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23. 前侯爵夫人の妄想

 侯爵邸では、シシーは心穏やかに過ごしていた。


 朝起きる時間も、夜眠る時間もこれまでと同じ。でも、働く時間は減ったし、お金の心配もなくなったし、侯爵家で暮らす人たちのための仕事は、彼女に働く喜びをもたらした。


(知らなかったけど、私は、誰かの喜んでくれる顔が見れるのが好きなのかも。誰もが、みんないい人で、笑顔で礼を言ってくれるのがうれしい)


 それに素敵な部屋と、贅沢な食事。これまでのシシーは、朝や夜は王宮の食堂で取っていたけれど、時間がない日は抜くしかなかった。


 エドガーからもらった自動パン焼き機も、侯爵家の一流の職人が焼く焼き立てのパンにはかなわない。食事だって、王宮の食堂よりもずっと上品で美味なのだ。


 しかも、シシーはおやつにお菓子を持たせてもらえる。エドガーが約束してくれたことだけれど、いつも感激するシシーだった。


(幸せです……。ここは本当に天国だわ)


 まさかお菓子が、エドガーの罠の一つだとは夢にも思っていない。


 朝は、雲のような寝心地の寝具で目覚めると、ゆったりと身支度をする。


 制服だと、散歩しづらいだろうということで用意された、動きやすい紺色のデイドレスを身に着ける。八分袖で、上半身はややタイトなシルエット。ドレーブが優雅に揺れる。これがシシーの侯爵家での服装だ。同じものを三着あつらえてもらえた。


 そして、まだ薄暗い廊下を歩いて、使用人食堂へ行き、朝食をとる。


 侯爵夫人やエドガーたちからは、家族で食べる食堂でと誘われることもあるけれど、そこは固辞している。ただ、話し相手は仕事の一つなので、お茶はよくご一緒している。


 週末になると、エドガーも入る。ダリアが『お兄様帰ってきすぎよ』と時折こぼしているけれど。


「失礼いたします」


 ノックをして返事を待ってから、先輩の侍女であるベルタとそっと()侯爵夫人の部屋の扉を押し開く。シシーは、朝の支度は、()侯爵夫人付きになった。


 天蓋付きの豪華なベッドの中で、()侯爵夫人は起き出したばかりだった。ベルタとシシーがあいさつをすると、夫人は伸びをしながら座りなおす。


「大奥様、今朝のお召し物はいかがなさいますか?」


 ベルタは、若いけれど気が利くということで前侯爵夫人のお気に入りだ。裕福な商家の長女で、花嫁修業の一環で来ているのだけれど、すでに完成されている。


「そうね……今朝も散歩だから、コルセットなしの楽なドレスで。シシーが選んできてくれたものでよいわ」


 シシーとベルダは、前侯爵夫人の身支度をする。といっても、シシーはベルタに指示されるがまま、洗面器を片付けたり、衣装や装飾品を揃えたりするお手伝いだ。最近、ベルタのおかげで髪を結えるようになった。


 ベルタに習ったとおり、鑑の前に腰かけた()侯爵夫人の髪に、ゆっくりと櫛を入れてから、結い上げていく。ベルタは丁寧に化粧を施していく。


 結い上げた髪を、丹念にベルタが確認する。()侯爵夫人の演奏家らしく美しい姿勢や、ベルタの流れるような所作は、一幅の絵画のようだ。シシーが見とれていると、()侯爵夫人と目が合った。


「シシーは、何でもすぐ吸収して上手にできるようになるのね」

「いえ、そんな。……ではなくて、どうもありがとうございます。ベルタさんが根気よく教えてくれました」

「いえ、シシーさんがとても根気あるんですよ。器用でいらっしゃるし」


 ()侯爵夫人とベルタに褒め殺しにされて、シシーは恐縮した。確かに()侯爵夫人の髪型は素敵だ。シシーは見て真似をするのが得意だった。


「指が音楽家向けだわ。楽器はやらなかったの?」

「たしなみ程度ならば。子供のころは、あまり興味がなかったと言いますか……」


「時間ができたら……、そうね、私が教えるわ」

「そんな滅相もない!」


 しかし、()侯爵夫人の頭の中では、すでにピアノを演奏するシシーと、それに聞き入るエドガーの絵ができあがっていた。


(シシーの後ろに立ったエドガーが、肩に手を置いて……。そして、演奏が終わったとき……『君はすばらしいよ、私の女神』とか何とか言って、手に口づけをするのよ! あ、これは亡くなったアルフォンソが……)


 ()侯爵夫人は、亡き前侯爵の愛情表現の数々を思い出しながらにんまりする。彼女は、若いころから、恋愛小説や妄想が大好きだった。


 亡き前侯爵であるアルファンソは、妻の期待以上に妻を愛し、その生涯にわたって、愛を表現してきたのだ。


(あと、演奏が終わったら後ろから熱烈に抱きしめるの! アルフォンソより大胆に! 何ならそのまま抱き上げて……)


「さあさあ、大奥様、お散歩に参りましょう!」


 時計を見て、腕まくりしながらシシーは大声で言った。


(ちっ、まじめな子だわね。エドガーも堅物だし……でも、二人並んだ絵は悪くないわ。二人は身長差、体格差もすごいから、壁に手をついて、シシーに愛を囁くエドガーは絶対に見たいわね……)


 ()侯爵夫人は悪い顔になった。庭に出ると、まだ眠そうな侯爵夫人と合流した。ハードに散歩させられながらも、こっそりと妄想を続けた。


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