30. 二人きりでハーブティーを
(シシーの医務室のバイトまであと三十分しかないな。俺の会議まであと一時間だから、シシーとお茶は二十分、送っていくのに往復十分、残りの三十分で資料の見直しができる。よし! 十二分に余裕がある)
『冷血騎士団長』という二つ名を持ち、仕事の鬼として名高いエドガーは、頭の中ですぐに計算すると、仕事のことは忘れて、シシーを堪能することにした。
(毎日女神を拝むのが当然になっていたんだな)
騎士団長室は、騎士団が専有している荘厳な三階建ての建物の最上階、会議室のひとつ上の階にある。王族の居住する城に近いため、セキュリティが厳しく、侯爵家でも両親しか入館許可証を持っていない。侯爵夫人はその許可証をシシーに持たせていた。
(ありがとうございます、母上)
まさかその母が、今まさにエドガーを見捨てて、シシーに他の縁談を進めているとは夢にも思わないで、感謝を捧げる。
エドガーを先頭に、やや間を開けてシシー、そのすぐ後ろにはベルダや護衛が張り付いている。まるでシシーが逃走するのを警戒しているかのようだ。
会議室からたった一階移動するだけなのだけれど、会議に出ていた騎士たちが噂を広めていたので、いつもは静かな廊下を通る者たちが異常に多い。
彼らはすれちがいざまに、ポカンと口を開けながら、エドガーとシシーを凝視している。
女性騎士はいるけれどごく少数で騎士服姿だし、そうではない女性は、幹部の母親か妻くらいしか見かけない。ご令嬢たちが見学できる鍛錬場は、王宮の門の近くにある。
それなのに、なぜか、未婚で婚約者もいない『冷血騎士団長』が、小柄でうら若く、可愛らしい女性を伴って歩いている! しかも、ニヤけ顔のような
、いや、上機嫌で!
驚愕する彼らの視線を一身に受けるシシーは、身を縮こまらせているのに、エドガーは全く気にすることなく、考え事にふけっていた。
(そう、毎日拝むのが当然になってしまっていて、見ているだけで満足してしまっていた。深く反省だ。アレクシスたちの言う通りだ。コミュニケーションが必要なのだ、頑張れ俺!)
固く決意したエドガーは、団長室の前まで来ると、ベルダや護衛に言った。
「シシー嬢に祖母のことで話がある。ドアは少々開いておくから、部屋の前で待っていてくれないか。誰か来ても止めてくれ」
「「「かしこまりました」」」
ベルダは、心の中で大声援を送りながらも表情には出さずに、差し入れの籠を手渡すと頭を下げた。
「シシー嬢、中へどうぞ」
「……では少しだけ失礼いたします」
団長室は、無駄に広く豪華だ。重厚な扉を開けると、深緑の絨毯の上には、宰相室と同じ、上質な応接セットが置かれている。
隣には同じ広さの執務室、さらに奥には仮眠室がある。仮眠室と言っても、侯爵家の寝室とあまり変わらない。
エドガーは、その豪華さに、内心眉をひそめてきた。しかし、退役した騎士団長たちからは『騎士団は、国家と国王陛下の安寧を守ることが役割であるが、国中の若者の憧れだ。その頂点たる騎士団長は、彼らの規範であるだけでなく、彼らを鼓舞し、立身出世を目指すに足る存在でなければならない』と言われて、いちおう納得している。
しかし、今日に限っては心配しかない。
(この団長室だと、えらっそうで、年寄り臭すぎないか?)
シシーがほとんど周りを見ないまま腰かけると、エドガーは魔道具を使って、二人分のお茶を入れようとした。ちなみにエドガーは一度しか使ったことがなく、いつもは副官や秘書が入れてくれる。
「閣下。恐縮ですわ」
「閣下呼びになっている。他の者がいないときは約束したはずだ」
「エドガー様。お言葉ですが、私のことは『シシー』と」
「わかった」
エドガーが、どんな女性の心も溶かす笑みを浮かべたので、シシーの心臓はどきりとはねた。『エドガー様』と呼ぶたびにこんな笑みを向けられたらたまらない。できるだけ名前呼びは避けようと心に決める。
器用なエドガーがまたたく間に、ハーブティーを二人分用意する間に、シシーは大きな籠からジュディス手製のデザートを取り出すと、エドガーから受け取った皿に盛り付けた。
エドガーは、お茶をシシーに恭しく給仕し、二人きりのお茶会が始まった。
「ありがとうございます……まあ、青色!」
「変わっているだろう? ブルーマロウというらしい。昔、出張先の外国で買ってきたんだ」
「綺麗だし、すばらしく良い香りですわ……ミントとカモミール、あとは何かしら!? 本当においしいです」
「それは何よりだ。ハーブティーは好きかい?」
「はい、とても」
シシーは、うれしそうな顔で、大事そうにハーブティを味わっている。
「私も好きだ。お茶のことなどよくわからないのだが、気分が落ち着く気がして、たまに飲むんだ。……リラックスしたい時に」
「お忙しいからですね」
「まあまあだ。ただ、重要人物に会うときとか、大事な会議とか交渉のときに飲む」
「勝負の時ですか? この後、何かあるんですか?」
「…………」
(…………ちがう。そうじゃない)
エドガーは、自分のまわりくどさは棚に上げて、心の中でツッコミを入れる。ジュディスのタルトをエドガーが食べるよう促すと、シシーはイチゴタルトを選んでうれしそうに口に運び、とろけるような顔になった。
「そういえば、君が我が家に来てくれて、もう……二週間以上たつか。何か困ったことはないかい?」
「全くありません! 皆様、とても良くして下さいます。私に何か不足があるのではないかということが心配なのですが、いかがでしょうか?」
「……いや、君に不足など全くない。今のままで、是非お願いしたい。では具体的に聞こう。おばあさまは、君がいつも忙しそうにしていると心配していたけど、そこはどうだろう?」
「え。前に比べますと、余裕たっぷりなのです。『他の仕事もできそうだ』とアーサーさんにも伝えておりますの」
(そんなに忙しくしなくていいんだ。もっと余裕たっぷりでいてくれ! ただでさえ隙がないのだから)
張りきるシシーを少々恨めしく思いながら苦笑してしまう。
(そんなこと思ってはいけない。女神がせっかく頑張ってくれているんだから)
「いや、本当に十二分の働きだ……そういえば、母上からまだ聞いていないと思うのだが……アレクシスからオペラのチケットをもらったんだ。興味あるかい?」
「……あの、オペラ鑑賞はしたことがなくて。噂には聞いているのですが」
「実は、かの国にいたのに、私も行ったことがないんだ」
「え、そうなのですか!?」
隣国で、王室の支援を得た音楽家たちによって、発達してきたオペラは、年に一度か二度、海外公演まで行う。この国でも、上流階級で爆発的な人気なのだけれど、女性同士かカップル向けの催しだ。婚約者も公式な恋人もいたことがないエドガーには無縁だった。
「うちは、祖母はもちろん、全員好きなんだ。特にダリアは夢中で、私の留学中にわざわざ来たくらいだよ」
「そうなんですね」
「音楽には、興味があるの?」
「そうですね、幼い頃にピアノを習ったくらいなんですが、嫌いではないです」
(……残念だが、我が女神はオペラにあまり興味がなさそうだ。パンの魔道具の話の方が盛り上がってしまう……)
エドガーは、掛け時計をにらむ。シシーは、いつの間にかイチゴのタルトを食べ終え、ブルーベリーのタルトを見つめている。
(残り十分しかない。オペラの件は、母上に任せよう)
侯爵夫人が聞いたらまた激怒しそうな押しつけを一旦、心に決めた。
「そのタルトもどうぞ……。母上から何か話があると思うから、考えてみてくれたらいい。たしかコンサートホールに併設されているカフェでは、外国の珍しい料理やデザートが食べられるとかで人気らしい」
「! そうなのですね。外国の料理はこの国ではなかなか食べられませんしね」
(やってしまった! 食べ物の話はしないと決めていたのに! それにしても、やはり食べ物の話への食いつきは違うな……、封印したいのに、できない……)
エドガーは苦悶しながらも、今日は決してあきらめはしなかった。残り時間は、攻撃にあてることにした。
(よし、負けるな。がんばるぞ)
「外国に興味ある?」
「もちろんですわ。留学なさったり、お仕事とはいえ外国に行かれる閣下が、いえ、エドガー様がうらやましいですわ」
シシーは、目を輝かせながら、うきうきと答えた。
「外国に行ってみたいのかい?」
「そうですね、是非行ってみたいです! いろいろな国の料理を食べてみたいし……他には……うーんと」
食べ物以外に思い浮かばないシシーに、また内心苦笑しながらエドガーはにこやかに言った。
「うちの女性陣はちょっと例外だけど、女性が外国に行く機会はなかなかないからね」
「はい。現実的に考えたら、私がものすごい医者になって、少々出稼ぎに行くという手がいちばん……」
(それは困るだろう! 絶対にだめだ!)
「そ、そうだね。医者はどの国でも喉から手が出るほど欲しい人材だから……。でも君は、我が国で必要なのだから許可が出ないと思う」
「そんなことありませんわ! でも私は、弟と領地を守って生きていきますので叶わない希望ですが」
シシーは、いつものようにそう言いながら、ちくりと胸が痛むのを感じた。
(あれ、何で? どうしたんだろう、私)
シシーが自分の心の揺れに戸惑っていると、エドガーは優しく言った。
「君は家族思いですばらしいね」
エドガーは、シシーのそんな宣言を聞いたのは初めてではなかったので、すっかり打たれ強くなっていた。動揺することなく、続ける。
「領地に帰るにしても……最近また新婚旅行が流行っているのを知っているかな? 何を隠そう、我が国で新婚旅行に初めて出かけたのは、前侯爵夫妻である、わが祖父母なんだよ」
「え、そうなのですか!?」
「うちの祖父は、外国へ連れて行くという殺し文句で、祖母を口説き落としたんだ。私もいざというときは、その手を使うつもりだ」
「まあ、そうなのですね」
(エドガー様は、誰か思う方がいるのかしら……)
シシーは微笑むことができなかった。それまで楽しんでいたハーブティ―とタルト、エドガーとの会話が急に色あせていく。
「もう一つ、どうだい?」
「いえ、もういっぱいですわ」
まもなく時間切れになったので、シシーは席を立ち、医務室へ向かった。医務室まで送ると言い張るエドガーをなだめすかして、会議室へ行かせた。
しばらく、シシーは少し気持ちが落ちたままで、そんな自分に戸惑っていた。




