と端にあるボタンに指をかけている。
右手の指先は「あったか〜い」のココア。左手の指先は「つめた〜い」のソーダ。
彼女は、爆弾処理班のような真剣な表情で、その2つのボタンを睨みつけていた。
朝の顔とはいえ、奇行に走っている人には近寄らない方がいい。
ストップをかける理性に対して、彼女に話しかけてみたいという本能が打ち勝った。
「……いち……に……」
彼女がタイミングを計っている背後から、俺は声をかけた。
「その機種は、同時押しに対応していません」
日和はビクッと肩を跳ねさせ、広げていた両腕をだらりと下ろした。
振り返った彼女の目は、今日も安定して死んでいた。
「……墨田さん」
「制御基板が排他処理を行うため、同時にボタンを押しても、0.01秒でも早い方が優先されます」
「……やってみないと、わからない」
「仕様書にそう書いてあります」
「仕様書が間違ってるかもしれない」
「そこはメーカーを信じてください。天気予報を信じずに」
彼女は不満げに頬を膨らませ、再び自販機に向き直った。
「私は、ぬるいのが飲みたいの」
「ぬるい?」
「そう。熱くもなく、冷たくもなく。体温と同じくらいの、無害な液体」
「常温の水なら、3階のコンビニに売っていますよ」
「水じゃなくて、ぬるいココアソーダがいいの」
「……気持ち悪い飲み物ですね」
彼女は自販機のボタンを撫でながら、独り言のように呟いた。
「……熱いのは、火傷するから嫌。冷たいのは、お腹壊すから嫌」
「はあ」
「人生も同じ。熱血は疲れるし、冷血は寂しい。だから私は、ずっとぬるま湯に浸かっていたい」
「その結果が、地下倉庫でのプチプチ破壊活動ですか」
「あれは整地。心の更地を作ってるの」
彼女はまた両手を広げた。どうやら、諦める気はないらしい。
「墨田さん、手伝って」
「断ります」
「業務命令」
「私は貴方の部下ではありません」
「じゃ、お願い」
彼女は上目遣いで俺を見た。その瞳は、捨てられた子猫というよりは、餌をねだる深海魚のような切実さを帯びていた。
「……1人じゃ、指が届かないの。リーチが足りない」
「物理的な問題ですね」
「右のココアを押して。私が左のソーダを押すから」
「だから、排他処理が……」
「『せーの』で押せば、バグるかもしれない」
「バグりません」
「お願い。一生のお願い」
「その一生は、あと何回残っているんですか?」
「あと3回」
「少ないですね……」
俺はため息をつき、自販機の前に立った。
彼女の論理に付き合うのは時間の無駄だ。だが、ここで拒否して彼女が自販機を揺らしたり蹴ったりする方が、メンテナンスの手間が増える。
「……1回だけですよ」
「ん」
「タイミングを合わせます。私がお金を入れて合図を出します」
「了解」
俺は右側のココアのボタンに指を添えた。彼女は左側のソーダのボタンに指を添える。
狭い自販機の前。2人の距離は、必然的に近くなる。
彼女のジャージから、微かに湿った匂いがした。雨の日の図書館のような匂いだ。
「いきますよ」
「うん」
「せーの」
ピッと電子音は1度だけ鳴った。
ガコン、という重い音と共に、取り出し口に缶が落ちてくる。
当然、1本だけ。
「……どっち?」
雨宮さんが恐る恐る取り出し口を覗き込む。
出てきたのは、赤い缶のココアだった。
「……熱い」
彼女は缶を手に取り、悲しそうに眉を下げた。
「墨田さんの勝ちだね」
「勝負ではありません。私の反応速度が貴方より0.05秒ほど早かっただけです」
「……やっぱり、人生は厳しい」
「自販機の仕様です」
彼女は熱いココアを両手で包み込み、カイロのように暖を取り始めた。
「……でも、まあいいか」
「いいんですか」
「うん。墨田さんの指、温かかったから」
俺は自分の指先を見た。
ボタンを押す瞬間、彼女の小指が、俺の手の甲にかすめていた。
触れたことにも気づかないほどの、わずかな接触。
だが、彼女の皮膚感覚は、その温度を検知していたらしい。
「……私の指、冷たいでしょ」
「ええ。サーモグラフィで見たら、死体と同じ青色でしょうね」
「だから、ちょうどいいの」
彼女はココアのプルタブを開け、湯気を吸い込んだ。
「冷たい私と、温かい墨田さんで、平均したら『ぬるま湯』になる」
ズズッ、と彼女はココアをすする。
俺は、その論理の飛躍に、即座に反論できなかった。
熱力学的には正しい。
温度の異なる2つの物体が接触すれば、熱平衡に向かってエネルギーが移動する。
だが、それを人間関係に適用するのは、エラーの元だ。
「……私は人間で、貴方は妖怪です。種族が違うので熱交換は成立しません」
「またそういうこと言う」
彼女はクスクスと笑い、口の端にココアの泡をつけたまま言った。
「じゃあ、明日も実験しよ。今度はもっとぴったり合わせて」
俺は天井を見上げた。
どうやらこの実験は、継続案件になってしまったらしい。
俺の平穏なぬるい日常が、彼女によって少しずつ攪拌され始めている。
「……お金、返してくださいね」
「えっ、おごりじゃないの?」
「業務外の出費です」
俺は冷たく言い放ち、工具鞄を持ち直した。
彼女は「ケチ」と呟きながら、それでも熱いココアを嬉しそうに抱えていた。




