36. 傷心の日々
シシーは、エドガーに叱責されて以来ずっと、色々考えこんでは、落ち込んでいた。
(エドガー様は私の雇用主というだけでなく、侯爵邸に住まわせてもらっていて恩もあるわ)
頭ではわかっているのだ、でも理屈ではない。
(何も後ろめたいことはしていないのに、あんな言い方はひどいわ……いいえ、エドガー様に嫌われたのであれば仕方がないことよ。かまわないわ!……だけど、またあんなまなざしで見られたら、絶対立ち直れないわ)
侯爵家の人々と話をするのも怖くなった。シシーは侯爵邸に来て以来、とても幸せだったので、それを失いたくない気持ちもあった。
みるみるうちに、シシーから笑顔が減っていく。侯爵夫人やダリアからの気遣わしげな視線も避けた。そして、空いた時間は図書館にこもってますます勉強に没頭するようになった。
(王宮でも侯爵邸でもエドガー様を見ないですんでいるけど、ばったり会ったらどうしよう。ああ、私はどうしてこんなにつらいの? なぜ?)
執事のアーサーや、シシーと親しい侍女たちも心配していたけれど、エドガーは主なので、話題にするのをためらっていた。
(あと二か月足らずで、おばあさまが遺してくれた信託財産を受け取れるのだし、もう侯爵邸を出ていこうかしら……)
思いつきだったのに、シシーはそれしかないと思い詰めるようになった。
早速、亡き母方の祖母が遺してくれた信託財産を管理している弁護士と、母の実家のバーグ伯爵家に問い合わせの手紙を出した。前の下宿の経営者兼管理人であるマチルダにも、空室の確認をする。そこまでしてようやく気分が落ち着いた。
(前の下宿に戻って、また一人暮らししても、来年から弟を呼んで暮らせるだけのお金はあるわね)
週末のお茶の時間になった。前侯爵夫人からは、『絶対に一緒にお茶するわよ』と圧をかけられていたので、シシーは仕方なくその支度をしていた。前侯爵夫人と侯爵夫人にがっちり挟まれて、その日のティータイムははじまった。デザートは、ジュディスがシシーのために特に腕によりをかけたフラワーケーキだった。
「あのね、シシーさん」
厳しい表情の侯爵夫人が突然、話を切り出した。
「エドガーがずいぶん失礼なことを言ったと聞いているわ。あの子が謝罪するべきなのだけれど、会いたくないだろうから私たちに謝罪させてほしいの」
「同じくだよ。あのとんでもなく愚かなエドガーだけど、本当は……」
前侯爵夫人も何か言いかけたけれど、シシーは失礼を承知で遮った。エドガーが愚かと言われたのが嫌だったのか、話の続きを聞くのが嫌だったのかはシシーにもわからない。
「あの! いえ、私が悪いのです。アントワープ子爵のデッサンが見たくて、自分の立場を忘れていました。申し訳ありませんでした。今後はあのようなことがないようにします」
「いえ、あなたはあの場はマインドスケープ子爵令嬢として招かれていたのだから」
「どうか、この話は『シシーが愚かだった』ということで忘れていただけませんか」
シシーは深く頭を下げた。それで、前侯爵夫人も侯爵夫人もそれ以上何も言えなくなってしまった。
(『私は辞めたほうがいいですか?』ってやっぱり聞けなかった。でも、やっぱり出て行こう。それで、すべて解決だわ)
そう思って、涙を流す。シシーは、まさかエドガーが地にのめりこむほどの勢いで悩んでいるとは夢にも思わずに、ひとりで抱え込んでいた。
ちょうどその頃、シシーからの信託財産の問い合わせを受けた、バーグ伯爵家はすでに騒ぎになっていた。
(確かに聞いてはいたけれど、すっかり忘れていた……。こっちもゲオルグが使い込んだ可能性があるな)
シシーの亡き母の異母弟である、現バーグ伯爵は、おびただしい量の紙を放り投げた。
ゲオルグは、バーグ伯爵家の顧問弁護士だ。バーグ伯爵家の財産の一部を使い込んだことが発覚してしばらくたっていた。ゲオルグは、とっくに夜逃げしていて、バーグ伯爵は後始末に追われているところだった。
(……仕方がない。ありのままをシシーには報告するしかない。うちも損失を負っていて、それどころではないんだ)
バーグ伯爵は、シシーの亡き母にもシシーに対しても親愛の情を持っていなかった。本来、バーグ伯爵家が責任をもって、ゲオルグ弁護士の監督をするべきなのだけれど、知らぬ存ぜぬを通すことにした。
(知らせを書こう。貴族院と保安警備隊へは、彼女の被害についても、一報を入れておこう、それで私の務めは終わりだ)
バーグ伯爵は、短い手紙をさっさとしたためると、使いを出した。そこにはこう書かれていた。
『貴女の信託財産については、亡きバーグ伯爵夫人により管財人に指定された弁護士の不手際により不明。バーグ伯爵家も損失を被ったため、あわせて、貴族院と保安警備隊へ届け出をする。なお、詳細不明のため、当方の新しい顧問弁護士もしくは、保安警備隊へ問い合わせされたし』




