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午前6時30分。俺の一日は、コンビニおにぎりの解体作業から始まる。
右手の親指と人差指で、パッケージの頂点をつまむ。正三角形の頂点にかかる力は、およそ二ニュートン。これ以上でも以下でもない。ゆっくりと、フィルムが剥がれる音だけが、1Kアパートに響く。
パリ、という乾いた音。
この瞬間が好きだ。世界中の誰とも関わらず、ただプラスチックと海苔の摩擦係数だけを感じていられる時間。海苔を割らずに完全な状態で取り出せた朝は、システムエラーのない一日が約束される。
その静寂を、4Kテレビの光が照らしている。
画面の中では、日本中が恋しているらしい女性が笑っていた。
『皆さん、おはようございます! 湾岸テレビお天気キャスターの雨宮日和です! 今日も心に虹をかけましょう!』
雨宮日和。23歳。
新人ながらも圧倒的ビジュアルによる視聴率女王にして『国民の孫娘』とまで呼ばれる朝の顔。所謂お天気お姉さんだ。
ウルフ気味のセミロングの黒髪にパステルピンクのブラウス。揺れるパールのイヤリング。彼女の笑顔は、画素の一つ一つまで計算され尽くしたCGのように完璧だった。
あまりに完璧すぎて、俺には彼女の顔が高解像度のテクスチャにしか見えない。
「……今日も、気圧配置みたいな顔してるな」
俺は独りごちて、リモコンの電源ボタンを押す。
プツン、と画面が黒くなる。
虹なんてものは、大気中の水滴が太陽光を屈折・反射して起きる光学現象に過ぎない。心にかかるわけがないのだ。
俺は静寂を取り戻した部屋で、海苔の角を少しだけ齧った。
うん。やっぱり俺には、朝の騒がしい輝きよりも、フィルムが剥がれる微かな音の方が性に合っている。
◆
午前8時30分。勤務先の株式会社リコーダーのオフィスに出社するなり、俺は所長の胃薬臭い息を浴びることになった。
「墨田くん。悪いが、湾岸テレビに行ってくれ」
所長は、まるで余命宣告をする医者のような顔で言った。
湾岸テレビ。通称『機材の墓場』。
24時間稼働の過酷な環境と、扱いが雑なスタッフたちによって、OA機器が次々と謎の死を遂げる場所だ。
「定期メンテナンスですか?」
俺の仕事はカスタマーエンジニア。早い話が自社のプリンタの故障や不具合が発生した際に駆けつけて修理する仕事だ。
「いや、緊急だ。地下の備品倉庫にある複合機が、異音を発しているらしい」
周りの同僚たちが、同情の視線を投げてきた。
「うわ、湾岸テレビかよ。あそこのプロデューサー、気に入らないとコピー機蹴っ飛ばすからな」
「墨田、あそこは人間の住む場所じゃないぞ。魔窟だ」
「ご愁傷様」
彼らは口々に不吉なことを言うが、俺は淡々と工具鞄を手に取った。中には、愛用の精密ドライバーセットと、テスター、そして予備のビスが入っている。
「問題ありません。機械は人間より嘘をつかないから楽です」
人間は「何もしていないのに壊れた」と嘘をつく。
だが機械は、ログを見れば「何をされて壊れたか」を正直に語ってくれる。
期待も不安もない。
墨田晴。28歳。
俺はいつものように、感情のスイッチをオフにして、現場へと向かった。
◆
午前10時。湾岸テレビの煌びやかなロビーは、異様な熱気に包まれていた。
すれ違うのはテレビで見たことのある芸人や、モデルのようなスタイルをした局員たち。香水の匂いと、作り笑顔の気配が充満している。
だが、俺の視線は彼らには向かない。
俺が気になっているのは、エントランスの自動ドアだ。
ウィーン……ガタン。
「……0.5秒、遅い」
センサーの反応速度が鈍っている。駆動ベルトのテンションが緩んでいるのかもしれない。あの女優のスカートの丈よりも、このドアの遅延の方がよほど重大な問題だ。
俺は誰とも目を合わせず、業務用エレベーターに乗り込んだ。
向かうのはスタジオのある華やかな地上ではなく、配管とケーブルが這い回り、重低音が響く地下。
チーン、という気の抜けた音と共に扉が開く。
そこは、別世界だった。
冷ややかな空気。コンクリート打ちっぱなしの壁。そして、巨大な空調設備の唸り音。
目的の場所は、廊下の突き当たりにある。
『第3サーバー室兼OA機器備品倉庫』と書かれた重厚な防音扉の前で、俺は社員証をカードリーダーにかざした。
ピッ。解錠音が響く。
ここは、局内で最も人間が寄り付かない場所だ。聞こえるのはサーバーのファンの音だけ。
安息の地だ。
そう思って、俺は扉を開けた。
結論から言えば、そこには先客がいた。
部屋の奥。廃棄予定となっている巨大な業務用複合機のリサイクルトナーボックス付近。そこに、黒い塊がうずくまっていた。
黒のジャージ上下を着て膝を抱えている。
セミロングの黒髪が顔を覆い隠していた。
だが、もっと異様なのは、その塊の手元だった。
彼女は、梱包用のプチプチを持っていた。
しかし、潰し方がおかしい。一つずつ、プチ、プチ、と指で潰すのではない。
両手で雑巾を絞るように、プチプチのシート全体をねじり上げているのだ。
ブチブチブチブチブチッ!! と空気が逃げ場を失い、断末魔のような破裂音を上げている。
それはストレス解消という生易しいものではなく、明確な殺意を持っていた。
……なるほど。所長が言っていた『地獄の釜の蓋が開くような音』とは、これのことか。
機械の故障ではない。人災だ。
俺はため息を飲み込み、その不審な背中に声をかけた。
「すみません」
塊がビクッと震えた。
「そこ、廃トナーの交換口なんで。退いてもらえますか?」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。
不審者は、スローモーションのようにゆっくりとこちらを振り向いた。
死んだ魚のような、濁りきった瞳。
目の下には濃厚なクマがあり、唇はカサカサに乾いている。
どこかで見たことがある骨格だ。
今朝、テレビの中で「心に虹をかけましょう!」と微笑んでいた人物と、そっくりだった。
だが、今の彼女は虹というより、梅雨時のカビのようなオーラを纏っていた。
雨宮日和。国民的お天気キャスターご本人が、地下二階の埃っぽい倉庫で、ゴミのようにうずくまっている。
「……なに?」
彼女の声は、地底の底から響くような低音だった。
「ですから、修理の邪魔です。その複合機、トナーがあふれそうなんですよ」
「……ここ、私の席なんだけど」
「いいえ、そこはリコーダー社製の複合機の背面排気口付近です。人間の席として設計されていません」
俺は正論を突きつけた。
彼女はぼんやりとした目で俺を見つめ、それから視線を自分の手元のプチプチに戻した。
「……知らない? プチプチの中には、小さな妖精が住んでるんだ」
「はい?」
「こうやって一気にねじ切るとね、妖精たちの悲鳴が聞こえて、すごく落ち着くの」
ブチブチブチッ。
彼女は再び、残虐な手つきでシートを絞り上げた。
狂気だ。
だが、不思議と恐怖は感じなかった。
彼女のその異常な行動には、彼女なりの切実な論理が通っているように見えたからだ。
彼女は俺を睨むように見上げ、さらに訳のわからないことを言った。
「お兄さんは妖精の味方? それとも、私の敵?」
その問いかけは、あまりに突拍子もなくて、けれど妙に真剣だった。
俺は彼女の瞳を見つめ返す。
至近距離で見ると、彼女のまつ毛が一本だけ、不規則なカーブを描いて逆さまつげになりかけているのが見えた。
整いすぎたテレビの顔にはなかった、人間らしい不完全なディテール。
なぜだろう。
その不完全なまつ毛を見た瞬間、俺の心臓が、ほんの少しだけ不整脈を起こした。
ドクン。
俺は冷静を装い、工具鞄からドライバーを取り出した。
「俺は、ただのカスタマーエンジニアです。妖精の生死には関知しませんが、貴方のそのジャージが静電気を帯びていることだけは警告しておきます」
「……静電気?」
「ええ。そのままだと、廃トナーの粉塵爆発を誘発しますよ」
俺がそう言うと、彼女は「爆発……」と呟き、ふっと小さく笑った。
「……それなら、それでいいかも。一緒に消し飛ぶ?」
その笑顔は、テレビで見せる百点満点の笑顔とは似ても似つかない、歪で、自虐的で、どうしようもなく無防備なものだった。
俺は数秒間、言葉を失った。
沈黙が落ちる。
「……」
「……」
サーバーの唸り音だけが、二人の間に流れる。
俺は視線を逸らし、短く答えた。
「……お断りします」
そう言って、俺は彼女の隣に膝をつき、複合機のパネルを開いた。
これが、俺と降水確率100%のお天気お姉さん、雨宮日和との、最初の遭遇だった。




