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翌日も俺は湾岸テレビの第3サーバー室兼OA機器備品倉庫に来ていた。
エラーを確認するために複合機に近づくと、そこには壁にもたれかかって床に座っている雨宮さんがいた。
「……何してるんですか?」
「ん。休憩。朝のZOPの生放送が終わったから」
「そうですか……」
よく見ると雨宮さんは赤い棒状の物体を手にしていた。暗い倉庫の中で、まるで非常停止ボタンのように鮮やかに主張している。
「……カニカマ?」
雨宮さんが、カニカマを食べていた。
それも、一本丸ごとではない。
裂けるチーズのように極限まで細く引き裂き、その繊維の一本一本を、愛おしそうに口に運んでいる。
黒いジャージ姿で膝を抱え、長い黒髪の隙間から、赤い繊維をすする姿は、妖怪の食事風景そのものだった。
「……あの」
俺が声をかけると、彼女は虚ろな目でこちらを見た。
「トナー粉が舞うかもしれないので、飲食は推奨しません」
「……これ、食事じゃないから」
彼女は口元の繊維を飲み込み、真顔で言った。
「これは、儀式」
「儀式」
「そう。カニの霊を慰める儀式」
俺は思考を一時停止した。彼女の論理回路は、俺の理解できるプロトコルとは異なる規格で動いているらしい。
彼女は残りのカニカマを、聖遺物のように掲げた。
「知ってる? カニカマって、カニじゃないの」
「知っていますよ。スケトウダラのすり身に、カニエキスと着色料を加えたものですよね?」
俺が成分表のような回答をすると、彼女は深く頷いた。
「ん。そう。つまり、これは『カニになれなかった魚の無念』が形になったもの。カニの模倣。カニの幽霊。……幽霊に、重さはないでしょ?」
「はあ」
「だから、カニカマのカロリーはゼロなの」
「……」
沈黙によりサーバーのファンが、ブォォォと低い唸りを上げる音だけが響く。
俺は、こめかみを指で押さえた。
突っ込むべきか、無視して作業に戻るべきか。カスタマーエンジニアのマニュアルに「ユーザーが科学的に誤ったカロリー計算を主張した場合」の対処法は載っていない。
だが、俺の口は勝手に動いていた。
「それは誤認があります」
「え?」
「幽霊かどうかはさておき、その物質は練り物です。主成分はタンパク質ですが、食感を出すためにデンプン、つまり炭水化物が含まれています。一般的なカニカマ一本あたり、およそ15キロカロリー前後。十本食べればおにぎり一個分に相当します」
俺が淡々と事実を陳列すると、日和の目が大きく見開かれた。
カニカマを持つ手が、小刻みに震えている。
「……嘘」
「事実です」
「だって、幽霊だよ? 足がないんだよ?」
「成分表に足の有無は関係ありません。質量保存の法則に従ってください」
彼女は絶望した顔で、手元の赤い繊維を見つめた。まるで、信じていた教祖に裏切られた信者のようだ。
「……信じてたのに。カニカマだけは、私の味方だと思ってたのに」
彼女はカニカマを、そっと袋にしまった。
「じゃ、私は何を信じればいいの? こんにゃく? それとも、空気?」
「まずは、ちゃんとした食事を信じることをお勧めします」
その時だった。
グゥゥゥゥゥゥ―――ン。
地響きのような音が、倉庫内に轟いた。
俺は即座に反応した。
「異音だ」
俺は複合機に耳を当てる。
「駆動ギアのグリス切れか? いや、この周波数は、もっと低い……床下の空調ダクトか?」
俺が音源を探してキョロキョロしていると、日和が膝に顔を埋め、小さく呟いた。
「……違う」
「え?」
「今の、私」
「貴方?」
「私のお腹の、断層がズレた音」
俺は彼女を見た。
黒いジャージの腹部あたり。そこから、確かに生命の飢餓を訴える振動が伝わってきていた。
国民的お天気キャスター。朝の顔。日本の孫娘。
そんな彼女の体内から、工事現場のような轟音が響いている。
「……朝食は?」
「食べてない。昨日も、その前も、ゼリー飲料だけ」
「なぜ?」
「……味がすると、吐き気がするから」
彼女は顔を上げないまま、くぐもった声で言った。
「仕事選び、失敗したなって思ってる。毎日人に見られるから……浮腫むと変に見られちゃうからラーメンも好きな時に食べられない。ま……やりがいがないって言ったら嘘になるんだけどさ」
どうやらそれなりに病んでいるらしい。朝の爽やかな顔の裏にこんな苦悩があるとは思わなかった。
俺は工具鞄の中を探った。
そこには、俺の非常食の栄養バーが入っている。
俺はそれを箱から取り出し、銀色のパッケージのまま彼女の前に差し出した。
「どうぞ」
彼女が顔を上げる。
「……なにこれ」
「バランス栄養食です。幽霊みたいな味がしますよ」
「ふふっ……じゃ、味はゼロだね」
彼女はしばらくその銀色の塊を見つめていたが、やがておずおずと手を伸ばした。
指先が触れる。
氷のように冷たい指だった。
「……ありがと。食べてみる」
「えぇ、どうぞ」
彼女はパッケージを開け、リスのように小さな口で齧り付いた。
サクサク、という乾いた音がする。
俺はその間に、複合機の修理を再開し、テストプリントを実行する。
ウィーン、ガシャン。
紙送りローラーが軽快に回り、一枚の真っ白な紙が排紙トレイに吐き出された。
エラー表示が消え、緑色のランプが点灯する。
「修理完了」
俺が呟くと、背後で気配が動いた。
いつの間にか、日和が俺のすぐ後ろに立って、複合機を覗き込んでいた。
カロリーメイトの粉が、口の端に付いている。
「……直ったの?」
「ええ。単なる紙詰まりとトナー詰まりの複合エラーでした」
「すごい」
彼女は、まるで魔法を見た子供のように呟いた。
「壊れてたのに、元通りになった」
「機械ですから。部品さえあれば直ります」
「ふーん……ね、お兄さん。人間は、部品交換できないよね」
彼女はまた、訳のわからないことを言い出した。
その瞳は、正常に稼働し始めた複合機の緑色のランプを、羨ましそうに見つめている。
「心がエラーを起こしても、再起動ボタンはないし、新しい心臓はAmazonで届かない」
「そうですね。だから人間は面倒なんです」
俺は鞄を閉じた。
長居は無用だ。修理は終わったし、不審者への栄養補給も済んだ。これ以上関わると、こちらの精神的摩耗が加速する。
「では、俺はこれで」
立ち上がろうとした時、ジャージの裾を掴まれた。強い力だった。
「待って」
「なんでしょう」
「お兄さん、名前は?」
「……墨田です。リコーダー社の」
「スミダさん」
彼女は俺の名前を、初めて覚えた単語のように復唱した。
そして、掴んだジャージの裾を離さないまま、宣言した。
「認定する」
「は?」
「今日から、ここを私の『シェルター』にする。そしてスミダさんは、このシェルターの『管理飼育員』」
「……お断りします」
即答だった。
「私はカスタマーエンジニアであって、飼育員ではありません。それに、ここはただの備品倉庫です」
「決定事項だから」
彼女は俺の反論を、強制終了させた。
そして、口の端についた栄養バーの粉を指で拭い、ペロッと舐めた。
「管理飼育員としての最初の業務命令。明日も、その幽霊味のやつ、持ってきて」
「コンビニで買えますよ」
「や、墨田さんにもらうのがいいんだ」
「……変な人ですね」
「ふふっ。よく言われる」
彼女の瞳には、先ほどまでの濁った色はなく、奇妙な光が宿っていた。
俺は大きく息を吐き、天井の蛍光灯を見上げた。
チカチカと点滅するその光は、まるでこれからの俺の運命を暗示しているようだった。
「……請求書は湾岸テレビに回していいですか?」
できるわけがない嫌味。それが、俺にできる精一杯の抵抗だった。




